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エリック・カルメン ERIC CARMEN 

さて、LOOKに続き、今まで書いてこなかったアーティスト達を紹介していきましょう。

エリック・カルメンは1969年サイラス・エリーというバンドの一員としデビュー。
その後、1971年RASPBERRIESラズベリーズを結成し、セカンド・シングルの「ゴー・オール・ザ・ウェイ」がミリオン・ヒットとなり、一躍全米で注目を集めるようになりました。
ラズベリーズは高校時代にあのH氏に教えてもらいました。
H氏は自分が好きなアーティストを必ず私に聴かせてくれました。

聴いた感じは元気の良いメロディアスなロックン・ロールという感じでいいんですが、初期のビートルズのような感じがしてアメリカ版ビートルズ?
その中でもエリック・カルメンはなんかポールっぽい感じがしておりました。
その頃私はまだポールがあまり好きじゃなかった。

しかし、ソロになっての「オール・バイ・マイ・セルフ」は大ヒットし、私も初めて聞いた時は感動しました!
この曲は映画「ブリジット・ジョーンズの日記」のなかでも効果的に使われていましたが、永遠のスタンダードでしょうね。

写真は私がなぜか1枚だけ持っているソロ第2弾「Boats Against The Current:雄々しき翼」です。
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ローリング・ストーンズ The Rolling Stones

1990年についに来日した超大物バンド!!!
そうです!それはもちろんローリング・ストーンズです!!!
ストーンズといえば、言うまでもなくビートルズと並び世界的に有名なイギリスのロックバンドです。

メンバーは、

ミック・ジャガー
キース・リチャーズ
ロン・ウッド
チャーリー・ワッツ

そして、旧メンバーの、
ブライアン・ジョーンズ
ミック・テイラー
ビル・ワイマン

私が聴きだした頃は中学生。
当時はアルバム「山羊の頭のスープ」を発表した頃で、「悲しみのアンジー」が流行っていましたが、私の洋楽好きの友人は「アンジー」に対し「ミックは手を抜いている!こんな軟弱な曲作りやがって。」と酷評していましたが、この曲は大ヒット!でも、酷評した彼も実はストーンズが大好きだったのです!
翌年には「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」を発表。たかがロックンロール!こんなカッコいい詞はストーンズにしか作れません。

この頃、ギターのミック・テイラーが脱退しそのあとにフェイセズからロン・ウッドがゲストという感じで参加していたと思いますが、どうもロン・ウッドはストーンズのカラーに合わない感じがして変な感じでした。その後正式にメンバーとなり今はすっかり溶け込んでいますが。。。
しかし「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」は実はロンの作曲だったという話を最近知りこれまたびっくり!!!

さて、なんといってもストーンズの魅力はミック・ジャガーとキース・リチャーズの強烈な個性といかにも男っぽい、不良っぽい所だったと思いますが、ビル・ワイマンとチャーリー・ワッツもストーンズに欠かせないメンバーであったと思います。特にビル・ワイマンの脱退を聞いた時は結構ショックでした。
ストーンズの中においては、地味ながら個性的な静かなベーシストというイメージで、なんかビートルズのジョージを髣髴させる存在という感じがしていました。
チャーリーのいかにも人のよさそうな風貌とジャズもこなすドラムは最高!
そして、実は私はヴォーカリストとしてのキースのファンでもあり、彼のソロCDも購入しております。

私的にはビートルズほどの影響は受けないにしろ、やはりビートルズにはないワイルドさは魅力でした。
多くは語れませんが、曲も「黒く塗れ」「サティスファクション」「ダイスをころがせ」「夜をぶっとばせ」「ギミー・シェルター」「ブラウン・シュガー」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」などのおなじみのナンバーはもとより「ルビー・チューズディ」「アズ・ティアーズ・フォー・バイ」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「悲しみのアンジー」などのバラードも良かった!

