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その夜、軽部順一は月あかりの中で、思うさまに律子を抱いた。
理由は何もなかった。理屈も思いうかばなかった。くちづけをかわしながら眼下の入海を行く満艦飾の船を見たとたん、軽部のうちで長いことこらえ続けていた感情が、音を立ててはじけ飛んだのだった。
律子を抱きかかえてベッドに倒れ伏すと、飢えた少年のように衣服をはぎ取った。この女を愛し続けていたのだと軽部は思った。
十五年の暮らしは幻想だったのかもしれない。これこそ幸福なのだと、まるで呪文を唱えるように自ら言いきかせてきたのだろう。
何ひとつ欠けるもののなかった生活を、さしたる理由もなく捨ててしまったのは、少なくとも男の煩悩ではなかった。呪文の効力が途切れた一瞬、まやかしの幸福に気付いたのだ。
十五年前に捨てた女への愛のためだとは思いたくなかった。しかし律子の体を胸の中に抱き取ったとき、軽部はおのれの愚かしさを思い知った。十五年の間、ただひとつしかない真実を偽り続けてきたのだとはっきり思った。
律子は軽部の身勝手な愛に全身で応えてくれた。
「ねえ、順ちゃん・・・・」枕に俯せたまま、乱れた髪の中で律子は言った。
「私、変な感じがした」
「変な感じ、って?」
律子は少女のような笑い方をした。少しも衰えぬ体の線が、窓辺の月光に隈取られている。
「笑わないでよ」
「ああ。笑わないさ」
「あのね・・・私ずっとジグゾーパズルをしてた」
「ジグゾーパズル?・・・・何だよ、それ」
問い返すそばから、意味がわかった。説明を聞きたくなかった。
「いろいろな男の人と付き合って、セックスするたびにいつも思ったの。これもちがう、やっぱりちがう、って」
軽部はふと、再会した夜に訪れた律子の部屋の様子を思い出した。
別れたころと何ひとつ変わっていなかった部屋。黄ばんだクロス貼りの壁に、ヨーロッパの街を描いた大きなジグゾーパズルが架かっていた。
「どんなにすてきな人でも、ぴったりと合わさらない。体にも心にもすきまがあった。それに気が付くと何もかもが合わなくなって、結局は別れちゃった。みんな、なぜだって訊いたわ。そりゃそうよね。いつだって別れる理由はなかったんだから」
「遊びだったのか、みんな」
ノー、と律子は髪を上げて、指を振った。
「私はそんなにはすっぱな女じゃない。いつだって抱かれてから愛したわけじゃないわ。愛した人に抱かれた」
「それは大したものだ。いかにも君らしい」
「でも、それって辛いわよ。愛したことは確かなんだから。愛しているのに、どこかちがう。心も体も、すきまだらけ」
「そういうすきまは、愛し合いながら埋めて行くものじゃないのかな」
律子はもういちど目の前で指を振った。
「はじめのうちは努力したわ。でも、相性というやつは生まれついてのもので、どうにもならないの。ジグゾーパズルをむりやり作るようなものだった」
言葉にならぬ自分の胸のうちを、律子はすべて代弁してくれている。愕きながらも、軽部は苦笑せずにはいられなかった。
「この前、新宿のホテルで一緒に寝たときね、私、こわくて仕方がなかったの。もし私とぴったり合う世界でただひとつのピースがあなただったら、どうしようと思って」
「世界でただひとつ、か。大げさだね」
「いえ、ちっともオーバーじゃないわ。ひとりでジグゾーパズルを作りながら考えてたもの。何百のピースが目の前にあっても、ぴったりと合うのはひとつだけ」
「それが僕だったらどうしよう、というわけか」
「そう。ずっと昔に、いったん手に取ったんだけれど、どこか手の届かないところに飛ばしてしまった一個。もしそれが正解だったら、私は十五年もかけて無駄なことばかりしていたことになるから」
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浅田次郎の「シェラザード」からの引用。
十五年前、出世のため律子を捨てた軽部。太平洋の貴婦人と言われた豪華客船「弥勒丸」引き上げを巡って再会した二人の会話。
