舞蛙堂本舗リターンズ!~スタジオMダンスアカデミーblog

ダンス(フラ・ベリーダンス他)と読書と旅行とカエル三昧の日々を綴る徒然日記。

フラについての誤解されがちな3つの真実

2015-05-23 04:39:10 | ダンス話&スタジオM
先日の記事で取り上げ、裏部屋で証拠を例示した振付パクリ問題では、全国の方々から「信じられない!」「話には聞いていたけど、まさかここまでとは…!!」などといった率直な(そしてもっともな)ご感想をお寄せ頂き、ありがとうございました
実際の状況をご覧いただいたうえで問題提起出来て、とても有意義であったと思っております。


で、問題提起ついでに、前々から解きたいと思っていた「フラ業界に蔓延るヤバい誤解」のいくつかについても一刀両断しておきたいと思います
聞く人によってはけっこう耳が痛いかもしれません
なぜならば、ここで挙げる誤解の中には、ある種のセンセイが自分に都合がいいからと故意に流布している誤解もあるからです。
というより今日挙げるもののほとんどがそうです(笑)。
これらの誤解をわざわざ進んで喧伝しているタイプのセンセイは、かなり危険度高めの可能性アリですぞ



【真実1】「一般的に踊られているフラの振付」というのは、この世にただの一つも存在しない。

今回の記事の発端となった問題ですから、改めて取り上げておきましょう。

世の中には「盆踊り」「ラジオ体操」のように、一般に流布していて、誰でも自由に踊って良い振付が存在します。
それらは個人的に踊るのはもちろん、人前で披露しても良いし、誰かに教える事さえ可能です。
しかも、そうするにあたって作者の了承は一切不要です(というか、作者の存在に思いを馳せる人自体少ないでしょう)。

しかしフラにおいてそういう振付は存在しません。
ただの一つもです。



理由は簡単。
フラの振付を形成している「歌詞の解釈」「ステップ」「ハンドモーション」などといった要素はクムによって、あるいは系統によって全く異なるものであり、「あらゆるスタイルに共通の振付」というのが存在する事自体が不可能だからです。

例えば最も基本的なカホロ一つ取っても、系統によってステップの仕方がまるで違います。
ある系統における正しいやり方が、他の系統では「間違い」と見なされる事さえあります。

ハンドモーションも然りで、たとえばalohaという意味で胸の前で手を交差させるようなシンプルな動きであっても、右手が下か左手が下か、あるいはどちらでも良いか、腕全体が胸にくっつくように持っていくか、何かを抱いているように腕と胸の間に空間を空けるのか、指先が肩に届きそうなくらい深く交差するか手首くらいで軽く交差するのか、はたまたそれらを細かい意味や前後の動きとの関係で使い分けるのか、……あ~もう書いていくとホンットにキリが無い、というくらい微妙な差異があります。

フラは別に統一機関がある訳ではなく、それぞれの地域で、それぞれの系統で独自に受け継がれ発展して来た訳ですから(方言を思い浮かべると分りやすいです)、こうなる事は当然の結果と言えましょう。
それぞれに「正しいやり方」がある以上、今後も統一される事は決して無いと断言出来ます。

これはハワイ生まれの正統なハワイアンソングに限った話ではありません。
ハパハオレならぬハパ日本ソングとでもいうべきか、『月の夜は』みたいな半分和製のハワイアンでも(アレの原型はSophisticated Hulaですが、月の夜はの歌詞とはほとんど別物です)、別に全国的に決められた振付というのは存在しませんし、フラガールのテーマ曲や『花は咲く』みたいな日本の歌謡曲に付けられたフラの振付でさえ、「この曲は必ずこの振付で」とは決められていません。


このような厳然たる事実があるにもかかわらず、何かの振付をまるで盆踊りのように「これは一般的な振付だ」というテイで教えているセンセイが居るとしたら。
もう思いっきり胡散臭い目で見ましょう。