そしてストーンズの魅力が最大限に発揮されるのはライヴです!!!
そのせいかレコードやCDよりもビデオ、LD、DVDなどのライヴ映像の方を結構持っていますね。
私は1990年、1995年、2003年と3回見に行っています。
最近は毎回これが最後といわれていますが、まだまだエネルギッシュなライヴを魅せて欲しいものです!
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SAMMY HAGAR⑪再びソロへ WABORITAS誕生

1997年サミーはヴァン・ヘイレン脱退後、初ソロアルバム「MARCHING TO MARS」を発表。
なぜこのアルバムが問題なのかというとこのアルバムには一貫したテーマ、コンセプトがあるからなのです。
それはあるバンドに向けられているうらみつらみ!?じみたものでした。
あるバンドとは、そう、ヴァン・ヘイレンです。

このアルバムには豪華ゲストが参加しています。
スラッシュ、ヒューイ・ルイス、ロニー・モントローズ、エリック・マーティン、他にも元モントローズのビル・チャーチ、デニー・カーマッシーなどなど。

サウンドもバラエティに富んでいて、前のソロ時代とはちょっと違う感じがします。
なんというかヴェテラン・ロッカーの余裕の1枚という感じ。

脱退したバンドを皮肉るというのはサミーの得意技?なのか、あのモントローズを脱退した時にもソロデビューアルバムでやってるのです。歴史は繰り返すのでしょうか?
このアルバムはそんな内容も幸いしてか?
全米第18位と過去最高位を記録します。

そしてついにサミーの新しいバンドができました!
そのバンド名はWABORITAS!
メンバーは、
ヴィック・ジョンソン(G)
モーナ(B、Vo)
デヴィッド・ラウザー(Ds)
ジェシー・ハームス(Key)

ヴィックとモーナはサミーがオーディションでジャムって決めた新しいメンバーです。
ヴィックもユニークな(どこが?)ギタリストらしいのですが、ベースのモーナは女性です。
サミーはヴァン・ヘイレン時代マイキー(マイケル・アンソニーb)の超高音ハーモニーを高く評価していました。
サミーよりも高い音域を持つマイキーのようなアーティストはめったにいない。しかし、ソロでもヴァン・ヘイレンの曲をやるためには高音ハーモニーは欠かせない。。。
しかし、女性ヴォーカルに視点を変えればそれはそれほど難しくないことに気がついたというわけです。
かくして、サミーの新しいバンド「WABORITAS」が誕生したのです。
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SAMMY HAGAR⑩Van Halen脱退とソロ活動

さて、サミー・ヘイガー感動の日本公演VAN HALEN BALANCE TOUR終了後、私は仕事の関係で転勤し、また洋楽に疎くなってしまいました。
皮肉なことにアルバム「BALANCE」発表後、バンド内のバランスは崩れ、1996年6月28日サミーはヴァン・ヘイレンを脱退。
再びソロとしての活動を再開することになります。

ソロといえばヴァン・ヘイレン時代に1枚ゲフィンからソロ・アルバムを出していますが、これはゲフィンとの契約が残っていたためでヴァン・ヘイレンで成功を収めた後の1987年に「ヘイガーUSA」(写真)というタイトルで出しています。これはMTVで視聴者からの応募によって決められたタイトルだという話ですが、後にいつのまにか「I NEVER SAID GOODBYE」というタイトルになっていますが、ジャケットのどこにもこのタイトルは見当たりません。というかタイトル自体がどこにもない!?でも、このジャケットのサミー、カッコいいんだよな~
サミーのソロで一番決まってるんじゃないかと思います。

このアルバムのプロデュースはエディ・ヴァン・ヘイレン。
どうりで今までのソロより垢抜けたサウンドになっていると思いました。
メンバーは、

サミー・ヘイガー(Vo.G)
エディー・ヴァン・ヘイレン(B)
ジェシー・ハームズ(Key)
デヴィッド・ラウザー(Ds)

