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司馬遼太郎「功名が辻」にみる千代のコーチング 5

2006年01月17日 | 読書
伊右衛門はその夜、死んだようになって寝た。
傷から出る高熱と、口腔の重傷のためものが喉を通らず、ただ心臓だけが動いているといった状態である。

二人の郎党は、不眠で看病した。
翌二十八日の夜、祖父江新右衛門は、木下藤吉郎の陣屋のそばで意外な情報を聞いた。
織田の全軍、にわかにこの敦賀の陣を引き払い、略取した城を捨て、京へ退却するというのである。
「しかも御大将(信長)は少数のお旗本とともにもう引き上げられたというわ」
「勝って逃げるのか」と、五藤吉兵衛があきれた。
「近江の浅井が、にわかに退路を断ち、われらの背後から襲いかかるという。ところで、わしが驚いたのはこれではない」
この会話を、山内伊右衛門は、高熱のなかで、うっすらと聞いている。
「わが手の大将木下藤吉郎殿のことじゃ。この人、自ら死を買って出られた」
「死を?」
「シンガリ軍の大将を志願されたという」
「ほう」
と声をあげたのは、伊右衛門である。

木下藤吉郎といえば、小才がきくことで取り立てられた、と家中で悪口を言う者が多いが、シンガリ軍を志願したとは、なんとも大ばくちをやったものだ。
十中八九、生きて戻れぬではないか。
(なるほど、そういうところもある男か)
伊右衛門も見直す思いがした。
見直したのは、伊右衛門だけではない。織田方の諸将は皆見直した。
秀吉の武将としての名が、大きく現れてくるのは、この退客戦からである。
「木下殿、拙者の手の者を残します」
と、諸将は、自分の家来の中から勇猛の士をえらんで、十騎、二十騎と選り抜いて木下隊につけた。よほど、秀吉の壮挙が同僚の諸将を感動させたのだろう。
秀吉は直ぐに金ケ崎城に入って、文字通り、雲霞のような追撃軍を一手にささえようというのである。
(やはり、千代が見抜いただけの人物であるらしい。この人を大将に頂く限り、間違い有るまい)
「おい、おれも木下殿について行く」
これには、二人の郎党も驚いた。怪我人は荷駄と共に後送されることになったいるのだ。
「戸板を外してこい、金ケ崎に入場するんだ」
槍をひったくると、漕ぐように土間を歩き出した。
「このお身体で御出陣なされては、せっかくお拾いあそばしたお命を落としておしまいになります」
「うぬら、解らぬか、木下殿は命を捨ててかかっている。その隊におれは加わる。命を捨てる覚悟で命を拾わねば、運など拾えるものではない」
「御運は先々、いつでも拾えるものでござるは」
「そのときも拾う。今は山内伊右衛門一豊という者の男を見せる時じゃ。こういう好機は、一生に何度もない」
「しかし、お、お命が」
「無くなるかも知れぬ。無くなれば無くなったで、それは伊右衛門が生得、武運が無かったまでのこと。この体で城に入って、命がもつかどうか、これは伊右衛門の一生の賭じゃと思え」
すさまじい功名心である。
二人はそのあたりの雨戸を一枚はずしてきて、具足姿の伊右衛門をのせた。

金ヶ崎城の大手門内で、他隊から参加してくる決死の連中に言葉をかけて礼を言っていた藤吉郎も、この戸板の伊右衛門には驚いた。
最初はとめたが、伊右衛門はきかない。
藤吉郎も、ついにうなずいた。この重傷者が参加することで、城兵に必死の気迫がわくことを期待したのだ。
身動きも出来ぬ重傷者の身で敵の包囲する城内に進んで入り、二人の郎党をして防戦にはたらかしめたのである。
当時、いわゆる戦国武士の慣習では、こう云う「男」の見せ方というのは類がなかった。
大将木下藤吉郎の吹聴もきいた。
自分の手飼いの家来というものをあまり持たぬ藤吉郎は、信長から付けられている与力や諸将の貸与してくれた武士達を一手に統御することに、大いに腐心した。
それには、信長の与力衆の一人である伊右衛門のこの「壮挙」は、城中の団結に大いに力があった。
「伊右衛門は、シンガリ軍の軍神ぞ」
とまで藤吉郎は言った。
(もう本隊は、残らず戦場を離脱したであろう)
とおもうころを見計らって、全軍、固まりになって城門から飛び出した。
決死の脱出がはじまるのである。

惨憺たる退却戦ののち、木下藤吉郎隊七百人が京に戻ったのは、五月のはじめである。
妙覚寺の本陣で藤吉郎の帰着を迎えた信長は、
「藤吉郎、このたびの働き、生涯忘れぬぞ」と言った。
同時に信長は、数ある将士の中からたった一人、山内伊右衛門一豊の名を口にした。
「伊右衛門も無事だったか」
無事でした、と藤吉郎が答えると、信長はてずから藤吉郎に薬を渡し、
「伊右衛門に養生させよ」と言った。
信長の平素からみれば、異例といっていい程の部下へのいたわりである。
伊右衛門、この合戦で一躍二百石に加増され、そのまま木下藤吉郎につけられた。

つづく

話の展開上、暫く千代は出て来ませんが、物語はつづけます。

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