
今回は思いっきりネタバレ☆ありですので、閲覧にはご注意くださいませm(_ _)m
きのうと今日の二日に渡って、NHKで「八日目の蝉」が再放送になりました♪(^^)
画像のほうが映画バージョンですので、もし映画の感想と誤解された方がいましたら、まずごめんなさい
でも実をいうとわたしが角田光代さん原作の「八日目の蝉」に興味を持ったのは、TVでの映画の報道がきっかけかな~なんて(ちなみに原作のほうは未読なんですけども、ドラマ見終わってから「すごく読んでみたい!!」と思いました
)。
では、第1話から感想を順に……。
第1話:「逃亡」
あらすじ等については、みなさんすでにご存知orウィキや番組HPなどでチェックできますので、ここではわたしがドラマを見て感じたことを簡単に書きたいと思います(ちなみに、セリフ回しなどには若干の記憶違いがあるかもしれませんm(_ _)m)
本妻(板谷由夏さん):「がらんどう。あんたなんか、心も体も空っぽのがらんどう女よ。そんな女に他の家庭の幸せをぶち壊す権利なんかないわ」
愛人(檀れいさん):「(あまりにひどい言葉を投げつけられ、涙を流す)
」
でも、ここでわたしの空耳&妄想がちょっと出ましたww
本妻(板谷由夏さん):「ギャランドゥ。あんたなんか、心も体も空っぽのギャランドゥ女よ。そんな女に他の家庭の幸せをぶち壊す権利なんかないわ」
愛人(檀れいさん):「ムキーッ!!ギャランドゥ女ですって!?あんた、西城秀樹の歌にあるみたいに、あの人がわたしに夢中だから、嫉妬してるんでしょ!?」
本妻:「ギャランドゥじゃないわよ!!がらんどうだって言ってんの!!そもそもギャランドゥって言葉の意味、あんた知ってるなら説明してごらんなさいよ!!
」
……みたいな感じだったら、愛人と本妻の間で笑いが生まれ、そもそも男(旦那の丈博)が悪いってことで、ふたり揃って奴を締め上げる――といった展開もあったかもしれません(いや、ドラマ的にはないけど、某バラエティ番組だったらね☆^^;)
でもここで丈博と妻との間に出来た赤ちゃんを檀れいさん演じる希和子は誘拐してしまうわけで……。
正直、ここまでの話だったら、「昔昼メロで似たような話あったよね?」っていうだけの話。
自分的に、この時誘拐された女の子(北乃きいさん演じる薫=恵理菜)が希和子と同じく成長してから不倫をし、第1話の最後で父親に向かってこう告げるシーンがすごく良かったです。
「私、妊娠した。相手の人はお父さんみたいな人。父親になってくれない人だよ」
ドラマの視聴者としてはなんとも、「ざまーみろ!!」と感じる場面ww(^^;)
現実問題として考えた場合には、もう少し言葉選ばないといけないけど、ドラマとして見る分には本当にスカッ☆とするような感じ(笑)
第2話:「エンジェルの家」&第3話:「悲しき女たち」
高畑淳子さんの演技が光ってますww
ちなみにサライとサラというのは、聖書の中では同一人物だったり……あと、沢田久美さん役の坂井真紀さんが「あの人がイゼベルやて!?」みたいに言ってるシーンがありますけど、イゼベル(イザベル)というのは、旧約聖書に出てくる悪女の名前だったりするんですよね(笑)
エンジェルの家で久美さんにはエステルという名前が与えられ、希和子にはルツという名前が与えられるわけですけど、このエステルは旧約聖書のエステル記、ルツ記からそれぞれ取ったものだと思います。
ドラマのHP年表を見ると、希和子と薫ちゃんはこのエンジェルの家で約4年ほど過ごしたということになるのでしょうか。
久美さんは夫に五歳になる息子の親権を取られており、彼女がその息子に会い、一緒に独楽をまわす場面、とても切なかったですね
そして彼女が「亮太が好きなのはチョココロネや!」って叫ぶ場面も……。
エンジェルの家にい続けることに危険を感じた希和子は、久美から小豆島の実家の住所を渡され、そこを訪ねていくわけですけど――その前に希和子と薫ちゃんが遊園地へいく場面はすごくいいですよね。
宝石箱の中の宝石みたいにキラキラした時間
……そのことをもし薫ちゃんが思いだせなかったとしても――「それは確かにあったのだ」と希和子だけは永遠に忘れず、覚えていられるのですから。
第4話:「恋」&第5話:「光の島」
岸谷五朗さん演じる、冴えない(?)漁師の文治さんがすごくいいと思いました。
正直、希和子が出所するまで彼なら待っていてくれそう&そんな彼女とふたりで暮らしてくれそう……と思ったりもしたんですけど(^^;)、最後にそうなっていないのも何故か「切なくていい」ように感じました。
個人的にこの時点で、出所したあと希和子が文治さんと暮らし、そこへ妊娠した薫ちゃんが来て三(四)人で暮らすというラストだったらどんなにいいかwwとも想像しましたが、まあドラマ的にその展開はありえないだろうなあ、とも思い……。
美しい自然に囲まれて、束の間かもしれないけれど、幸せでかけがえのない時間を過ごす希和子と薫。
そんなふたりにやがて近づくタイムリミット。
何かとお世話になっている久美の母、昌江から「逃げなさい!」と電話で言われる希和子。