ジェシー・ハームズとデヴィッド・ラウザーは前作「VOA」からのメンバー。
ここで興味深いのは前作のギタリスト、ギャリー・ピルがボストンに引き抜かれたということです。
アメリカン・ハード・プログレともいわれるテクニック集団ボストンの3枚目「サード・ステージ」に参加していたとは!?
あのアルバムの名曲「アマンダ」は大好きな曲でした。
サミーのバンドメンもなかなかのツワモノぞろいだったかと思うと嬉しくなります。


さて、ヴァン・ヘイレン脱退の翌年、サミーは問題のソロバルバム「MARCHING TO MARS」を発表します。
しかし、このアルバムを私が聴くのはまだ2,3年後でその頃はサミーがヴァン・ヘイレンを脱退したことさえ知らないでいたのでした。
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SAMMY HAGAR⑨Van Halen黄金時代

サミー・ヘイガー、ヴァン・ヘイレン在籍時の栄光の記録です!

1986年3月、7枚目のアルバム「5150」リリース。 新生ヴァン・ヘイレン全米最高1位。同じくシングル「Why Can't This be love」も余裕の大ヒット!
1988年5月、8枚目のアルバム「OU812」リリース。 全米1位。
1991年6月、「F@U#C%K」(For Unlawful Carnal Knowledge)リリース。 全米初登場1位。
1993年2月、初のライヴ・アルバム「Live:Right Here, Right Now」リリース。 全米最高5位。
1995年1月、アルバム「Balance」リリース。全米初登場1位。

この間、1989年、1995年と2度来日公演を行っています。
もう、この記録を見ただけでスゴイの一言!

まさにハード・ロック界を制覇しモンスター・バンドとなってしまいました。
私は幸運にも1995年のサミー在籍時最後の日本公演を見に行っております。
ただしよく覚えていない。
このコンサート・レビューは次回アップします!

ヴァン・ヘイレンはサミー加入以前はエディのライト・ハンド奏法によるギターワークなど、ハード・ロック・バンドとして興味のあるバンドではありましたが、ヴォーカルのデヴィット・リー・ロスのイメージのせいか曲よりもビジュアル的なイメージが強いバンドでした。
しかし、このバンドにサミーが加入するとなると話は別です。
サミーのヴォーカルとエディのギターの絡みは想像しただけでワクワクする!
こんな思いは80年代になるとロックでもなかなかありませんでした。
まるでプロレスで猪木と坂口が組んだ新日や例えば猪木と鶴田が組むというようなまさに夢のタッグなのでした。

しかし、その後、サミーはエディと決裂し1996年に脱退。
ヴァン・ヘイレンはサミーの後釜として3代目ボーカリストに元エクストリームのゲイリー・シェローンを迎えますが、アルバム1枚で脱退。

その後サミーは2004年に一時的に復帰したようですが、アルバム作成までにはいたらずまた脱退。

2007年、ヴァン・ヘイレンは再びデイヴィッド・リー・ロス、Baにエディの息子ヴォルフガング・ヴァン・ヘイレンを迎えツアーを行うという予定ですが、公式サイトではエディ自身のメッセージにより彼が現在リハビリ施設にいることが伝えられています。
エディにも早く復帰して欲しいものです。
Van Halen公式サイト
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SAMMY HAGAR サミー・ヘイガー⑧ ファーム・エイド~ヴァン・ヘイレンへ!

さて、サミー・ヘイガー。ソロからついにビッグ・チャンスがやってきます!
もちろん「ヴァン・ヘイレン」への参加です!!!

