信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

どんど焼き

2012年01月09日 23時27分20秒 | Weblog
2012年01月09日(月) 記

1月7日の土曜日はわが『S組』の「どんど焼き」でした。
この「どんど焼き」のことを「道祖神祭り」とも言っていますが、正式な呼び名は分からないしこの2つの関連性もわからないのだそうです。で、この「どんど焼き」のことを『左義長』とは言わないのか、と聞くとそれは言わないらしい。

この道祖神は安曇野が有名ですが、信州各地にはもちろん、他県にもあるそうです。でも大阪では見かけなかった。
かわりに地蔵尊が家内安全、村内安全、交通(旅の)安全や村外からの災いの侵入防止などを担っており、この点から見れば道祖神に近いように思うけれど、同一ではない。

さらに「どんど焼き」と「道祖神祭り」の結びつきも調べれば調べるほど分からなくなってくる。
「どんど焼き」は普通1月15日で「道祖神祭り」は江戸時代の昔から1月7日。
松本地方では「どんど焼き」のことを『三九郎』といいますが、準備するのも焼くのも1月15日だったけれどいつの頃からか現在は1月7日、つまり信州では「道祖神祭り」の1月7日に実施。

このようなことを究明していく学問が民俗学(フォークロア。民族学とよく間違われる)で、私もほんの少し勉強(フィールドは主に近江=滋賀県)していたのですが、やっぱり分からない。ここだけの話、柳田國男さんも学問という「科学」では太刀打ちできなかったんではないでしょうか。
連綿と続いた庶民の文化は一筋縄ではいかない。そこが庶民の強いところ、庶民の庶民たるゆえ、ともいえる。


さて、そんなややこしい話は置いておいて、今年は幸いにも会社勤めの人も参加しやすい土曜日でした(毎年、平日だと直近の土曜日への変更の話が出てくる)。

本来当日の朝、子ども達が組の家々を回ってお正月の注連飾りや門松などを集めて組み立てるのですが、わが組の小学生はわずか1人。で、大人が行なう、ということになります。
朝9時に集まって先ずやることが除雪。


次に竹で三脚状に組んで骨組みを作っていきます。
もちろんこれは決まっているわけではなく、当番によって、中心に1本の心棒を立ててから骨組みを作る人もいます。


お正月飾りはもちろん、燃えやすい杉っ葉や豆の木なども組み込んで完成です。
これは年々小さくなってきています。8年前に最初見たものにはダルマが3つも4つも付いて、かなり大きなものでした。あれから2軒空き家になり、1軒は高齢で不参加、1軒は喪中。


組み立てが終わったのが11時。いつも通る道が積雪で軽トラの通行が困難。で遠回りすると雪景色がきれいだったので1枚とりました。
棚田の形がきれいに出ていますが、ここでコメ作りをやっているのは(再開するのが)私一人だけで、それもたった1枚のみ。


午後7時丁度に点火です。
子ども達(といっても2人だけ)が参加していたときは、この火でもちを焼いて食べ無病息災を願ったものですが、おとなだけになると省略です。写真は当番(世話役)さんが参加者にミカンを配っているところ。
このミカンも焼かなくなりました。


火が消えると『S組公民館』に移って、いっぱい飲みです。
まず道祖神様にお供えしたお酒が、単なる酒からお神酒(おみき)に変身し、参加者の盃に注がれて乾杯。そして当番さんが用意した近所のスーパーで頼んだオードブルという酒の肴の詰めあわせや、おつまみなどをつまみながら世間話に花を咲かせる、という次第です。


マサカズ、ヒデヒコ、そして私の3人は盃を酌み交わして話し込み、夜中の12時半、十三夜に照らされた明るい雪道をほろ酔い気分で、「今晩は冷えるぞ」と思いながら家路につきました。