文治もまた、彼女たちを逃がすべく、警察がフェリー乗り場へ来ていることを知らせようとしますが、間に合わず……。
成長した薫=恵理菜に記憶があるのは、大体このあたりからなんですよね。
警察の手によって強制的に離された時、母・希和子は一体自分に向かって何を叫んでいたのか――そのことがどうしても思いだせない。
そして物語は最終話「奇跡」へと向かいます。
第6話:「奇跡」
タイトルが「奇跡」なので、てっきり出所した希和子、そして彼女と一緒に暮らす文治に薫=恵理菜が会いにくるという夢のようなラスト……「奇跡」を想像してしまいましたが、ここでの「奇跡」はそういう意味ではないんですよね(^^;)
小さな頃の記憶はないながらも、「蝉の抜け殻を見ると拾いあげたくなる」恵理菜は、小豆島へ来て、忘れていたはずの記憶を思いだすという「奇跡」を体験します。
そして文治と話すことで、最後に母・希和子が何を叫んでいたのかも思いだします。
あの時母は、フェリー乗り場の売店で急いで「朝ごはん」を買おうとしていました。
「待ってぇ!!待って……その子はまだ朝ごはん食べてないのーっっ!!」
その言葉が、母・希和子の最後の絶叫だったのです。
もちろん、このセリフだけ読むと「え?何故そのセリフに感動を……」って、ドラマを見てない方なら疑問にさえ思うところですよね(^^;)
でも、このセリフこそ、血は繋がっていなくても子を思う母の心でなくて、なんだというんでしょうか(涙☆)
小豆島へ渡る前は、不倫した男性との子を堕ろすつもりでいた恵理菜ですが、小豆島で「奇跡」を体験したことで、帰りには「生む」ことを決意します。
文治と最初に会った時、幼い薫は「おーいおーい」と彼の船に向かって手を振り、そして今度は最後に文治のほうが「薫ちゃん、がんばりやーッ!!」と叫びながら手を振る……ここも切ない名場面のひとつだと思います
そして最後の最後――岡山の港の売店で働く希和子と、ニアミスする薫。
希和子はそんなはずはない、彼女くらいの歳の子をみると「もしかしたら」と感じる気持ちと同じものだと思いながらも……薫のあとを追い、思わず叫びます。
「薫っ!!」と、かつて愛した、そして今も愛し続けている最愛の我が子の名を。
けれど、夕陽と希和子の顔が重なってよくわからなかったせいでしょうか、薫は彼女のほうを一瞬振り返り、そして「空耳だったのかな」というように、そのまま行ってしまうのです。
視聴者的には、ここで親子の感動の再会を……と願ってやまない場面でもありますが、それと同時に「それであればこその切なさがあっていい」と感じる気持ちもあり、本当に切ない感動とともにドラマを見終わりました
そして、ここからはドラマ「八日目の蝉」に対する全体的な感想なんですけど、薫=恵理菜が希和子と離されたのち、彼女がその後歩んだ人生って、とても複雑なものだと思います。
実の母である恵津子から、「本当にこの子、わたしの子なのかしら?」と絶えず疑いの目で見られているように感じられ、親子関係はずっとぎくしゃくしたまま……0~5歳の頃に体験した希和子との暮らしが恵理菜(薫)にとって記憶にない「天国の記憶」であるとしたら、5歳以降に彼女が経験したことってある意味地獄だったのでは?とすら思えるものがあります。
ドラマの視聴者としてはどうしても、希和子=聖母マリア、恵津子=本当に血が繋がっているのに、まるで継母のような魔女……といったイメージでつい見てしまいますが、自分的に恵津子さんって七年刑務所に入ってた希和子より、ある意味不幸というか、気の毒で可哀想な女性、みたいに思えてなりません(^^;)
自分の身の上に起きたこうした「複雑な不幸」を「世界一悪い女、希和子のせいにする」という論理は、おそらく恵津子にとって最後に縋れる藁ともいえる論理で……ドラマ中に描かれてませんけども、この誘拐事件のあと夫との関係がうまくいっていたとはとても思えないですよね
そしてこのこともドラマ中には出てきませんけれども、夫の丈博もまた、おそらくは不倫の代償を痛いくらい支払わされたのではないでしょうか。あれだけマスコミに騒がれ、不倫相手が同じ会社に勤める女子社員であり、その彼女が赤ん坊を誘拐する……ある意味、自分が過去にしたことへの数倍返しの罪の精算をしているようにも見えます。
彼が仕事を終えて家に帰ってきた時、この家庭に見せかけだけでない本当の「やすらぎ」があったのかどうかもすごく疑問(^^;)
何しろ、奥さんは一種のヒステリー発作をいつ起こすかわからない、一歩手前といった顔で、キッチンで料理してるように見えますし……また別の女性に逃げ場を求めようにも、今の彼にはもう不倫なんて絶対出来そうにない(苦笑)。
その上娘からは「私、妊娠した。相手の人はお父さんみたいな人。父親になってくれない人だよ」と告げられ……まあ、ドラマとして見る分には、丈博と恵津子の不幸な姿って、「ざまーみろ!
」以外のなんでもないかもしれません。
でも、現実問題として考えると、この秋山夫妻が経験していることって、ものすごく深い地獄ですよね。
そして妻の恵津子もまた、「ギャランドゥがらんどう」発言をしたその復讐の実を自分で刈りとっているようにわたしには見えて仕方ありませんでした
仮にそれがいかなる状況であれ、人が絶対口にだして言ってはいけない言葉があると思うんですけど――「がらんどう」がまさにそれ、というか。
恵津子は希和子本人に直接苦しめられたというより、彼女は彼女自身が過去にしたこと(言ったこと)に復讐されてるように見えて仕方ありませんでした。
苦しいですよね、恵津子の立場って本当に……裁判の席ではどこか満ち足りているようにさえ見える希和子に、「子育ての喜びを与えていただいて、ありがとうございました」とまで言われ……わたしが恵津子の立場なら、まあ発狂してると思います(笑)
彼女が本当に心から自分の子を愛していたなんてとても思えないし、信じたくもない……それに、この時の恵津子にはおそらく「復讐完了!グッジョブ自分
」とでも希和子が思ってるようにしか見えなかったのではないでしょうか(^^;)
秋山家には恵理菜の他に、もうひとり妹がいるみたいなんですけど――何も問題がなくても子供ふたりを育てるってとても大変なことなのに、秋山家にはさらに複雑な問題があり……それでも主婦の義務、務めとして毎日のごはん作りや掃除・洗濯やら何やら、日々の雑務にも対処していかなくてはならない。
心も体も「がらんどう」な主婦、それが恵津子が実は感じていたことなのではないかと思うと、本当にキツイ感じがします(そしてそのキツサが彼女の顔にも表れているっていうところが、なんともいえない感じですよね
)
いい家に暮らして、旦那には安定したそれなりの地位や月給があっても――実はその家の中にはがらんどうな夫と妻、そしてどこか虚しい心を抱えた子供が住んでいるって、今の日本では大して珍しい光景ではないかもしれません。
でもこの「がらんどう」って、本当につらいものだと思う。
「わたしたちって、がらんどう家族だよね。でも、そろそろこのがらんどうから脱却しなくちゃ!そして家族みんなで幸せになろうよ!」なんて、家族会議開けば解決するっていう問題でもないっていうところが、なんとも(^^;)
そしてこの「なんとも言葉でうまく表現できない感じ」――これこそが「八日目の蝉」というドラマのもっとも素晴らしいところだと、わたし個人は勝手にそう感じながら見ていました。
薫ちゃんも、希和子との暮らしを思いだせないどこかもどかしい感じ、「うまく言葉に言い表せない感じ」をずっと抱えていたと思うんですけど……今は情報社会で基本的にはなんでも言葉で言語化できる社会のように一見みえています。
でもそうではなくて、考え方を逆にすると「言葉で表現できるくらいなら、それは大したことではない」とも言える。
たとえば希和子が薫に「愛してるよ」って言う時、それは「愛している」という言葉以上にもっと彼女を愛しているということ。
そして子供は無意識のうちにも言葉以上に大きな愛を親から受けていると信じて成長するものなんですよね。
出所後の希和子の暮らしというのは、一般の人から見れば孤独で惨めなようにしか見えないかもしれません。
でも彼女は決してがらんどうではなく、とても深い大きな愛を持っている人だった。世の中には、それがたとえ短い期間でも「本当に誰かを愛した」、「愛された」という記憶さえあれば、どんな境遇にも耐えられる・生きていけるタイプの女性がいるけれど、彼女はそういうタイプの女性のひとり、という感じがします。
長くなってしまいましたが、最後に……作家のカズオ・イシグロさんは、五歳まで日本で暮らし、その後イギリスへ渡ったと聞きましたが、この間NHKの番組で「日本語を話せない」ことを知り、とてもびっくりした記憶があります(^^;)
そしてイシグロさん自身、「日本はとても滞在の難しい国」と話されていました。日本語を聞いていると、自分でもその言葉の内容がわかり、話せるような気さえするのに、実際には意味を理解できないし、当然話すことも出来ないと……。
イシグロさんの書かれた「わたしを離さないで」という本も、人の記憶にまつわる物語だと思うんですけど――この「わたしを離さないで」のラストの切なさと、「八日目の蝉」の切なさ、このふたつには「うまく説明できないけれど」、共通した切なさ・哀切さがあると思いました。
今、久しぶりに本当に良質のいいドラマを見させてもらったような気持ちでいっぱいです。そしてドラマで見て内容をすでに知っていても――映画も見てみたいし、原作も読んでみたいと思わせてくれる「八日目の蝉」は、本当に素晴らしい作品だと思います。
映画が封切りになった数日後くらいに、近所の本屋さんで「八日目の蝉」の本が何故あんなにめっこり☆減っていたのか――その理由がわたしにもようやくわかったような次第です。
長くなってしまいましたが、このたぎる想いを消化するには、やっぱりこのくらいの文字数はどうしても必要でした(^^;)
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございますm(_ _)m
きのうと今日の二日に渡って、NHKで「八日目の蝉」が再放送になりました♪(^^)
画像のほうが映画バージョンですので、もし映画の感想と誤解された方がいましたら、まずごめんなさい