人が有り得ない事をさも有り得るかのように振る舞う時、それは「他者を犠牲にしてでも自分の利益を守るため」の行いです。
たとえば、決して存在しないはずの「一般的に流布している振付」なるものをさも存在するかのように教えるセンセイというのは、その振付を何か人に言えないルートで入手した、あるいは(過去はさておき、少なくとも現在は)その振付を教えてはいけない立場にあるかのどちらかです。
およそ真っ当にフラを習得して来た人間ならば、そんなモノが存在し得ない事は当り前だと分っているはずなのですから。

この行いにより、被害に遭うのは一体誰か。
第一にその振付の「本当の」作者です。
ビジネス的な意味で言えば、その振付を教える事により得られるはずだった報酬を他の人間に不当に奪われていると言えます。
しかしビジネス面よりも多くの作者が問題視するのは、「作者の目の及ばないところに拡散される事により、本来あるべき姿から離れていくこと」でしょう(少なくともウチはこっちの方がより迷惑です)。
平たく言えば自分の振付なのに「んな踊り方しとらんわー!!」とハリセンでツッコミを入れたくなるほど気持の悪い踊り方で勝手に踊られるとホント精神衛生上よろしくないって事です。

第二に、正規のルートでその振付を学んだ人も被害者です。
その振付を踊るにあたってしっかりと基礎を身につけたり、歌詞の意味を学んだりといった正当なプロセスを経てきちんと正しい踊り方を身につけた人にとって、上辺の振付だけ盗んで踊っている人の姿は見るにたえません。

そして第三の被害者は、その振付を学ばされた人です。
出所の胡散臭い振付では、それを踊る為に必要な基礎の技術や歌にまつわる知識もまともに伝授されない訳で、いくら本人が気にしていなくても、そんな状態で身につけた恥ずかしい代物を人前で踊るのは一種の罰ゲームです。
しかも自分が知らないうちに悪事に加担させられる事で、被害者でありながら加害者にもなってしまうという、ある意味最も悲惨な被害者と言えましょう。

とはいえ、これはその人達が胡散臭い自称センセイから習うのをやめれば直ちに解決する問題です。
フラの振付を盆踊りの要領で教えて来るセンセイとは、ただちに縁を切りましょう。
それが正義の振舞いですし、自分自身を救う事にもなります。


【真実2】およそ真っ当な先生には、真っ当なルーツが存在する。

フラは特定のクムの教えを仰ぎ、そのクムの教えに基づいて一貫したスタイルを身につけていく事でのみ学べる踊りです。
独学や、ワークショップを渡り歩く事では決して身につきません。

なぜならば、先述のとおりフラは系統ごとにまったく違う踊り方をするものですので、「自分の立ち位置はここ」というのが定まっていないと、色々なところで矛盾が起きてしまうのです。
矛盾が起きているセンセイに習えば、生徒ももちろん混乱します。

ワークショップでは振付を仕入れる事だけなら出来ますが、一貫したスタイルというのは教えてくれません。
というか一流のクムほど、ワークショップでも自分のスタイルを押し付けるのではなく、その生徒のスタイルで踊れるように導くものです。つまりそうしたクムにとっては、ワークショップというのは「すでに受講者のスタイルが確立されている事が前提」なんですね。受講者が先生やプロダンサーであれば尚更です。
そういう優れたクムからすると、先生やプロを名乗っているくせにスタイルが全く確立されてない踊り方をする受講者を見ると、かなり気持が悪いと思います(もちろん優れたクムはいちいち顔には出さないと思いますが)。

熟練のクムやダンサーになると、踊り方を見ただけでどういうバックグラウンドを持ったダンサーか分るものです。
カヒキラウラニのクム・ナホクさんや、飛鳥IIでご縁のあるホオさんは、踊りを観ただけで母マミちゃんのルーツを即座に的確に理解した方々のごく一部です。
マミちゃんが日本人であるとか、大先生でもなんでもなく地方の小さな一教室の主宰者だとかいう先入観無しに純粋に踊り方だけで判断出来る彼女達の慧眼も驚嘆すべきですし、それほどまでにスタイルごとの踊り方の特徴がハッキリしているというのも驚くべき(しかし日本人からはあまり重視されていない)事実です。

