★ジャズマン紹介★
ジャズを世界中に広めた、トラディショナルなジャズのジャズマンを紹介します。
William.C.Handy. (ウィリアム.C.ハンディ.).
コルネット奏者,ピアニスト,作曲家。
本名は、William Christopher Handy.
1873年11月16日.アラバマ州フローレンスに生まれた。
彼は有名な「St. Louis Blues 」によって、「ブルースの父」と呼ばれ、ジャズ史上に不滅の名を遺した。
また、ブルースの形式をはっきりした形で、おおやけにしたのは、Handy.が最初であり、
ブルースという言葉も、のちになってから彼によってつけられたと言われている。
1909年.に「メンフィス・ブルース」が作曲され、1913年に「ジョゴ・ブルース」の作曲に続き、
「セントルイス・ブルース」は第三番目の作品で1914年に出版された世界的な傑作である。
この不滅の名曲は、Handy.がセントルイスを放浪していた頃の悲惨な生活を書いたものと言われている。
幼少時代、メソジスト教会の牧師をしていた父は、情操教育のつもりでHandy.に古典音楽を教えた。
父に内緒で買ったコルネットをかかえて、ブラス・バンドに参加し、19歳の時にバーミンガムで教師になった。
しかし、音楽的な才能を持ち、音楽が好きでたまらなかったHandy.は薄給を理由に教師を辞めた。
彼は、ベッセマーのパイプ工場で働きながら、音楽を学んだ。
その頃、シンコペーションとスイングの音楽を知ったのである。
同年「ローレッタ・クワルテット」という楽団に入り、プロのバンドマンになって、各地を巡業するようになった。
しかし、プロになったとはいえ、完全に生活ができるわけではなく、セントルイスに着いた時には、
ボロボロの服をまとい、空腹のために倒れんばかりであったという。
この時の体験が、「セントルイス・ブルース」を作曲する動機となったのである。
やがて、ミンストレル(宮廷に仕えた職業芸人)のトランぺッターとなり、編曲もやるようになった。
そして、1909年には、メンフィスで小さなバンドを持っていたが、市長選挙があって、
候補者:クランプ氏の選挙運動のために雇われたのである。
この時、「ミスター・クランプ」という曲をつくって、市中を演奏して歩いて、
評判がとても良く、そのために、クランプ氏は当選した。
この曲はのちに「メンフィス・ブルース」と改題されて有名になった。
Handy.は以前から黒人の民謡の歌詞やメロディをノートし、音楽として独特のものであると思っていた。
さらに古臭い、12小節の歌などを思い出して「ミスター・クランプ」を書いたのである。
わずか、12小節からなる古い歌の形式がブルースであったが、ブルースという言葉はなかった。
南北戦争後には黒人たちによって良く歌われ、ラグタイム・ピアニストたちに演奏されていた。
Handy.は、それらを集め、素材として作曲するまでは、世に出なかったのである。
やがて、Handy.は約60曲ほどの作品を世に出した。
晩年には出版社を経営しながら、TVやステージの仕事を続け、
黒人俳優ユニオンをつくったり、盲人たちのために、ハンディ基金を設立した。
Handy.の生涯は、1960年に映画「St. Louis Blues.」で紹介されました。
1958年3月28日.多くの人々に惜しまれながら、亡くなりました。

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end.