でも実をいうとわたしが角田光代さん原作の「八日目の蝉」に興味を持ったのは、TVでの映画の報道がきっかけかな~なんて(ちなみに原作のほうは未読なんですけども、ドラマ見終わってから「すごく読んでみたい!!」と思いました

では、第1話から感想を順に……。
第1話:「逃亡」
あらすじ等については、みなさんすでにご存知orウィキや番組HPなどでチェックできますので、ここではわたしがドラマを見て感じたことを簡単に書きたいと思います(ちなみに、セリフ回しなどには若干の記憶違いがあるかもしれませんm(_ _)m)
本妻(板谷由夏さん):「がらんどう。あんたなんか、心も体も空っぽのがらんどう女よ。そんな女に他の家庭の幸せをぶち壊す権利なんかないわ」
愛人(檀れいさん):「(あまりにひどい言葉を投げつけられ、涙を流す)

でも、ここでわたしの空耳&妄想がちょっと出ましたww
本妻(板谷由夏さん):「ギャランドゥ。あんたなんか、心も体も空っぽのギャランドゥ女よ。そんな女に他の家庭の幸せをぶち壊す権利なんかないわ」
愛人(檀れいさん):「ムキーッ!!ギャランドゥ女ですって!?あんた、西城秀樹の歌にあるみたいに、あの人がわたしに夢中だから、嫉妬してるんでしょ!?」
本妻:「ギャランドゥじゃないわよ!!がらんどうだって言ってんの!!そもそもギャランドゥって言葉の意味、あんた知ってるなら説明してごらんなさいよ!!

