子ども医療講座 改訂版
第2回 子ども医療講座(改訂版-2)
「 子 ど も だ っ て 一 人 の 人 間 だ 」
1)子どもは社会の子どもです。親の所有物ではありません。
子どもは、今の社会では親の付属物的に扱われています。だからちょっと注意しても「うちの子に何をいうのと」親に言われてしまいますが、昔は町の中でいたずらすれば、注意するのは他の親だってしていましたが、今はしなくなっています。かえって親から何か言われるのが嫌だから言わないという時代になっています。
しかし、子どもを産むのはお父さんとお母さんですが、育てるのは社会です。なぜかというと、子どもというのは、社会の中で人間になっていく。社会の中で育たなければ、人間として成長しないのです。
昔、狼によって育てられた狼少年たちがいたし、また二十数年前、南アフリカで犬小屋の中で育てられた1歳半の子どもが見つかったことがありました。狼に育てられたという記録をねつ造だとする意見も少なくないですが、それにしては多数ありますし、いろいろな動物によって育てられた人の記録があり、全てを否定することはできないと考えます。犬小屋で見つかった子どもは、両親が育児放棄し、犬と同様に扱ったのです。小さい時に狼に連れ去られて、特に乳児から1歳頃までを狼に育てられた子どもたちはほとんど人間に戻れません。狼によって育てられると狼になるのです。狼に育てられた人間は四つ足で非常に早く走れて、人間が走るより速く、生肉を食べて、狼のように吠えて言葉が喋れるようになりません。人間の社会に戻れずに亡くなっています。狼に育てられたという人の中で、二人だけ言葉が喋れるようになった人がいたという記録が残っていますが、その人たちが言葉で喋れるのは、言葉を覚えてから以後のことだけでした。言葉を覚える以前のことは喋れません。これは言葉の問題と関連しますが、言葉を覚えて初めて物事を言葉で記憶出来るようになるようです。言葉として記憶するから、言葉がなければ、まわりの風景を見ていても、それを表現することも記憶することもできない。覚えている映像を言葉として表現できないのです。子どもも言葉をーつ覚えたから一つ言葉を喋れるのではなく、沢山の言葉を覚えて、初めて一言、二言出てきます。
そこからも私は、発達障害を遺伝的に持った素質と育てられ方によってなるという説を支持します。人として生まれても赤ちゃんの時から動物に育てられると人間として成長しないのです。南アフリカでの犬小屋で見つけられた子どもは新聞で報道された事実です。その子がどうなったかは報道されていません。猿に連れ去られて、人間社会に戻った人の記録がありますが、言葉を覚えてから連れ去られた場合には、記憶として残り、後日話したことを本にしてもらった人がいます(マリーナ・チャップマン「失われた名前」)。
明治時代には、1歳で猿にさらわれて育てられ、10年後救出されて小学校に入ったという大丸徹という東映の大部屋俳優がいて、その人が書いた文が少年雑誌に載っていて、それを少年時代に読んだ時に、非常に印象深くていつまでも覚えています。その話では、年に一回夏に山に戻るのです。何も持たないで行く。つまり猿と同じように何も道具を使わないで山の中に生えているものや、生きている物を食べて生活をします。猿と同じように火を使わない生活ができるのです。その人が都会で仕事をしているときに、時々ホ-ムシックになると動物園に行き、動物たちと会話をしたと言います。どうやって会話をするかというと、しぐさや声の出し方で会話をします。動物たちは、猿は猿同士しか会話をしないかというとそうではなく、いろいろな動物同士でしぐさで会話しているのです。ところが人間生活が長くなると、そのしぐさが低下してしまって、通じなくなってしまったと言っていました。
それはさておき、子どもは社会の中で社会によって育てられています。社会の最小の単位は家庭です。(社会とは、三人からを言うようです。)家庭から地域社会へと広がります。そういう人間社会で人間として育って大きくなります。