ニール・ショーンとの夢の共演HSAS「スルー・ザ・ファイアー」のあと、サミーは続けざまに「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」というこれまた大胆なタイトルのニューアルバムをリリースします。
このアルバムからは「キャント・ドライヴ55」というヒットは生まれるものの、アルバム自体はヒットしませんでした。私的にもHSASの後だったせいか、ちょっと軽い感じがしました。
いかにもアメリカン・ロックという感じのノリのいいシングルヒット向きのロックンロールよりもどっしりと落ち着いたハードロックやバラードが聴きたかったのです。HSASとの中間ぐらいというか、結局モントローズの1枚目になってしまいますが。。。
HSASの不発でニール・ショーンとのパーマネントなバンド結成は夢と消えてしまいました。

ところが、翌1985年、すごいニュースが入ってきました!なんとサミーがヴァン・ヘイレンに参加するかもしれないというのです!
そしてファーム・エイドでなんとエディ・ヴァン・ヘイレンと共演!しかも、ツェッペリンのロックン・ロールをやってくれたのです!!!
1985年は前年のバンド・エイドからUSAフォー・アフリカそして7月のライヴ・エイドへとつながる地球規模のチャリティコンサートがブームとなった年で、このファーム・エイドもその流れの中9月に実施されたものでした。

これがきっかけとなって?ちょうどソロが売れて忙しいディヴ・リーロスは脱退しサミーがヴァン・ヘイレンの新ヴォーカリストとなったのです。
翌1986年にはサミー加入第1弾の「5150」を発表。いとも簡単に全米第1位を獲得してしまいます。

ヴァン・ヘイレンも前作「1984」でバンドとしてはかなり勢いがついていた時期なのでサミー加入によってより歌を聞かせる本格的なハードロックバンドとなった結果だと思います。

サミー・ヘイガーのヴァン・ヘイレンへの参加はメチャクチャ嬉しかったです。
ついにメジャーになった!という思いと、ヴァン・ヘイレンではヴォーカルに専念できる。いくらなんでもエディの前でギターは弾けないでしょうから。
と思ったものです。どうも私は昔からサミーがヴォーカルとギターを両方やるのはあまり良く思っていなかったのです。しかし、結果は皆さんご承知の通り、サミーはガンガンギターを弾いちゃいましたが。。。

サミーはヴァン・ヘイレンで成功を収めました。
これはヴァン・ヘイレンに参加が決まった時点で解っていたことであります。
サミーは人気実力とも、もうそのぐらいのところまできていました。あとは、ちょっとしたきっかけだけだったのです。
私はあの時メチャクチャ嬉しかったけれど、サミーが遠くへ行ってしまうようなそんな寂しさも感じていました。
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ブライアン・アダムスBryan Adams④アンプラグドの影響~映画「守護神」

アンプラグドLIVEはブライアンの中の眠っていたなにかを呼び起こしました。
1998年のアルバム「ON A DAY LIKE TODAY」は間違いなくアンプラグドの影響を受けたアコースティックな仕上がりでした。
しかし、この頃からさらにロック色や売れ線の曲は影を潜めセールスにはあまりつながらなかったようです。
アンプラグドで目覚めたアーティストとしての過度の楽曲の追求。
これはロッカーとしてのブライアンにとっては決していい影響ばかりではなかったような気がします。
この頃のジャケットから急激に痩せてきたような気もします。これはベジタリアンということだけではないと思いますが。。。

2002年にはアニメ「スピリット」のサウンドトラックを発表しますが、映画の興行的な不振もあってあまり話題にはなりませんでした。しかしこのサントラはブライアンが初めて手がけたもので、曲的にはなかなかよかったと思います。

2004年にはアルバム「ROOM SERVICE」をリリース。
これは長期にわたったワールドツアーの中で生まれたアルバムで、すべての楽曲が世界各国のホテルの室内で録音されているユニークなアルバムです。

そして2007年ケビン・コスナー主演の映画「守護神」の主題歌で久々にそのハスキーなバラードを聞かせてくれました。
映画も曲も渋めですがなかなかよかった!
でも、まだまだ物足りない。。。
そろそろ、ブレイクしてもいいんじゃないのブライアン!
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ブライアン・アダムスBryan Adams③18Till I Die~MTVアンプラグド