かように明確なルーツをマミちゃんが持っているのはすごい事でも珍しい事でもなんでもなく、本来ならば当り前で然るべきなのです。
早く日本でもそれが当り前の事になって欲しいものです。


先日の記事でも書いたように、真っ当な先生とそうでないのを見分ける際、「クムは誰か」を問うのはとりあえず有効な方法の一つです。
よく分らない説明で誤魔化したり、一貫性の欠片も無い色んなクムの名前が出るわ出るわ……という場合、こいつァ胡散臭ェぞと思っちゃって大丈夫です(笑)。

なぜ「とりあえず」なのかと申しますと、この問いかけでは、契約のもとハワイのクム側は上納金やワークショップ・発表会ゲスト出演などといった収入を得て、日本の先生側はそのクムの振付とネームバリューを得てwin-win、という私が呼ぶところの「ニュータイプの師弟関係」には対応できないからです。
ニュータイプの師弟関係の特徴は、振付やユニフォームといった「形」の面ではいくら似せていても、師匠(クム)と弟子(日本の先生)の根本的な踊り方のスタイルがまるで似てないところと、ときおり暖簾の柄が変わる場合がある事です。
急に暖簾の柄が変わると、振付だけでなく基本的なステップやレッスンで着る物、入室時のお作法に至るまでそっくり変えないとならなかったりするから大変よねえ(他人事)。

本当の意味でのクムとハウマーナの在り方と、ニュータイプの師弟関係のそれは見る目のある人が見るとホント目眩がするほど違っているんですが、見る目が無ければコロッと騙されてしまうかもしれません。
そこで、騙されない為の【真実】を次にご紹介致します。



【真実3】ウニキは絶対的な資格ではない。

日本人は肩書きに弱い人種です。
肩書きに弱いってのは、イコール本質を見抜く「見る目」に欠けている証でもあるんで、ホント気をつけた方がいいです。
学歴なんかもそうですね。海外には、卒業が難しいのでそこを出たってだけである程度優秀だといえる大学が沢山ありますが、日本は一旦入っちゃえば遊び呆けようが中退しようが「学歴」になっちゃうっておかしいよなあ。
って、関係ない分野の愚痴はさておき。

肩書きに弱いタイプの人がフラの世界で気をつけなければならないのは、「ウニキ」という言葉です。
ウニキ。「卒業」と訳される事が多いですね。ウニキを受ける、とか、ウニキを授ける、といった風に使います。
よく先生のプロフィール欄に「クム誰々からウニキを授かる」と書いてあったりしますね。

ただ、この「ウニキ」、社交ダンス教師のような国家資格とはだいぶ違います。
国家資格とされている社交ダンス教師だって、実は………とか語りだして「おや、こんな夜中に誰か来たようだ」になるといけないからここでは割愛します(笑)。だいたい、私が知ってるのは協会分裂前の話だけだし(オイ何を話そうとしてる)。


まあ、少なくとも社交ダンス教師には全国的に統一された試験があり、合格基準があります。
しかし「ウニキ」には無い。
フラ自体がその教室あるいは系統ごとに異なるのと同じく、「ウニキ」の在り方もそれぞれなのです。

本来、ウニキとは相応の技術や知識を備えた人物が、相応のプロセスを経て授ける/授かるものです。そうでなければなりません。
もちろん、そのようにしてウニキを授けて/授かっている方も大勢いらっしゃいます。
しかし、そうした正当な方々の名誉の為にも声を大にして言っておかねばならない。
ウニキは絶対的・普遍的な資格ではないと。

ちなみに、ウニキの授受が行われないお教室もありますし、ウニキを受けずにクムになった方はハワイでも少なくありません。
そうしたクムは正当でないという事も決してありません(もし正当でないと言っちゃうと、今ハワイで活躍している何人かの素晴らしいクムを否定する事になってしまいます)。

また、ウニキの存在するお教室であっても、どういう人にどういう過程を経てウニキを授け、ウニキを授かった人がどうなるのか(例えばクムになるとしても独立して別の教室になるのか、今いる教室のクムとして並び立つのか、後継者として譲られるのか)といった事は一切個々に委ねられています。
「クムの元で何年修行した人が、かれこれこういう勉強をし、こういう試験を受け、こういう基準に基づいて合格すると、こういう儀式を経て、こういう資格を持つ」というような共通の決まり事は一切無いのですね。
共通しているのは「クムが認めた相手に授けられる」という事だけです。