……みたいな感じだったら、愛人と本妻の間で笑いが生まれ、そもそも男(旦那の丈博)が悪いってことで、ふたり揃って奴を締め上げる――といった展開もあったかもしれません(いや、ドラマ的にはないけど、某バラエティ番組だったらね☆^^;)
でもここで丈博と妻との間に出来た赤ちゃんを檀れいさん演じる希和子は誘拐してしまうわけで……。
正直、ここまでの話だったら、「昔昼メロで似たような話あったよね?」っていうだけの話。
自分的に、この時誘拐された女の子(北乃きいさん演じる薫=恵理菜)が希和子と同じく成長してから不倫をし、第1話の最後で父親に向かってこう告げるシーンがすごく良かったです。
「私、妊娠した。相手の人はお父さんみたいな人。父親になってくれない人だよ」
ドラマの視聴者としてはなんとも、「ざまーみろ!!」と感じる場面ww(^^;)
現実問題として考えた場合には、もう少し言葉選ばないといけないけど、ドラマとして見る分には本当にスカッ☆とするような感じ(笑)
第2話:「エンジェルの家」&第3話:「悲しき女たち」
高畑淳子さんの演技が光ってますww
ちなみにサライとサラというのは、聖書の中では同一人物だったり……あと、沢田久美さん役の坂井真紀さんが「あの人がイゼベルやて!?」みたいに言ってるシーンがありますけど、イゼベル(イザベル)というのは、旧約聖書に出てくる悪女の名前だったりするんですよね(笑)
エンジェルの家で久美さんにはエステルという名前が与えられ、希和子にはルツという名前が与えられるわけですけど、このエステルは旧約聖書のエステル記、ルツ記からそれぞれ取ったものだと思います。
ドラマのHP年表を見ると、希和子と薫ちゃんはこのエンジェルの家で約4年ほど過ごしたということになるのでしょうか。
久美さんは夫に五歳になる息子の親権を取られており、彼女がその息子に会い、一緒に独楽をまわす場面、とても切なかったですね

そして彼女が「亮太が好きなのはチョココロネや!」って叫ぶ場面も……。
エンジェルの家にい続けることに危険を感じた希和子は、久美から小豆島の実家の住所を渡され、そこを訪ねていくわけですけど――その前に希和子と薫ちゃんが遊園地へいく場面はすごくいいですよね。
宝石箱の中の宝石みたいにキラキラした時間

第4話:「恋」&第5話:「光の島」
岸谷五朗さん演じる、冴えない(?)漁師の文治さんがすごくいいと思いました。
正直、希和子が出所するまで彼なら待っていてくれそう&そんな彼女とふたりで暮らしてくれそう……と思ったりもしたんですけど(^^;)、最後にそうなっていないのも何故か「切なくていい」ように感じました。
個人的にこの時点で、出所したあと希和子が文治さんと暮らし、そこへ妊娠した薫ちゃんが来て三(四)人で暮らすというラストだったらどんなにいいかwwとも想像しましたが、まあドラマ的にその展開はありえないだろうなあ、とも思い……。
美しい自然に囲まれて、束の間かもしれないけれど、幸せでかけがえのない時間を過ごす希和子と薫。
そんなふたりにやがて近づくタイムリミット。
何かとお世話になっている久美の母、昌江から「逃げなさい!」と電話で言われる希和子。
文治もまた、彼女たちを逃がすべく、警察がフェリー乗り場へ来ていることを知らせようとしますが、間に合わず……。
成長した薫=恵理菜に記憶があるのは、大体このあたりからなんですよね。
警察の手によって強制的に離された時、母・希和子は一体自分に向かって何を叫んでいたのか――そのことがどうしても思いだせない。
そして物語は最終話「奇跡」へと向かいます。
第6話:「奇跡」
タイトルが「奇跡」なので、てっきり出所した希和子、そして彼女と一緒に暮らす文治に薫=恵理菜が会いにくるという夢のようなラスト……「奇跡」を想像してしまいましたが、ここでの「奇跡」はそういう意味ではないんですよね(^^;)
小さな頃の記憶はないながらも、「蝉の抜け殻を見ると拾いあげたくなる」恵理菜は、小豆島へ来て、忘れていたはずの記憶を思いだすという「奇跡」を体験します。
そして文治と話すことで、最後に母・希和子が何を叫んでいたのかも思いだします。
あの時母は、フェリー乗り場の売店で急いで「朝ごはん」を買おうとしていました。
「待ってぇ!!待って……その子はまだ朝ごはん食べてないのーっっ!!」
その言葉が、母・希和子の最後の絶叫だったのです。
もちろん、このセリフだけ読むと「え?何故そのセリフに感動を……」って、ドラマを見てない方なら疑問にさえ思うところですよね(^^;)
でも、このセリフこそ、血は繋がっていなくても子を思う母の心でなくて、なんだというんでしょうか(涙☆)
小豆島へ渡る前は、不倫した男性との子を堕ろすつもりでいた恵理菜ですが、小豆島で「奇跡」を体験したことで、帰りには「生む」ことを決意します。
文治と最初に会った時、幼い薫は「おーいおーい」と彼の船に向かって手を振り、そして今度は最後に文治のほうが「薫ちゃん、がんばりやーッ!!」と叫びながら手を振る……ここも切ない名場面のひとつだと思います

そして最後の最後――岡山の港の売店で働く希和子と、ニアミスする薫。
希和子はそんなはずはない、彼女くらいの歳の子をみると「もしかしたら」と感じる気持ちと同じものだと思いながらも……薫のあとを追い、思わず叫びます。
「薫っ!!」と、かつて愛した、そして今も愛し続けている最愛の我が子の名を。
けれど、夕陽と希和子の顔が重なってよくわからなかったせいでしょうか、薫は彼女のほうを一瞬振り返り、そして「空耳だったのかな」というように、そのまま行ってしまうのです。
視聴者的には、ここで親子の感動の再会を……と願ってやまない場面でもありますが、それと同時に「それであればこその切なさがあっていい」と感じる気持ちもあり、本当に切ない感動とともにドラマを見終わりました

そして、ここからはドラマ「八日目の蝉」に対する全体的な感想なんですけど、薫=恵理菜が希和子と離されたのち、彼女がその後歩んだ人生って、とても複雑なものだと思います。
実の母である恵津子から、「本当にこの子、わたしの子なのかしら?」と絶えず疑いの目で見られているように感じられ、親子関係はずっとぎくしゃくしたまま……0~5歳の頃に体験した希和子との暮らしが恵理菜(薫)にとって記憶にない「天国の記憶」であるとしたら、5歳以降に彼女が経験したことってある意味地獄だったのでは?とすら思えるものがあります。
ドラマの視聴者としてはどうしても、希和子=聖母マリア、恵津子=本当に血が繋がっているのに、まるで継母のような魔女……といったイメージでつい見てしまいますが、自分的に恵津子さんって七年刑務所に入ってた希和子より、ある意味不幸というか、気の毒で可哀想な女性、みたいに思えてなりません(^^;)
自分の身の上に起きたこうした「複雑な不幸」を「世界一悪い女、希和子のせいにする」という論理は、おそらく恵津子にとって最後に縋れる藁ともいえる論理で……ドラマ中に描かれてませんけども、この誘拐事件のあと夫との関係がうまくいっていたとはとても思えないですよね

そしてこのこともドラマ中には出てきませんけれども、夫の丈博もまた、おそらくは不倫の代償を痛いくらい支払わされたのではないでしょうか。あれだけマスコミに騒がれ、不倫相手が同じ会社に勤める女子社員であり、その彼女が赤ん坊を誘拐する……ある意味、自分が過去にしたことへの数倍返しの罪の精算をしているようにも見えます。
彼が仕事を終えて家に帰ってきた時、この家庭に見せかけだけでない本当の「やすらぎ」があったのかどうかもすごく疑問(^^;)
何しろ、奥さんは一種のヒステリー発作をいつ起こすかわからない、一歩手前といった顔で、キッチンで料理してるように見えますし……また別の女性に逃げ場を求めようにも、今の彼にはもう不倫なんて絶対出来そうにない(苦笑)。
その上娘からは「私、妊娠した。相手の人はお父さんみたいな人。父親になってくれない人だよ」と告げられ……まあ、ドラマとして見る分には、丈博と恵津子の不幸な姿って、「ざまーみろ!