シングル「Please Forgive Me」や映画のテーマソングでバラードがヒットしたこともあってバラードシンガーとの見方が定着したブライアンでしたが、1996年、5年ぶりとなるオリジナルアルバム「18 TIL I DIE」はバラードシンガーのイメージを払拭しロック・キッズ、ブライアンの本領を発揮したものでした。

「死ぬまで18才」まさにブライアン・アダムスそのものともいえるこのアルバムは日本やイギリスではヒットしたもののアメリカでは不発に終わり、アメリカとイギリスでの人気が逆転してしまいます。

そしてちょうどこの頃MTVではアンプラグドのLIVEがちょっとしたブームになっていてブライアンもこのLIVEに出演します。このLIVEはよかった!!!

MTVのアンプラグドは90年からスタートしポール・マッカートニー、マライア・キャリー、エリック・クラプトン、ニール・ヤングなどの大物スターも参加。
アンプラグドとはロックアーティストが本来のエレキ楽器を使わずアコースティック楽器による公開スタジオ・ライヴのことです。

80年代にビデオクリップでアーティストの本質を見失わせたMTVが皮肉にも90年代にアンプラグドでアーティストの本質に迫ることになったのです。

もともとブライアンはLIVEでサブステージを設け、より観客と近い世界を築いてきたアーティスト。
90年代後半はブライアンにとってサウンド的に模索していた時期で、アンプラグドとの出会いはその後のブライアンの音楽活動に大きな影響を与えることになるのです。
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ブライアン・アダムスBryan Adams② RECKLESS~黄金期へ

大ヒットアルバム「RECKLESS」から2年3ヶ月を経た1987年に5thアルバム「Into The Fire」をリリース。
このアルバムは前作に比べるとサウンド的にも地味で、歌詞の内容も重いものが多かった。セールス的には全米7位、全英10位と前作ほどではないにしろヒットを記録していますが、私は前作を意識してブライアンの苦悩が表われたアルバムではないかと思いました。

1991年には4年ぶりのアルバム「Waking Up The Neighbours」(写真)を発表します。
この4年の間にライヴアルバムを発表しているとはいえ、前にもまして長いブランクでした。前作の不振(「RECKLESS」に比べると)からプレッシャーを感じていたのかもしれません。
しかし、このアルバムではまた明るいパワフルなブライアンが戻ってきてくれました。
そしてバラードの名曲「(Everything I Do)I Do It For You」が映画「ロビンフッド」のテーマソングとなり、全米・全英チャートで長期にわたり1位を記録するなど、記録的大ヒットとなりました。

1993年には映画「三銃士」のテーマとなる「All For Love」をリリース。
ロッド・スチュワート、スティングとの三銃士はメチャクチャかっこよかった!
この後ベストアルバム「SO FAR SO GOOD」を発表。
ブライアンは人気実力とも絶好調!もう余裕の黄金時代を築くのでした。

そして、ちょうどこの頃、私は初めてブライアンのLIVEを観に行くことになるのでした!
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ブライアン・アダムスBryan Adams: HEAVEN

いよいよ1980年代私的最高のロッカー、ブライアン・アダムスの登場です。

ブライアン・アダムスはカナダ出身のロッカー!
その魅力はなんといっても独特な超ハスキーボイスとパワフルでシンプルでストレートなロックンロール!そして魅惑のハスキーボイスから生まれる極上のロックバラードです!!!

デビューアルバムは1980年の「Give me your love」
1983年の3rdアルバム「Cuts like a knife」(写真)がヒット!このアルバムからシングル「Straight from the heart」「Cuts like a knife」「This time」というヒットが生まれました。ジャケットのブライアンがカッコよすぎ!!!