例えば、中国から日本人の残留孤児たちが引き上げて来ました。その人たちは、皆中国人の顔をしていて、見ると中国人としか見えません。ところが日本に長くいると、日本人の顔になります。外国人もそうです。日本に来たては外国人だけれども、日本に長くいると日本人的な顔になって来ます。逆に日本人がアメリカに長く行っていると、アメリカ的な顔になって帰ってくる。つまり人間は社会に育てられ、そこで生活していると、その社会による文化によって変わって来ます。
子どももそうです。あくまで社会に育てられて、成長しています。人間は誰でも、人間として生きていくためには、社会がなければ生きていけません。たった一人では人間として成長しません。だから子育ても、社会的なものです。子どもにとっては産みの親より育ての親が大切であると昔から言われていました。育ててくれる親がいることによって子どものこころは安定します。
母親が一人で子育てに悩む必要はありません。周りの人に相談したり、みんなで子育てすれば良いです。親は自分が産んだ子だとわかるけれども、子どもには判らないし、子どもには選択権がありません。育ててくれた親が自分の親なのです。
虐待している親から子どもを引き離すことは、社会の義務ですし、離されることは子どもの権利です。虐待されている子どもは、自分が悪いから虐待されていると思うので、親を非難しませんし、親からなかなか離れたがりません。でも離すことが社会としての義務です。離されてから、だんだん子どもは自分の置かれていた状況を判るようになり、離されたことを感謝するようになります。虐待は、子どもの脳の発達を妨げたり、異常にします。(「虐待が脳を変える」友田明美、新曜社)早く離して、正常な発達に戻すことが必要です。25歳までにしないと、つまり成長が止まったら大変苦労しないと戻りません。
以前イスラエルにキブツという集団農場がありました。今はどんどん崩壊して、残っているかは分かりませんが、昔はこれがやはり昔の日本のヤマギシ会と同じように、原始共産体制をとっていました。持ち物はほんの僅かな私有物だけで、あとはみんな共有財産として生活していました。化粧品もハンドバッグも共有です。夫婦はひとつの個室で生活しますが、子どもは全部1ヵ所に年齢毎にまとめられて、集団生活をします。子どもたちの日常の生活の介助をしてくれる人達も、他の仕事と同じように交替で勤務します。そういう社会の中で、子どもたちが親から離されて不安定になるかというとそうではありません。夕食を親と一緒に食べて、寝るまでの団らんの2時間ぐらいの間を一緒に過ごすと、子どもの心は安定します。別に精神的、心理的な問題は起きなかったと言います。当時イスラエルは(今でも)戦争状態でしたから、両親をなくした子どもが沢山いて、その子どもたちには、「この子はあなたが育ての親だ」ということで、育ての親を作ります。実際には夕食から寝るまでの間しか一緒にいないのですが、それでも親代わりの人を作ると子どもの心は安定します。そういう現実がありました。
また、昔社会主義の時代だった中国で一週間保育という制度があって、月曜日の朝連れて行って、土曜日のお昼に連れて帰ります。親と一緒にいるのは、土曜日のお昼から月曜日の朝まで。だけど親がいて、その時間一緒にいれば子どもの心は安定します。特に問題は起きません。つまり子どもというのは、そういうものです。
日本の自民党や厚生労働省の幹部は、小さい子は親元で育てなければいけない、親が常時いなければならないと言っていますが、そんなことはない。子どもの心というのは、親がいるということだけで、安定します。
国立病院に勤めていた時、入院している子どもたちで親が付き添っていない子どもたちは、面会時間になるとみんな病棟の入り口まで行って親が来るのを待っていて、お母さんが来ると一緒にくっついて病室まで戻るけれども、5分ぐらいしたらもう離れちゃって、ほかの子と遊んでいます。いると思うと、安心してノビノビ自分の好きなことをしています。そして、帰る時間になると、またやってきて、母親にピッタリくっついてしまい、帰る時には泣いたりします。でもお母さんが見えなくなると、けろっとしてまたほかの子と遊ぶようになります。つまり親がいるということ、そしてちゃんと会いに来てくれるということで、子どもの心は安定します。そして問題は起きません。