「たったひとつのピース」という言葉に感動し、引用してみた。
その夜、軽部順一は月あかりの中で、思うさまに律子を抱いた。
理由は何もなかった。理屈も思いうかばなかった。くちづけをかわしながら眼下の入海を行く満艦飾の船を見たとたん、軽部のうちで長いことこらえ続けていた感情が、音を立ててはじけ飛んだのだった。
律子を抱きかかえてベッドに倒れ伏すと、飢えた少年のように衣服をはぎ取った。この女を愛し続けていたのだと軽部は思った。
十五年の暮らしは幻想だったのかもしれない。これこそ幸福なのだと、まるで呪文を唱えるように自ら言いきかせてきたのだろう。
何ひとつ欠けるもののなかった生活を、さしたる理由もなく捨ててしまったのは、少なくとも男の煩悩ではなかった。呪文の効力が途切れた一瞬、まやかしの幸福に気付いたのだ。
十五年前に捨てた女への愛のためだとは思いたくなかった。しかし律子の体を胸の中に抱き取ったとき、軽部はおのれの愚かしさを思い知った。十五年の間、ただひとつしかない真実を偽り続けてきたのだとはっきり思った。
律子は軽部の身勝手な愛に全身で応えてくれた。
「ねえ、順ちゃん・・・・」枕に俯せたまま、乱れた髪の中で律子は言った。
「私、変な感じがした」
「変な感じ、って?」
律子は少女のような笑い方をした。少しも衰えぬ体の線が、窓辺の月光に隈取られている。
「笑わないでよ」
「ああ。笑わないさ」
「あのね・・・私ずっとジグゾーパズルをしてた」
「ジグゾーパズル?・・・・何だよ、それ」
問い返すそばから、意味がわかった。説明を聞きたくなかった。
「いろいろな男の人と付き合って、セックスするたびにいつも思ったの。これもちがう、やっぱりちがう、って」
軽部はふと、再会した夜に訪れた律子の部屋の様子を思い出した。
別れたころと何ひとつ変わっていなかった部屋。黄ばんだクロス貼りの壁に、ヨーロッパの街を描いた大きなジグゾーパズルが架かっていた。
「どんなにすてきな人でも、ぴったりと合わさらない。体にも心にもすきまがあった。それに気が付くと何もかもが合わなくなって、結局は別れちゃった。みんな、なぜだって訊いたわ。そりゃそうよね。いつだって別れる理由はなかったんだから」
「遊びだったのか、みんな」
ノー、と律子は髪を上げて、指を振った。
「私はそんなにはすっぱな女じゃない。いつだって抱かれてから愛したわけじゃないわ。愛した人に抱かれた」
「それは大したものだ。いかにも君らしい」
「でも、それって辛いわよ。愛したことは確かなんだから。愛しているのに、どこかちがう。心も体も、すきまだらけ」
「そういうすきまは、愛し合いながら埋めて行くものじゃないのかな」
律子はもういちど目の前で指を振った。
「はじめのうちは努力したわ。でも、相性というやつは生まれついてのもので、どうにもならないの。ジグゾーパズルをむりやり作るようなものだった」
言葉にならぬ自分の胸のうちを、律子はすべて代弁してくれている。愕きながらも、軽部は苦笑せずにはいられなかった。
「この前、新宿のホテルで一緒に寝たときね、私、こわくて仕方がなかったの。もし私とぴったり合う世界でただひとつのピースがあなただったら、どうしようと思って」
「世界でただひとつ、か。大げさだね」
「いえ、ちっともオーバーじゃないわ。ひとりでジグゾーパズルを作りながら考えてたもの。何百のピースが目の前にあっても、ぴったりと合うのはひとつだけ」
「それが僕だったらどうしよう、というわけか」
「そう。ずっと昔に、いったん手に取ったんだけれど、どこか手の届かないところに飛ばしてしまった一個。もしそれが正解だったら、私は十五年もかけて無駄なことばかりしていたことになるから」
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浅田次郎の「シェラザード」からの引用。
十五年前、出世のため律子を捨てた軽部。太平洋の貴婦人と言われた豪華客船「弥勒丸」引き上げを巡って再会した二人の会話。
「たったひとつのピース」という言葉に感動し、引用してみた。