私もこの頃からブライアン・アダムスというアーティストの存在が気になりだしていました。しかし、まだまだ若いって感じでした。それもそのはず生まれた年は私と同じだったんですから。。。

そして1984年の4thアルバム「Reckless」が世界的大ヒット。年間チャートではブルース・スプリングスティーンの「Born In The USA」に及ばなかったものの堂々の2位を記録。このアルバムからは「Heaven」が自身初のビルボード全米No.1ヒットに輝きました。このアルバムからは他にも「Run To You」「Somebody」「Summer Of'69:思い出のサマー」「It's Only Love」がシングルカットされヒットしました。

私的ブライアンの大ブレイクはやっぱり「Heaven」です!
1984年当時、MTVで流されるブライアンのビデオクリップに釘付けになりました。そのパワフルでハスキーな声に今までのハードロックのヴォーカリストとはまた違った魅力を感じ一発で大ファンになってしまいました。
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SAMMY HAGAR サミー・ヘイガー⑦THROUGH THE FIRE「HSAS」

1984年、ゲフィン・レコードはサミー・ヘイガーをニール・ショーンと組ませることにより、一躍トップ・アーティストとして大ブレイクを狙います!
そのプロジェクトが「HSAS」です!

「HSAS」とは。
・サミー・ヘイガー
・ニール・ショーン(ジャーニー)
・ケニー・アーロンソン(ビリー・スクワイアー・バンド)
・マイケル・シュリーヴ(サンタナ)
というメンバーからなるスーパーユニットがHSAS(ヘイガー・ショーン・アーロンソン、シュリーヴ)です!

特にニール・ショーンとサミー・ヘイガーの組合せは私にとって新鮮でした。
しかし、前述の通りキャピトル時代も「デンジャー・ゾーン(バイオレンスの逆襲)」というアルバムの中で共演をしているのです。
当初はドラムスにモントローズのオリジナルメンバーであるデニー・カーマッシの名前も挙がり期待していたのですが、最終的にはこのメンバーに落ち着いたようです。
このプロジェクトはジャーニーが休止している1年間でライヴからアルバム制作までをこなすという超ハードスケジュールでありましたが、この4人はやってのけました。

ほぼライヴ・アルバムといってもいいような「スルー・ザ・ファイアー炎の饗宴」は久々に心待ちにしていたアルバムでした。
これは私的にはなかなかよかったと思うのですが、なぜかビッグヒットにはなりませんでした。
曲的に「青い影」(プロコル・ハルムのカバー)などもありましたが、骨太のハード・へヴィなロックが多く一般受けしなかったからだと思います。

1984年の「HSAS」までの間。なぜかサントラが多いのもこの頃のサミーの特色です。
1981年の「HEAVYMETAL」のテーマソング「Heavy Metal」、82年「初体験リッジモント・ハイ」のテーマソング、84年「FOOTLOOSE」で「危険なガール」というハードなナンバーを1発!洗練されたロック・ポップス・アルバムの中で1曲だけ荒削りでヘヴィーなナンバーでした。
さらに、映画「OVER THE TOP」の主題歌「Winner Take It All」もやってましたね!

それにしてもサミーとショーンのバンドは非常に魅力的で、HSAS以降も続けて欲しかったと思ったのは私だけではないと思います。確かにセールス的にはよくなかったことは事実ですが、縁がなかったのでしょうか。。。

左から、ヘイガー、シュリーヴ、ショーン、アーロンソン
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プログレッシヴ・ロック編:YES 最終章 UNION~結晶~

もともとYesとバグルスの合体といわれた「ドラマ」以降空中分解のような形になったYesでしたが、クリス・スクワイアーはトレヴァー・ラビンとともにシネマというバンドを結成。
そのレコーディングを進め最後にジョン・アンダーソンが加入してYes名義になったということらしいのです。ジョンの参加はクリスが誘ったとか。。。
クリスもイエスに一番必要なのはなにかを感じていたのか。。。

その後1987年に「ビック・ジェネレーター」を発表するもトレヴァーと折が合わなかったのかジョンは脱退。ジョンのいないYesは活動を続けます。

1989年、ジョンはビル・ブラッフォード、リック・ウェイクマン、スティーヴ・ハウとABWH(アンダーソン、ブラッフォード、ウェイクマン、ハウ)を結成しアルバム「閃光」を発表!これはまさにイエスのサウンドでした!

