天使の図書館ブログ

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人を許す、ということ。

2013-09-20 | キリスト教
【聖三位一体】マザッチョ

 天の下では、何事にも定まった時期があり、
 すべての営みには時がある。
 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
 殺すのに時があり、いやすのに時がある。
 くずすのに時があり、建てるのに時がある。
 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
 石を投げ捨てるのに時があり、
 石を集めるのに時がある。
 抱擁するのに時があり、
 抱擁をやめるのに時がある。
 捜すのに時があり、失うのに時がある。
 保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
 引き裂くのに時があり、
 縫い合わせるのに時がある。
 黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
 愛するのに時があり、憎むのに時がある。
 戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

(伝道者の書、第2章1~8節より)


 少し前の記事で、「人を何度まで許すべきでしょうか。七度まででしょうか」、「いえ、七度を七十倍するまで」という、ペテロとイエスのことを書きました。

 でもこれは、実際には実行がとても難しいことだと思います(^^;)

 なので、これはあくまでもわたしがそう思っていることであって、聖書にそう書いてあるわけではないのですが――自分が心の底から「許せない」と思う人のことをいつ許したらいいかというと、それはたぶん「許せる時がきたら」でいいのではないかと、わたし自身はそう思っています。

 もちろん、「そんなことを言ったら、未来永劫自分は△△のことを許すことはないだろう」とおっしゃる方も多いかもしれません。

 でも、それでいいのだと思います。

 たとえばキリスト教徒の方なら「聖書にそう書いてあるから許さなければ」といったように、物凄く「許そう、許そう」と理性によって努力されるかもしれません。

 でも、わたし個人の体験としては、「許せない」という感情は「許せると思う時が訪れるまで放っておく」しかないんじゃないかなという気がしています。

 その結果として、仮に死の直前になるまで誰かのことを心の中で憎んでいたとしても……死の少し前にでもギリギリその人のことを許せる心境になったとしたら――それだけでも十分なんじゃないかと思うんですよね。

 以前牧師さんのメッセージで、「復讐心とは残酷なものだ」というお話を聞いた記憶があります。つまり、こちらに何も非がないのに誰かから半殺しの目に合わされた場合、自分が正しいだけに相手に対する復讐心は嫌が上にも膨れ上がり、同じようにその人間を半殺しにするのではなく、その二倍の苦しみを与えるために相手を殺してしまうかもわからない……といったようなお話でした。

 確か、9.11に絡んでのメッセージだったと思うんですけど、以前内戦が起きた国で家族を殺された少年に対し――カトリックの神父さんが「それでも君は許さなくては」といったようなことを言ってしまい、この神父さんはその少年に殺されてしまったそうです。

 その、人を許すには「時」がある……というのは、つまりそういうことなんだと思うんですよね。

 相手に対する憎しみで心が燃え上がっている人に対して、理性の力で「許さなくては」と説くことには限界があるというか。

 言うなればそうした憎しみを心の檻の中に入れて飼い続けることは、誰よりも本人が苦しいことなのだから、その部分を「わかってあげる」ことが先に来るべきであって、「それでも許すんだ」という答えや最終的な解答を周囲の人が道徳に名を着せて与えるのは、ある意味残酷なことだというか。

「うん、わかるよ。君はそんなことをされたんだから、相手のことを許さなくたっていいんだ」……むしろそう言われたほうが、逆にどれだけ心が慰められるか知れないとすら思います。

 今の日本だと、なんと言っても一番多いのはたぶん、家族間の問題で「親が許せない」、「息子・娘が許せない」といったことがあるかもしれません。

 わたしが介護の世界を少しばかり垣間見て感じたのは、そうした親子間の断絶を持っている方がとても多いということでした。

 もちろん、仕事や転勤の関係などで遠く離れて住んでいて、「心の底から親の面倒を見たいと思っているのにそれが出来ない」という方がいらっしゃる反面――「この方は住んでる場所とか距離がどうこうと言ってるけど、仮に同じ町内に住んでいたところで親御さんの面倒は見なかったんじゃないかな~」というタイプの方もいらっしゃるんですよね。

 わたしも自分に家族間で何も問題がなかったらたぶん、こう思っていたと思います。「過去にどんなことがあったにせよ、それが虐待という問題ででもない限りは、子供は親の面倒を見るべく尽くすべきだ」と……。

 でも自分自身の問題とも照らし合わせて他の御家族の方のことを見ていくと、だんだんにあるひとつのことがわかってきました。

 弱って介護の必要な親のことを放っておくだなんて、なんて親不孝な子供だろう……と責めることは簡単だけれど、反面「そうした貧しい関係しか子供と築いてこなかった親にも責任がある」というケースも、割合多いんじゃないかなと、そんな気がしました。

 もちろんこうした問題はケースバイケースなので、一括りにすべてそうと結論づけることは出来ないものの、案外そういうことが多いんじゃないかなといった印象を受けたんですよね。

 そして自分にもし、「誰かを許せない」という経験があった場合、そんな思いを身内に持ち続けていて、一体どんないいことがあるだろうと思うかもしれないんですけど――個人的には多少なりともプラスになることはあると思いました(^^;)

 というのは、そういう人は「安易に人を裁かない」からです。

 わたし自身にしても、もし自分にそうした経験がなかったとしたら、今以上に結構な偽善者だったんじゃないかなと思うことがあります。

 たとえば、「わたしだったらあんなことはしないわ」とか、「少なくともわたしならもっと△△するのに」みたいに思い上がる回数は比較的少ない、というか。

 自分の中にそういう「乗り越えられない体験」みたいなものがあるっていうことは、実は一生を通しての大切な財産なのかなと思うこともあります。

 というのも、どんな不幸な経験も「乗り越えられた」瞬間にただの不幸自慢的なものに変化してしまうことがあると思うんですけど、そういうものが自分の身内に巣食い続けている以上は、他者のそれにも常に同等の敬意と同情心を持つことが出来るので。

 わたしは一応クリスチャンなので、「許さなくてもいい」とか「許せる時が来るまでそのままでいい」とか言うのは、キリスト教の教え、聖書の教えとは矛盾することなのかもしれません。

 でも神さまの心はそれ以上に深くて広いということも、わたし自身はよくわかっているのです(^^;)

 ではでは、わたし今ちょっと引越し準備中なので、そのうち記事があんまりかほとんど更新されないかもしれないんですけど、そろそろ「Ray of light」の連載もはじめなきゃな~なんて思っています

 それではまた~!!





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