でも、現実問題として考えると、この秋山夫妻が経験していることって、ものすごく深い地獄ですよね。
そして妻の恵津子もまた、「

仮にそれがいかなる状況であれ、人が絶対口にだして言ってはいけない言葉があると思うんですけど――「がらんどう」がまさにそれ、というか。
恵津子は希和子本人に直接苦しめられたというより、彼女は彼女自身が過去にしたこと(言ったこと)に復讐されてるように見えて仕方ありませんでした。
苦しいですよね、恵津子の立場って本当に……裁判の席ではどこか満ち足りているようにさえ見える希和子に、「子育ての喜びを与えていただいて、ありがとうございました」とまで言われ……わたしが恵津子の立場なら、まあ発狂してると思います(笑)
彼女が本当に心から自分の子を愛していたなんてとても思えないし、信じたくもない……それに、この時の恵津子にはおそらく「復讐完了!グッジョブ自分

秋山家には恵理菜の他に、もうひとり妹がいるみたいなんですけど――何も問題がなくても子供ふたりを育てるってとても大変なことなのに、秋山家にはさらに複雑な問題があり……それでも主婦の義務、務めとして毎日のごはん作りや掃除・洗濯やら何やら、日々の雑務にも対処していかなくてはならない。
心も体も「がらんどう」な主婦、それが恵津子が実は感じていたことなのではないかと思うと、本当にキツイ感じがします(そしてそのキツサが彼女の顔にも表れているっていうところが、なんともいえない感じですよね

いい家に暮らして、旦那には安定したそれなりの地位や月給があっても――実はその家の中にはがらんどうな夫と妻、そしてどこか虚しい心を抱えた子供が住んでいるって、今の日本では大して珍しい光景ではないかもしれません。
でもこの「がらんどう」って、本当につらいものだと思う。
「わたしたちって、がらんどう家族だよね。でも、そろそろこのがらんどうから脱却しなくちゃ!そして家族みんなで幸せになろうよ!」なんて、家族会議開けば解決するっていう問題でもないっていうところが、なんとも(^^;)
そしてこの「なんとも言葉でうまく表現できない感じ」――これこそが「八日目の蝉」というドラマのもっとも素晴らしいところだと、わたし個人は勝手にそう感じながら見ていました。
薫ちゃんも、希和子との暮らしを思いだせないどこかもどかしい感じ、「うまく言葉に言い表せない感じ」をずっと抱えていたと思うんですけど……今は情報社会で基本的にはなんでも言葉で言語化できる社会のように一見みえています。
でもそうではなくて、考え方を逆にすると「言葉で表現できるくらいなら、それは大したことではない」とも言える。
たとえば希和子が薫に「愛してるよ」って言う時、それは「愛している」という言葉以上にもっと彼女を愛しているということ。
そして子供は無意識のうちにも言葉以上に大きな愛を親から受けていると信じて成長するものなんですよね。
出所後の希和子の暮らしというのは、一般の人から見れば孤独で惨めなようにしか見えないかもしれません。
でも彼女は決してがらんどうではなく、とても深い大きな愛を持っている人だった。世の中には、それがたとえ短い期間でも「本当に誰かを愛した」、「愛された」という記憶さえあれば、どんな境遇にも耐えられる・生きていけるタイプの女性がいるけれど、彼女はそういうタイプの女性のひとり、という感じがします。
長くなってしまいましたが、最後に……作家のカズオ・イシグロさんは、五歳まで日本で暮らし、その後イギリスへ渡ったと聞きましたが、この間NHKの番組で「日本語を話せない」ことを知り、とてもびっくりした記憶があります(^^;)
そしてイシグロさん自身、「日本はとても滞在の難しい国」と話されていました。日本語を聞いていると、自分でもその言葉の内容がわかり、話せるような気さえするのに、実際には意味を理解できないし、当然話すことも出来ないと……。
イシグロさんの書かれた「わたしを離さないで」という本も、人の記憶にまつわる物語だと思うんですけど――この「わたしを離さないで」のラストの切なさと、「八日目の蝉」の切なさ、このふたつには「うまく説明できないけれど」、共通した切なさ・哀切さがあると思いました。
今、久しぶりに本当に良質のいいドラマを見させてもらったような気持ちでいっぱいです。そしてドラマで見て内容をすでに知っていても――映画も見てみたいし、原作も読んでみたいと思わせてくれる「八日目の蝉」は、本当に素晴らしい作品だと思います。
映画が封切りになった数日後くらいに、近所の本屋さんで「八日目の蝉」の本が何故あんなにめっこり☆減っていたのか――その理由がわたしにもようやくわかったような次第です。
長くなってしまいましたが、このたぎる想いを消化するには、やっぱりこのくらいの文字数はどうしても必要でした(^^;)
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございますm(_ _)m
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