このメンバーから見ればジョンのいないクリスとトレヴァーのYesよりABWHのほうがよりYesらしいバンドということになります。

ジョンは次のアルバムを作成するもトレヴァーに楽曲の提供を求め、1991年、ついにYesとABWHは合体!アルバム「Union(結晶)」の発表。
これは「ロンリー・ハート」の時とは逆にジョンがジョンのいないYesにモーションをかけています。Yesに必要なのはやはりジョンのヴォーカルなのです。
そして8人Yesでの夢のUNION TOURが実現するのです!!!

その後もYesは離合集散を繰り返し現在はバンドとしての活動は休止しているそうです。
その間、ジョンの大怪我による来日公演の延期、ハウの怪我による不調、メンバーの高齢化による演奏能力の低下なども囁かれたことも事実です。

しかし今年3月のASIAのオリジナルメンバーによる日本公演で来日したハウをはじめメンバー全員が年齢を感じさせない好演を披露してくれました。
ハウの「ラウンドアバウト」のギターは皮肉にも今までで最高でした。
ハウも今度は、またYesの1員として来日して欲しい!そして、70年代プログレの底力!すばらしいステージを魅せて欲しいものです。
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プログレッシヴ・ロック編:YES④イエス復活~ロンリー・ハート

みなさん、こんばんは!
このブログも今日で丸1年を迎えました~
この間、ご愛読いただきありがとうございました。
心から感謝いたします。

最近はなかなか記事が書けず「私の音楽のルーツ」も間延びしていますが、もうすぐ大詰めなのでゆっくりやって行きたいと思います。
よろしくお願いいたします。

では、2年目を迎えた最初の記事は!?
やっぱYesでしょ!

1983年。
MTVを観ていた私は「ロンリー・ハート」という曲でYesが復活したことを知りました。
しかしサウンドはもはや70年代の名残はなかったものの、バリバリしたギターの音と聴きなれたジョンの声が意外にマッチしていると思いました。
ジョンは髪をショートにしてちょっとパーマをかけていたようで昔より若くなった感じがしました。

70年代プログレッシヴ・ロック、特にイエスの終焉はメンバーチェンジなどが繰り返されあまり美しいものではありませんでした。

とりわけイエスの代名詞的存在であるジョン・アンダーソンの動向は気になっていましたので、どんな形でも元気な声を聴かせてくれるということは嬉しかったのです。

このときのメンバーは
ジョン・アンダーソン(v)
クリス・スクワイア(b)
アラン・ホワイト(ds)
トレヴァー・ラビン(g)
トニー・ケイ(Key)

キーボードのトニー・ケイはYesのオリジナル・メンバーであるが、特筆すべきなのはギターのトレヴァー・ラビンでしょう!
彼は南アフリカ出身のマルチプレーヤーで80年代Yesを語るうえで、最も重要なミュージシャンではないかと思います。
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ムービング・ピクチャーズMOVING PICTURES

このバンドも1982年ごろだったと思います。ラジオで「What about me」を聴きこれも気に入ってしまいました。
リックやメン・アット・ワークとはちょっと違ったサウンド。
ポップなんですがハードな一面もありサウンド的にはサックスも導入、メン・アット・ワークもサックスの音が特徴だったようで同じオーストラリアのバンドではホーンセクション導入がトレンディだった!?
ヴォーカルのアレックス・スミスは70年代のハードロックバンドにも通じるシャウトで好感が持てました。私的にはラヴァー・ボーイのマイク・レノに近い感じがしましたが、アレックスの方が癖があるというか個性的だったと思います。
ファースト・アルバムのジャケット(写真)がまた印象的でした。
その後も映画フットルースで「ネバー」が大ヒット。
この曲は日本でもMIEがカバーしてドラマ「不良少女とよばれて」の主題歌に起用されヒットしました。

しかしその後2枚目を出すもフェードアウト。
今調べてみても情報もあまりありません。
すばらしいメロディセンスとヴォーカリストを擁したバンドだっただけにもっと活躍してもよかったと思います。

それにしても、この頃のオーストラリアのバンドは勢いがありました。
もちろん彼らの前に活躍していたリトル・リバー・バンド、エア・サプライそしてオリビア・ニュートン・ジョンなどの存在があったからこそのムーヴメントで、ラヴァー・メン、ブライアン・アダムス、ラッシュなどカナダのロック・アーティストのムーヴメントとの類似性も感じるところでありました。
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ヴァンデンバーグVANDENBARG

1982年。
私はラジオから流れてきた1曲のロック・バラードに釘付け?になりました。
その曲こそヴァンデンバーグの「Burninng Heart」だったのです。

アコースティック・ギターを前面に出したミディアムテンポの美しいこのバラードは70年代の香りを漂わせていました。
そして、ヴォーカルは哀愁を漂わせながらもこのバラードを見事に歌い上げていました。
それはイアン・ギランやサミー・ヘイガーをはじめて聴いた時のような感動を私に与えてくれました。
誰だこれは?
当然ヴァンデンバーグなんてバンドは知らなかったので、すぐにレコード店に行き彼らのデビューアルバム「ネザーランドの神話」を購入しました。

ヴァンデンバーグはすでにスーパー・ギタリストの呼び声が高かったエイドリアン・ヴァンデンバーグのギターを中心としたオランダのバンドで、同じくオランダ出身のやはりこれもスーパー・ギタリストのバンド、ヴァン・ヘイレンに敬意を表し自らの名前をバンド名にしたらしい。

そのギターワークはさすがにすばらしく、なんと言ってもアコースティックな部分を取り入れ、70年代のテイストを残しながら80年代風のサウンドに仕上げるセンスが私の好みとぴったり合ったのです。
しかも、バート・ヒーリンクのブルージーで哀愁漂う、しっかりしたヴォーカルがメチャメチャ気に入ってしまったのだ。

しかし、ひとつ気になったのはアルバム・ジャケット
これもエイドリアンのデザインで本人が描いたというからすごい才能だが、1枚目のジャケットはいまいちサウンドとマッチしていないように感じました。

その後2枚目「誘惑の炎」3枚目「ALIBI」(ジャケット的には3枚目が最高!)とアルバムを発表し、大ブレイクはしないものの「フライディ・ナイト」などのスマッシュ・ヒットも飛ばし着実にスーパー・バンドへの道を歩んでいると思って期待していたのですが。。。
2枚目以降アメリカではアルバムが売れず、ついにバート・ヒーリンクが脱退。
エイドリアンもホワイトスネイクからのオファーを受け、ヴァンデンバーグはあっさり終焉を迎えてしまいました。

その後エイドリアンはホワイトスネイクで長期にわたり活躍しますが、度重なるアクシデントに見舞われついに音楽界から引退。絵の才能を生かし画家になったとの話もありましたが、最近また復帰に向け準備中という情報も。。。
他メンバーもまだ若く、特にヴォーカルのバート・ヒーリンクはこのまま埋もれさせてしまうのは全くもったいない!
出来ることであれば、オリジナルメンバーでの活動再開を期待したいところです。
私にとって、たまたま当時購入したLD「LIVE IN JAPAN」が彼らの動いている唯一の画像であり、今となっては大事な宝物となってしまいました。

栄光のメンバーです!
Adrian Vandenberg エイドリアン・ヴァンデンバーグ (g)写真右から2番目
Bert Heerink バート・ヒーリンク (vo)右端
Dick Kemper ディック・ケンパー (b)左から2番目
Jos Zoomer ジョス・ズーマー (ds)左端

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