のぶのぶの音楽雑記

演奏会のお知らせだけでなく、色々なことを書いていこうと思います。

推し活・児玉真子さんのコンサート

2024-08-10 20:00:27 | 日記
推しのフォルテピアノ奏者・児玉真子さんのコンサートに行ってきました。



数年前に偶然SNSでお聴きしてからすっかりハマってしまい、勝手に推している演奏家さんです。日本での活動は愛知や岐阜が中心のため、生演奏に接する機会はありませんでした。その児玉さんが東京でコンサートを開かれるのですから行かないわけにはいきません!(笑)

前半は1795年のワルターのレプリカ(2023年製)。後半は会場であるタカギクラヴィア所蔵の1825年製ヨハン・クレーマー。クレーマーは作曲家、ピアニストとしても活躍した方で、日本では「クラーマー=ビューロー60の練習曲」なんかで目にすることが多いかもしれませんね。

前半はCPEバッハ、ハイドン、モーツァルト。クラヴィコードによるCPEバッハはよく聴きますが、フォルテピアノでの響きは生では初めてでした。なるほどたしかにクラヴィコードの延長線上に在る楽器であることを改めて感じます。奏法、解釈によるとこももちろんあるでしょうが、モダンピアノからは漂うことのない香りがありました。あの楽器だからこそ生まれた幻想曲という雰囲気がしっかり感じられました。

モーツァルトのソナタは3番K.281。私の大好きな曲で、2楽章にはamorosoと付けられています。普段はやはりピアノの音で聴くことが多いですが、三度の響きや三連符の響きはピアノからは聴くことのできないものでした。やはりこのような楽器で聴くとamorosoのイメージも掴みやすいのかもしれません。3楽章にしても、モーツァルトの遊び心がモダンよりも存分に感じられる演奏でした。児玉さんがハイドンの時にお話していた「語り口」というのを強く感じた瞬間でもありました。

後半はクレーマーを使用してのベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン。テーマとなる「古典派と初期ロマン派」が感じられる並びと楽器の変遷ですね。
ベートーヴェンを聴き始めてまず驚いたのはクレーマーの音色。


ものすごい楽器だと感じました。矛盾するような言い方ですが、モダンピアノからは感じられない雑味が素晴らしく良い響きを持っているのです。そこに児玉さんの技術が乗り、本当に素晴らしいベートーヴェンを聴かせていただきました。個人的にはこの日のハイライトでした。幻想曲Op77は大好きな曲でグリンベルク、フィッシャー、ブフビンダー、ブレンデルを愛聴していますが、いずれもモダンピアノですね。こちらも初めてフォルテピアノで聴きました。音量とかではなく、あの楽器から出る熱量と言いますか迫力がありました。それを引き出したのは児玉さんのテクニックもまた凄い。同じ「幻想曲」というタイトルが3つありますが、そういった変遷も裏テーマとしてあったのでしょうか。本当に感動的なベートーヴェンでした。

ラストはメンデルスゾーンの幻想曲。「スコットランドソナタ」なんて呼ばれたりする曲ですね。モーツァルト、シューベルト同様今日モダンでよく聴く曲ですが、ベートーヴェンを聴いた感覚と同様、モダンピアノとは違う種類の迫力がありました。ペダルの効きなんかも、パッと思い浮かぶベートーヴェンのテンペストでしょうか。ベートーヴェンの指示がとても腑に落ちる瞬間が多々ありました。

今までは画面上でしか聴くことの出来なかった児玉さんの実演はやはり素晴らしいものでした。昨日のコンサートによって間違いなくファンが増えたことと思いますので、ぜひ今後も関東でのコンサートも積極的に行ってほしいところです。昨日行けなかった方も次回はぜひ。モダンピアノにしか触れる機会がないという方は必聴の演奏だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生と死は大違い、しかし生と死は紙一重

2024-08-05 15:50:05 | 日記
ふと、今までに本気で「死ぬ」と思った瞬間があったかを考えました。なんの前触れも無く、です。なぜ私がそういう思いに陥ったかは分かりません。しかし私には「あ…今日なのか…」と思った日がたしかに在りました。

3月11日、東日本大震災です。
揺れ始めるとすぐに立っていられないほどの大きな揺れに。母とこたつに入ってテレビを見ていました。ちなみに午前中には大学不合格の通知が届き、はぁぁと落ち込んでいた時でした(笑)

カタカタと始まった揺れはあっという間に大きくなり、とんでもない揺れになりました。母は体調が良くなかったのか、どんなに揺れようともこたつから出ず、外に逃げようとした私を呼び止めました(いかがなものか‎🤔)。そして部屋にあったピアノの下に入るよう言いました(ダメ絶対!)。

さて、揺れはとても長かったように思います。実際の時間よりも長く感じました。その時に初めて「死」というものを感じました。
(あぁ…きっと家が崩れて色々な物の下敷きになって死ぬんだな…いやぁそれにしても大学落ちた日に死ぬ?やだなぁ〜痛いかなぁ〜えー痛いよね?やだなぁ〜まだ弾きたい曲いっぱいあるんだけどなぁ〜)
ということを本当に考えてました。車に轢かれる時のスローモーションみたいなものでしょうか?揺れに恐怖しながらものんびり考えていましたね。緩い!と思われるかもしれませんが、「死」が近付いてくる時はそんなものなのかもしれませんね。


写真は私の部屋です(ガラケーの画質!)。揺れがおさまってから行ってみると、色々な物が部屋の中央に集合していました。なんで扉開けたらテレビがいるの?と思ったものです。これは当時モバゲーに載せたものですが、前日の3月10日に「生と死は大違い、しかし生と死は紙一重」というタイトルの日記を投稿していました。

では東日本大震災が自分のなにか大きなポイントか?と言われればそういうわけではないようです。「死ぬかもしれない」と感じた唯一の瞬間ではあります。1000年に1度と言われる大きな揺れを体感しただけ、という感じ。実際その後の被害は私なんかよりもずっと大きな方がたくさんいたわけですし、ライフラインもそんなに影響はなかったです。

ただ、たしかに「死」を覚悟したことは大きいかもしれません。ほら、体調崩した後って健康に感謝するじゃないですか?それと同じで、ただピアノが弾けるだけで幸せを感じます。大袈裟ではなくて。

先日、大学の友人に久しぶりに会いました。彼は、出会った頃に私が言った「俺は俺の周りの人が幸せそうなのを見ると自分も幸せになるから、周りが幸せならそれでいい」と言ったのが印象的だったらしいです(言った覚えは全くないけど、たしかに昔からそう思ってはいる)。友人は非常に自己中心的な人間なので、私が言ったことは全く理解出来なかったらしいですが、最近それが何となく分かる気がする、と言っていました。
震災では幸いなことに身内の犠牲者は出ませんでした。もしかするとこのことが原因でそういう考えに至っているのかもしれません。彼に久しぶりに会ったことがトリガーとなって「死」について思い出し、そして考えたのかもしれませんね。

練習、演奏会、レッスンなどをしていると音符に追われることが多々あります。一度立ち止まり、たとえ苦い思い出でも噛み締めてみる時間は大事なのかもしれません。一度深呼吸をして今生きていることに感謝しながら大好きなピアノにもう一度向き合おうと思います。譜読み祭りです。ブクステフーデを始め、今はこの世にいない人間の創った音楽にただただ真摯に向き合っていきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする