黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

人間的な医療を目指して

2020-04-12 11:41:54 | 現代社会とストレス
人間的な医療を目指して

今思うこと

ヒポクラテスからデュボスまで

 人間的な医療を目指して
             Human medicine
★ヒポクラテス教義
 病気は悪霊や移り気の神が原因になって起こるのではなく、むしろ、自然の法則に従う自然の力で起こるものである。したがって、治療の技術を合理的な基礎の上に発達させることができる。こうした手段には、自然の力の害をなしている効果を正すようにと目指された食事、薬剤、手術の利用がふくまれる。
 人間の福祉は、特定の空気、水、土地およびいろいろの食糧をふくめて、環境の影響のもとにある。環境が人間におよぼす影響を理解することが、医師の技量の根本的な基礎である。
 健康とは、人間の本性のいろいろな成分(すべての人間の活動を制御している四つの体液)、環境、および生活様式との間の調和のとれた平衡のあらわれである。
 こころに起こったことはどんなことでも身体に影響が及び、またその逆も起こる。事実、こころと身体との一方を他から分けて別々に考察することはできない。
 健康とは健康な身体に存在している健康なこころを意味するもので、生体のいろいろの力と環境の力との間のつり合いを保証している自然の法則と合致するように、毎日の生活を統御することによってのみ達成できるものである。
 医療は倫理的職業であり、人間の条件ヘの尊敬の態度を意味するものである。

★医療の科学の責務のーつは、技術的な文明が創り出した新しい脅威が、身体とこころにおよぼす効果を究明することである。(デュボス)
 :環境の刺激および汚れた空気や水に始終さらされていること
 :人類が進化してきた自然の周期から、人間の生体がうとくなってゆくこと
 :人であふれている都会の生活での孤独と情緒的創傷。画一化された生存の単調さと退 屈
 :自動化からおこる強制的な暇つぶし。
 これらが、現在西洋文明に特徴的な医学的な問題の根源となっている影響である。
 身体とこころの不調の大部分は、環境の影響に対する適切でない応答のあらわれである。

☆生体論的で環境的な医学の発展をはぐくむ為に
 ①環境の力による効果の多くがきわめて間接的であり、また遅れて起こる。
  また、殆どすベての器官がまきこまれている一連の反応で、変化され、増幅される。  時間が本質的因子である。→アレルギー反応、悪性腫瘍、精神病等
 ②人間の適応的可能性は広い範囲にわたっていて、いろいろ異なった緊迫した状況に対 しても、何かの形で調整をやりとげることができる。人間の適応性の限界は知られていない。
 ③間接的で遅れて現われる影響が提起する問題には、生体が全体として示す応答が関係 している。都市の工業化された現代社会の生活が創り出した条件が人間におよぼす影響 → 長期間観察しうるもっと複雑な生物学的モデルが必要。
 ④医原性の病気、特に薬剤によってひきおこされたもの。
 ・ある種の毒性のものは―――直接的で単純
 ・しかし大抵の場合には―――毒作用は極めて間接的で、時間がたって現われる。
 ⑤行動の問題
  行動をかえる物質→種々あり
  栄養状態、特にアミノ酸代謝が精神過程に及ぼす影響
  遺伝的に制御されるが、生涯の初期における種々の剥奪によっても左右される。

 この様な形は生体論的で、生態的な取り上げ方を通じて理解され得る。
 そして、こうした研究は色々広い範囲の条件の下で長期に亘って数世代に渡ることさえある位にしておこなわれた場合にだけ、十分な科学的意味を持つ。

☆人間の本性の特徴
自然科学の知識の発達とその人類ヘの一般化が特定の個人に摘要できない理由は、
 ・個々の人間の反応するやり方が極めて個性的であること
 ・人間は常に非合理的な考えに影響されていること
  生物としての、かつ、社会的な過去を振り切れない
 ・心理的な力が環境に対する人間の応答の特徴や強さを決定していることが多い。


BCG廃止論と新型コロナウイルスの話によせて

2020-04-12 11:25:10 | 新型コロナ感染症
思い違いの科学史
BCG論議と新型コロナウイルス対策について

 今まで、私は免疫の話はしてきましたが、病気がなぜ起きるかの理論の違いをお話はしてきませんでした。今、その話をします。それは、新型コロナウイルスの対策の違いがあるからです。
 その最初に出します。続いて出していきます。