そうするとどんなことが起るか。
ズバリ、かつて腐敗した教会組織が行っていた免罪符の乱発のような現象です。まったくルターも真っ青だよ。
彼はフラの業界の人では無いし、第一現世には存在しないので、ルターさんに代わって私が95箇条の提題をせっせと書いてる訳ですね。って95箇条もあったらたまらんがな。もうちょっと簡潔に済ますからちょっと待ってくださいな。


まあ、腐敗した教会組織と一緒にするのは流石にアレですが、それにしても、「ウニキ」をかーなーりフレキシブルに解釈してらっしゃるクムが存在する事は確かです。
日本人が相手だと特にね。

というのは遥か昔、ある著名なクムにウニキを授かったという日本のセンセイの舞台を拝見したんですが、ウニキを授かるほどの人なら…いえ、およそまともにフラを習っていれば小学生でも使えるような「ある道具」の使い方がまるでなってなかったり、「…クムはオリの仕方をお教えくださらなかったのですか…ッ!! はうはううえ~、はうはううえ~」と見てるこっちがむせび泣きたくなって来るような詠い方だったりするのを、この目で思いっきり見てしまったのですね(※ちなみにお一人だけではありません)。

あとこれも10年から昔の話ですけど、これまたあるクムからウニキまで受けているはずなのに、一切踊りを覚えられない方とワークショップでご一緒した事もあります。
趣味で習っているならさておき、ウニキを授かるほどなら、振付の覚えはもう少し良くなっているはずなのだが………。
ただ後者の方はウニキ連発で有名なクムなんで(ああとても実名は出せないw)、むべなるかな。という感じです。ウニキを授けた日本人の顔と名前、全員分覚えておられるのかなぁ。


私は「ウニキというのはおしなべて胡散臭い」と言ってる訳ではありません。
むしろ逆です。本当の意味でウニキを授けているクムや、授かった方々の名誉の為にも、「ウニキ」という言葉だけで判断してはいけないのです。
本当にウニキを授かるに相応しい方であれば、何も肩書きだけを見なくとも、十分な技術や知識をお持ちのはず。
それらの実力面で見ねば失礼というものです。



はあ~~~。95箇条どころか3つしか書いてないのに、8,000字近くになってしまいました。
ホント簡潔にまとめられなくてスミマセン。
自分で書いたものを読み返して言いたい事をまとめると、「フラは物凄い多様性を持つ文化である」って事ですかね。
基本的な踊り方だけを見ても千差万別ですし、生徒の集め方からレッスンの進め方、ウニキの授け方に至るまで、「これが正解」と言えるものはほとんど無いと言えましょう。
何が正解かを決められるのは、各々の教室のクムだけであり、それもその教室内でのみ通用するものに過ぎません。


じゃあすべてが無法地帯かと言うと、そうではありません。
多様性の中に、フラの根幹をなす「普遍性」も確かに存在する。
それを無くしちゃうとフラではなくなってしまうのですね。
すごく分りやすい例で言うと、「振付はすべて歌詞の意味内容に合わせて付けられる」とか、「足の裏で大地をしっかりと感じながら踊る」とか、「歌われているものへの愛情や尊敬や感謝の気持をもって踊る」とか。
もっと微妙なところにも「フラをフラたらしめているもの」が無数に存在し、それらが系統の違い・クムの違いによって物凄い多様性を見せるフラを「フラ」というひとつの枠に繋ぎ止めている、という印象を私は持っています。すごく個人的な印象ですけど。

で、「何がフラの多様性であり、何が普遍性なのか」という事を良く考えると「見る目」が養われ、上達のヒントになるというのが、これまた私のすごく個人的な意見です。


今日は長くなっちゃった~。すみません。
外も明るいよ。もう寝よう私。




人気ブログランキングへ

よろしければ、ブログランキングにクリックをお願い致します。

最新の画像もっと見る