だが今は、子どもは親の物などという風潮があります。その点欧米では随分社会化されています。例えば、アメリカでは子どもの物をとったということで子どもが親を訴えると親は処罰されます。日本は処罰されません。そういう法律がないから。子どもの物をとってはいけないというのは、アメリカでは当たり前。もちろんアメリカの税制も全部個人が単位です。
一人一人の人権を尊重して、北欧諸国からフランスあたりまでの国では、子どもの虐待に対して厳しくて、誰かが虐待をしているのを見て通報すれば、親が処罰されますし、強制的に子どもを離されます。親が必死で子どもを取り戻すためには、法律上では裁判で争わないと、取り戻せません。子どもの虐待を防ぐということが隨分進んでいます。
しかしまだ日本では、子どもが虐待されているのを見過ごしていて、虐待で死んでいる子どもが年々増えています。まだ福祉事務所や、警察がなかなか介入できません。それは、法的な整備がされてないから、し難いということと、子どもは親の物というのが社会的に一般的に思われているからです。その二つの問題点があります。
旧統一教会の二世信者問題も同じです。昔は、「ものみの塔」というキリスト教系の信仰宗教があって、輸血を拒否することで知られていました。子どもに必要になった時に、どうするかが小児科医の間でも議論されました。結論は、本人が判れば本人の承諾で輸血をしました。本人の意思が確認できない、低年齢では医師の判断でしていたと思います。
子どもだって一人の人間です。 親の所有物ではなく、親とは別個の人格があります。だから親の言いなりになることはないのです。子どもには子どもの人権があり、例え乳児であろうと、一人の人間なのです。子どもは親が生みますが、子どもはその親の元に生まれたくて生まれたのではありません。親とは別の人格があるし、基本的人権を持っています。
旧統一教会の二世信者問題が浮上したら、他の宗教の二世信者たちが立ち上がるきっかけとなりました。マインド・コントロールのことは問題になりません。なぜなら、日本では知りませんが、アメリカでは催眠術を使って自白させることもあるという噂があります。ナチスが使ったのも集団催眠ですし、学童の車酔いを無くすために集団催眠をすることもありましたから。金銭を要求する宗教は認めてはいけません。自発的にするのはよいですが。子どもの教育費が問題になるのは、日本は教育費が公費負担ではないからです。
また、校則の問題があります。学校の制服は、一部の国から囚人服だと言われたこともあります。私は、中学から自由な校風の学校で過ごしたので、あまり自覚しませんでしたが、高校で自動車免許を取り、四輪車を運転していましたし、たばこも酒も吸ったり飲んだりする現場を押さえられなければ処分されませんでした。喫茶店も禁止でしたが、喫茶店のマッチを集めて高校祭に展示した先輩もいました。
校則で規制するのは、憲法違反ではないかと思います。個人の自由の侵害です。法律で認められているのに、学校で禁止するのはおかしいです。都立高校で男女交際や下着の色や髪の色、ピアスなどを禁止している学校もまだあるようです。私の息子も自由な校風の都立高校でしたし、娘も制服のない学校でしたから、校則でしばることなどあまり考えたことがなかったのです。最近、すべての都立高校の校則で髪の毛の色を黒にすることを廃止したと聞き、驚きました。もう15歳になったら大人として育てるべきだし、大人としての自覚を持たせる必要があります。昔は、男子は15歳で元服したと思います。選挙権がなくても、一人の人間としての基本的人権があると思います。
☆いつから子どもの人権を認めるかという議論が日本ではなされていません。
子どもにいつから人権があるかというのは日本では問題になっていませんが、世界的には問題になっています。子どもが人権を持つのは、卵子が受精した時か、それとも妊娠中絶がいけないという時期(妊娠23週になると中絶できない)つまり23週以後か、おぎゃーと誕生した時なのか、いろいろと各国で議論があります。さらに自我意識が出る3歳過ぎか、月経が出るとか精液ができる時からか、元服の時か、選挙権を持つ時かということが、どこでも議論されていません。これはおかしいことです。
☆やはり子どもを育てるのは社会で、みんなで子どもを育てていくという感覚がないとなかなか難しい。確実に少子化が進んでいますが、「子どもを産むのは自分たち夫婦二人で、特に女性の方にかかってしまうから大変だから、子どもは一人でいいや。もう2人3人と、育てるのは大変。」という思いにつながってしまうとだんだん産まなくなってしまう。それが少子化につながっています。保育所とか子育ての仕組みをもっと社会的に充実させていかないと、少子化の進行は防げない。「子どもは社会で育てる」ということがまだ日本では遅れていますし、行政や官僚の中ではそういう感覚は育っていません。
近年、父親の育児休業もとれるようになりました。子どもの介護のための休業も必要です。子どもが病気になると父親か母親がどちらか片方が勤めを休んで看護することができることが必要です。そのことをやっぱり社会的に作り上げていく必要があります。まだ社会的に、自民党の政策の下で、子どもは母親が育てるものという意識が強いのです。それが女性の社会進出を妨げています。
2)生まれたら一人前。子どもの個人の権利と義務。
子どもは生まれたら一人前、子どもの権利は子どもが生まれた時からあるというのが私の立場です。国際的な子どもの権利法案がありますが、日本はまだ正式には批准していません。それは、批准するための環境整備が非常に遅れているからです。日本は先進国に仲間入りしたはずなのに、先進国に比べて子どもの権利というのは、はるかに遅れています。だから批准するためにはいろいろなことを整備しなければならない。だからすぐにとは政府は批准できない。
給食もそうです。給食を食べなければいけないと強制すること自体がおかしいです。
食べなくたっていいのです。むしろ今は、給食の無償化が必要です。給食で食を満たす子どもが増えています。子ども食堂はない方が良いのです。政府や行政がしないから、してるに過ぎません。
「服装の乱れや、生活の乱れは非行につながる」と言う人達がいます。でもそれは思い違いです。それが証明されてはいません。その人たちの思い込みに過ぎません。規則で縛るから反発してそういう服装をしたがります。言うことを聞かないのだとの意志表示でわざとそういう事をしたりするのです。
今の中学は、朝練から夕方の練習まで一日中部活で縛って何もできないようにしています。「そうすると非行に走らない」という感覚でいる先生方が未だに多いようです。行動を規制すれば、非行に走らないというのは思い違いです。
法律を作って規制すれば、法律をかいくぐっていろいろ悪いことをする人が必ず出て来ます。いくら規制をしても、非行に走る子は走ってしまう。それよりも子どもたちに生きる目標を与えることです。何かしたいこと、やりたいことをやらせる。そして目標をもって本気になったら、その子たちはその目標にまい進します。
少なくない有名人が、中学や高校時代に警察に手を焼かせたりしています。でもその人たちは、その人の人生を変えてくれた人が居て、良い人生をたどることができたのです。
だから、今でも暴走族がいて、車を乗り回しているのですが、暴走族が一番少なかった時期はいつかというと、全共闘運動が華やかで、高校生共闘もでき、若い世代が学生運動に入ってきた時期が一番暴走族が少なかった。自分の学校や社会に対する不満がある子たちは皆そっちに吸収されてしまった。今は、そういう運動が何もないから、暴走族になって反抗しているだけです。
だから、子どもたちの権利を認めて、自主性を認めて、自分たちでやらせるということ。それは何歳からかというと、私は生まれた時からと思っています。
日本ではまだ議論されていないし、子どもの人権とか権利そのものが、議論されていない時代です。だから子どもの権利が認められていないから、子どもの自由も認められていません。
子どもはちゃんと意識していますから、ちゃんと教えて行けば、いろいろ成長して行きます。赤ちゃんの時だって、教え方があります。
☆前述の猿に育てられた人の話を聞いて、ああそうかと赤ちゃんと会話をしようと思いました。赤ちゃんとどうやって会話するかと言ったら、しぐさと目つきです。しぐさや目つきでうまく表現すると赤ちゃんは笑ったりして反応してくれます。
今は、赤ちゃんや子どもたちと、しぐさや顔付きや目で会話するようにしています。それで赤ちゃんたちが笑ったりします。親は不思議そうな顔をすることが多いのですが、おもちゃを使ったりもしますが、泣きわめいていた子どもがちゃんと私の言うことを聞いてくれるようになるのを見て驚かれます。
だけど人間はなかなかしぐさができません。言葉を使わないとできません。だから言葉をかけてあげます。言葉をかけると自然にそのしぐさをとります。だから言葉をかけていろいろしてあげましょう。通じているのは言葉ではなくてしぐさだと思います。だから言葉を出さなくても、しぐさですぐばれてしまう。こっそり薬を混ぜようとしても、そのしぐさでばれてしまう。隠れて何かしようとしてもばれてしまう。表情や雰囲気に表れてしまうのです。
動物たちはしぐさで会話をしていたし、赤ちゃんたちはそれを読み取ります。しぐさを読み取る能力が言葉のコミュニケーションがないほど高いです。言葉で会話をするようになると、だんだんその能力が落ちていってしまいます。言葉に頼ってしまいます。
子どもが大きくなると、言葉だけになります。子どもは会話を通していろいろ学んでいきます。大きくなっていくと、保育所とか幼稚園に行きます。
☆子どもに対して、「朝食を食べないといけない」とか、「毎日ウンチをしなさい」とか、「給食は全部食べなくちゃいけない」、「牛乳は飲まなくちゃいけない」と強制をします。学校だって毎日行かなければいけない。そういうことは強制する必要はありません。なぜかというと、全く根拠を持たない思い違いです。どこにそれを証明するデータや事実があるのでしょうか。
☆「学校は楽しくなくて当たり前だ」と書いていた人がありましたが、楽しくなかったら、学校へ行かなくなります。保育所でも幼稚園でも楽しいことがあるから行くのです。楽しくすることが、ポイントです。
☆飽食の時代に食を強制することはおかしいと思います。私は「食育」という言葉は好きではありません。食べ物アレルギーは、親による食の強制にあると思っています。実例もあります。だから治すことができます。食べることで教えるのは、おかしいです。食べることは楽しいことなのに、楽しくなくなります。
- 子どもに強制はしない方が良いです。
例えば小さい子どもの脳性麻痺のリハビリがあります。現在大人になっている脳性麻痺の人達は口をきくのも、身体を動かすのも非常に不便です。ところが小さい時にトレ-ニングをすると、ずっと改善します。そのトレ-ニング法が二つあります。
一つは決まり切ったやり方で、このトレ-ニングをしたら、次のトレ-ニングをしてと決めたとおりに赤ちゃんたちにやらせる方法です。数カ月間続けます。ところが赤ちゃんたちはそれにのってくれないで、いやがります。
それに対してもうーつのやり方は、その時その時に赤ちゃんの好んだやり方で次々とトレーニングを変えて行って、終わった時には一通り全部やっているという方法です。これは非常にテクニックが必要です。誰でもできることではありません。でもそのやり方だと子どもは喜んでやります。
その二通りがあります。手はかかるけれども、子どもの気持ちを尊重してやるリハビリというのは、子どもたちも喜びますし、それで発達します。決まった手順でやっていくやり方は、子どもが嫌うのでなかなか発達しません。嫌がってやらなくなってしまいます。
つまりこれは一つの例ですが、どんなことでも子どもを上手に扱えば、うまく子どもの気持ちを嫌がらないようにしていろんな訓練ができるのです。
☆昔ドイツにボリスベッカーと言うテニスコーチがいて、男性と女性の二人の選手を世界一にしたのです。子ども時代から指導したのですが、その方法は子どもたちにテニスをやらせる時、ボールを打つ練習をさせます。するとボールが飛んで行ってしまい、ボールを拾いにいく必要がありますが、子どもは嫌がります。それを一個一個のボールにひもをつけて、ボールを取るときはひもを引っぱれば集まるようにしました。とにかくあれが嫌、これが嫌というと、そのたびその度に嫌なことをなくすようにしたのです。
それでテニスの練習をさせたら一生懸命練習をするようになり、世界一のプレーヤーが二人育ったのです。嫌なことをなくして練習させるのがこのコーチのやり方でした。だから喜んで一生懸命練習をして世界一になりました。嫌なのが当たり前だなんて言って、子どもたちに押し付けたら、だんだん練習しなくなってしまいます。だからどうやってやりたくなるように仕向けるか。そこがポイントです。
☆ アメリカのケネディ家とか、ロックフェラー家とか開拓時代からの大家族というのは、決して強制しないです。子どもに後を継ぐことや、仕事を強制しない。ところがその家族集団の一族の中で、必ず上手に誰かが一族をまとめて、誰かが後を継いでいくように仕向けていくのです。自然に誰かが継いで一族を守っていきます。長く続いている家というのは、そういう仕組みがうまくできているのです。またそれだけ一族で結集しています。
だけど、新興のいわゆる成り金といわれるような一代で一族を築き上げた人というのは大概うまくいかないのです。自分の子どもに後を継ぐことを強制します。するとうまくいかないのです。江戸時代でも、「売り家と唐様で書く3代目」なんていう川柳がありますが、3代目になると、一族は潰れてしまう。大体そういうのが普通です。強制して子どもたちに継がせようとするとうまくいかないのです。大体反発して辞めたりしてしまいます。
上手にまわりから持っていくのがこつです。長く代々続いている家というのは、そのやり方が自然に伝わっているのです。だから自然に親は子どもにそういうふうに教える。すると自然にその子は親の後を継ぐようになってしまうのです。
☆ 昔、お嬢様ブームといって、お嬢様という呼び方が流行った時期があります。お嬢様というのは、自分が受けた教育を一番良い教育だと思って自分の娘に教育します。そして育てられた娘というのが、お嬢様なのです。ということはある程度、家庭が裕福でなければできません。子ども時代自分は惨めだったから子どもにはそんな思いはさせたくないと思ってしまうと、子どもは別な道を進んでしまいます。それが現実です。自分と同じことをさせないと自分と同じように育ちません。裕福な家庭でないとそれはできません。そうして育てられたのがお嬢様なのです。
でも現実に、自分と同じくさせたいと思うとなかなかうまくいきません。ではどうしたらいいか。子どもは子どもの人生を歩んでもらうしかありません。それは自分の人生を見せて、よければ選んでもらうし、別の道がよければ別の道を選んでもらう方法しかありません。子どもに強制することはできません。一人一人の意志、一人一人の個性を見つけてあげて、育てて下さい。でも別々の道を歩んで行きます。同じように育ててもみんな違います。沢山の子どもを育てれば判りますが、一人や二人では判りません。
だからのびのび育てて下さい。あなたにはあなたの人生があり、子どもには子どもの人生がありますから。
3)自然にのびのび育てよう。よく遊べ、よく学べ。
明治時代は「良く遊べ、良く学べ」というのがスローガンでした。学校では「学校でよく勉強しなさい。家に帰ったら、家の手伝いをしたり、よく遊びなさい。」と教えていた時代です。その時代にいろんな大企業の創立者たちが育っていますが、今、アメリカではそういう時代だそうです。家に教科書を持って帰ってはいけない。つまり、学校で教えることは知的な教育ですけど、家で教えることは勉強ではなく社会的な勉強や人間関係、そういうことを教えて行くのです。
子どもは遊びの中で、自然に社会関係を学んでいきます。子どもたちの遊びというのは、非常に大切なことなのです。だけど今それが無視されていて、子どもたちが仲間と遊ばなくなりましたし、遊びも違ってきました。人間関係が作れない子どもたちが大人になって、苦労している人たちがいます。人間関係がうまく築けず、人前に出ると喋れないとか、ものが言えなくなるとか、いろんな大人の人たちが出てきた。それは子ども時代にそういうことをしていないからです。