  BCG廃止論議について

匿名のコメントを寄せてくれた方へ
貴重な文献の提示、ありがとうございます。
 森さん(私の一年下の昭和42年東大卒)は、私の廃止論をまともには受け止めてくれず、講演会の時に質問に答えずに逃げました。今やっと私への答えを出したのでしょう。
当時の小児結核の専門家たちは、私の論文に対して結核研究所の森亨医師を始め、都立清瀬小児病院呼吸器科の雉本忠市医師(慶応の私の一年上)などからは、まともな反論はいただけませんでした。当時は京大教授の泉孝英医師(BCG廃止論の最初の提唱者)と私の国立埼玉病院時代に非常勤で来てくれた元国立相模原病院長の上島三郎医師は私と同意見でした。

 それでスウェーデンの先進的取り組みがどうかということです。スウェーデンでのBCG廃止後にすぐに出た乳児の結核性髄膜炎のケース二人の一人の母親は日本人でした。すなわち、移民の結核発病率と死亡率は、出身国の数字になるのです。これはその当時以前から言われていたことです。
今もスウェーデンは、シリアなどの難民を引き受けています。子どもの結核は、成人から感染します。だから母国の発病率を持った親から感染するのです。だから移民対策が重要なのです。今後の日本でも同じです。両親のどちらかが発展途上国の方だけが結核対策が必要であり、すべての日本の子どもたちが必要ではないのです。子どもの結核は、中学生以上にならないと他人へ感染しません。排菌しないからです。だから大人の結核対策が必要なのです。それを子どもにBCGを接種することで防げるわけではありません。今のスウェーデンでも、BCGだけで子どもの結核を減らしたのではなく、大人も含めての対策ができたからではないでしょうか。
結核研究での権威であるルネ・デュボスは、その著「白い疫病」(結核予防会発行)の中で、「BCGを使わなくても結核性髄膜炎を無くした国や地域がある」と言い、BCGの効果については懐疑的でした。現実に、アメリカ、カナダ、アイスランド、オランダなどの国は、BCGを使わずに日本よりも早く結核による患者や死亡を日本の5~10分の1に減らしたのです。それに対して、第二次世界大戦後に北欧諸国はBCGを推進しました。
 しかし、北欧での結核は社会民主党主導の社会経済政治政策で減ったのです。ドイツも含めた北欧諸国で、第二次大戦後にしたことはまず労働者に広い住宅を作ったのです。日本は工場を作りました。その違いです。BCGに頼った日本と、BCGを作ったフランスが、先進国の中で最も結核対策が遅れたのです。
 ワクチンで無くそうという取り組みよりも、女工哀史で象徴的なように、社会的政策で無くすことが必要です。
 日本には昔から結核があり、江戸時代にも労咳と言っていました。所が明治時代になり、急速な工業化が始まり、劣悪な環境の中で働かされた農村の女性たちが犠牲となり、結核が日本の工業化と並行して急速に増加したのです。日本の特徴は、普通ほかの国では高齢者が主なのに、若い人たちが主で、いろいろな小説の題材になりました。
 アメリカ大陸には結核は無く、白人が持ち込んで先住民(インディアン)たちを滅亡に追い込んだのです。世界や日本の歴史は、決して病気を取り上げません。しかし、いろいろな歴史上の出来ごとの多くは病気が絡んでいます。
 
BCGは、WHO共催による25万人にものぼるインドでの野外実験で完全に否定されました。それに匹敵する野外実験はありません。その後は少数の対照実験だけです。サイコロを振ってその確率の六分の一になるには、約千回振らないとなりません。だから、最低千人の対照実験をした結果ではないと信頼できません。
 科学史には、科学のピットフォール(落とし穴)があります。偽の相関関係です。全く条件を同じにしないと、比較できないのです。
 BCG論も、新型コロナ論もそこにあり、社会経済的、政治的条件を同一にして論じる必要があると思います。

 予防接種に関しては、私は感染症の理論から「選択的接種」を提唱しています。
 必要なワクチンと不要もしくは効果の期待できないワクチンとを選別して接種することを勧めています。それが人間と自然界(感染症も含めて)との適応関係の理論からです。
 適応関係が出来上がれば、弱い感染症になっていきます。でも妊娠中に感染すると、胎児への影響は残ります。トキソプラズマ、サイトメガロウイルスなどは通常ほとんど病気を起こさないのに、妊娠中にかかると胎児の先天性異常を起こすことがあります。風疹を始め、いろいろな感染症もいずれそうなっていくか、先天性異常を起こさずに消えて行くかだと思います。それが感染症と人間の間の適応関係であり、それは人間が感染症の微生物のゲノムの一部を取り込んで感染しにくくなったからです。(ちょっと極論すぎますが)
 いずれにせよ、ヒトのゲノムには感染症の歴史が書かれていたのです。人間と病原菌との適応関係ができあがったので感染症を乗り越えられたのです。その第一はペストでした。
 
