一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

見える一致

2017-09-15 07:40:38 | カトリック
旧約聖書にはご存知の通りバベルの塔の話があります。人が神よりも上だと勘違いしたわけです。人間の不遜が罰せられた話として、また様々の言語が発生した起源の物語として知られています。
バベルというのは、「混同」の意味があるそうです。前回、国語化したミサが様々な混同や混乱が起きている話を紹介しましたが、この手の話は実はキリがありません。色々な話を聞いておりますし体験もしています。バイリンガル以上の人や言語の比較ができる人は、同じミサを受けているにも関わらず、ミサの典礼文の「訳」が微妙にまたは大きく違うことに気が付く人もいます。訳が違うということは、ニュアンスや雰囲気も変わるのです。ただミサに与るだけなんだから多少の訳の違いなど気にしない、という人が大多数なのは明らかなのですが、少しずつこれが私たちの信仰に影響を与えていることも無視してはいけないと思います。では、どこの典礼文の訳がどう違うかは時間の問題で割愛しますが、実際のところ、ミサの国語化はバベルの塔のような結果になってしまっていると私は思うのです。
つい最近までカトリック教会のミサはどこでもラテン語で行われているころは、教会の建物の雰囲気やラテン語典礼、顔形も同じ様な聖人像は、現在はどうでしょうか。御聖櫃はどこにありますか?真ん中にありますか、それとも右ですか、左ですか、それとも無いですか。
このように目に見える一致が少しずつ無くなっていくカトリック教会を想うとき、バベルの塔の物語を読むとはっ!としてしまいます。