☆だから幼稚園、保育所、学校というのは、楽しいところでなければならないのに、楽しくなくて行くから、不登校とか、幼稚園いくのが嫌だとかいうことになってしまう。だから本当に上手な幼稚園や保育所の先生たちは、子どもに強制をしません。私の知っているある幼稚園では、費用は高いのですが、やりたければいつまででも運動場で遊んでいていいのです。他の子は部屋に入って、ピアノで歌を歌ったり、絵を描いたりしているのに、遊びたい子は外で遊んでいていいのです。男性保育士さんも二人いました。女の子でサッカーがやりたければやらしてくれる。そういう身体を動かすことを外でもやれるし、部屋で絵を描いたりしていたければそれもできる。運動会の参加も自由です。さらにオペレッタを子どもたちにやらせるのですが、劇というのは主役が一人いて、あといろんな役があるでしょう。ところがやりたい人はみんなその役になれるのです。海賊船の船長さんが3人出てきて同じ歌を歌ったり、お姫様が4人いたりするのです。やりたくなければ出なくてもいい。だからやりたいものをやりたいようにさせてあげる。子どもたちは喜んでやります。
また子どもたちにはこうしたらいい、ああしたらいいという提案をさせます。そうするとそれを受け入れて一緒に考えてオペレッタを作っていく仕組みができてきます。非常に面白い所で、楽しくてみんな行くわけです。嫌がる子はあまりいない。仲間に入れない子は、ほかの子が誘うのです。運動会に出ない子、走らない子がいるけれども、ほかの子が一緒に行こうよとか、みんなで誘う。そうするとそのうちにやるようになります。そうして仲良くなってみんな一緒にやるから、最後は出ない子はいなくなります。自由にさせています。それで子どもたちはのびのび育っていきます。園長先生たちは、じっとそれを見ているだけで、主役は子どもたちです。
学校も本来そうあるべきだと思います。ただ学校の場合はもう少し規則があっても良いかもしれないけど、今はあり過ぎです。子どもの自由な想像力を奪っています。
4)「闇教育」―― 子どもに間違ったことを教え、子どもに服従と従順を教え込むという教育原理(「楽園を追われた子どもたち」より)
19世紀の終わりから20世紀の初頭に子どもたちを親に従属させた、特にフランスを中心に行われた教育です。親や大人のいうとおりにさせる教育です。それを現代の研究者たちは「闇教育」と呼んでいます。つまり、「親のいうことは必ず聞く。親はいつも正しい。親は尊敬されなければならない。親は子どもの要求に屈する必要はない。子どもは尊敬に値しない。子どもの価値を評価してはいけない。子どもにやさしくするのは有害である。服従する人は強くなる。外見の方が心より重要である。見せかけの謝意の方が感謝の気持ちが欠けているよりましである。激しい感情の動きは有害である。肉体は不潔で嫌らしいものである。」というようなことを、まだまだいろいろありますが、子どもに小さい時から教え込むのです。そういうことによって、子どもに従順と服従を教える。そして親の言うなりにさせる教育です。闇教育については、別に書きました。(ブログ参照)
「スパルタ教育」というのは、フランスの乳幼児精神分析医が書いているのですが、「今では経済社会が生んだ精神病のーつとされ、同時に両親や教育者のサディズム的欲望の結果であると見なされています。」(前出書より)。フランスや北欧諸国では、スパルタ教育はおかしいとされてきました。だけど日本ではまだスパルタ教育は教育法として通用しています。スパルタ教育が教育法ではないとされるのはあと30年や50年はかかるかもしれません。
ですから、体罰は教育としての有効性を持たないのですが、まだ日本では教育に体罰は必要であるという考えがなくなりません。子どもに体罰をして、良いということは一つもありません。体罰されても言うことを聞かず、隠れてやるだけになります。中学、高校になって体罰をされると必ず仕返しを考える生徒が出てきます。
だから学校が荒れるのです。子どもを教師の言う通りにさせようとするから、問題が起きるのです。
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