 次に、私はワクチンのアジュバンドが自己免疫システムを壊すという根拠またはデータを持ち合わせていませんのでコメントできません。チメロサールも同じです。アルミニウムの危険性はあると思いますが、これもデータを持っていません。そういう副作用は、個々人によって異なりますから、すべての人に言えることではないと思います。あとは確率の問題になります。危険性の確率が高いか否かにかかります。また接種後長期間たってからの副作用については、考慮すべきだと思います。特に神経系の副作用については、少なくとも半年後の副作用も認めるべきだと考えます。それは日本製の百日咳不活化ワクチンを使った実験で、実験をしたスウェーデンとアメリカの医師たちが接種して半年後に起きた事象を副作用の疑いがあるとしたからです。
 しかし、もっと大切なことは、そのワクチンの必要性と副作用のバランスで考えることだと思います。それを教えてくれたのは、過去の小児科学会での討論でした。
 私の著書「予防接種のえらび方と病気にならない育児法」に書いておきました。

 ワクチン推進論者は、例えて言えば原発推進と同じで原発村ならぬ「ワクチン村」に住んでいて、ワクチン以外では対処できないと考えているのではないでしょうか。
 その人たちはなぜペストが、その原因も治療法も判らないままに終焉していったかの説明ができないと思います。その後ヨーロッパで流行した舞踏病についても同じです。
 医学医療は、社会が病気と闘う手段の一つにしか過ぎません。医学医療以外の方法で病気を減らすことができるのです。
 それを教えてくれたのが、私の信奉するルネ・デュボスだったのです。ロックフェラー大学の結核研究所の所長で環境医学の教授だった彼の著書「人間と適応」を読んで私は今までと変わったのです。そして彼の言う「生体論的で環境的な医学」を目指すことになりました。
 彼は国連の人間環境会議(1972年)のアドバイザー委員会の共同代表だったのです。(「かけがいのない地球」日本総合出版機構)

 それから自然の免疫システムについては、まず「生体防御」、「自然免疫」、「免疫の仕組みの話」(私のブログの免疫の項にあります)と、自然に持つ免疫機構を知って下さい。それはまず、最初に外来の病原微生物と出会う皮膚と粘膜の細胞の、外来の微生物との闘いが問題です。
 しかし、そこが今の医学では、なぜ防御できているのかの説明ができないのです。ここで防御できれば感染しないし、抗体もできないのです。これは社会経済的に決定されるのです。
 
 病原微生物が、最初にぶつかる皮膚や粘膜の細胞に対して、生物の側は無抵抗ですぐ侵入を許すのでしょうか。私は違うと思います。最大の抵抗をして、敗れた時に細胞内に入り込まれると思います。それには勝つ時も負ける時もあるでしょう。そして細胞内での闘いに入り、そこでも勝つ時も負ける時もあるでしょう。そこを突破されると、始めて細胞内でウイルスの繁殖が始まり、大量に増えると細胞をこわして外に散ります。そこで初めて検査に引っかかるようになります。
病気の症状は、人間の体が外来の病原体に対抗して出しているのです。熱は細菌やウイルスの繁殖を防いでいるのです。それを下げてはいけません。対症療法というのは、本当はしてはいけないことなのです。でもつらいなら少しは和らげてもよいでしょう。その分治りが遅れることも覚悟して下さい。
 今新型コロナウイルスに対する取り組みも同じです。発病率、死亡率はその国の社会経済政治的状況の反映です。イタリアとスペインはEUのお荷物の国です。ギリシャもですが、ギリシャに新型コロナが流行しないのは不思議です。また、アメリカでは黒人とプアーホワイトが流行の中心で死者も多いのです。
 そして新型コロナウイルス対策に対する世界的な誤りへの批判でもあります。感染症に対してすることは、ワクチンでも薬でもなく、社会経済的な政策であり、底辺の労働者の救済です。
 昔、ソ連邦が崩壊したら、結核やジフテリアなどの感染症が旧社会主義諸国に急増しました。今は、中国がその状態です。しかし、武漢だけで済んだことは象徴的で、武漢を中心として社会経済的な問題が隠されているのではないでしょうか。感染者数や死亡者が多いのは、その国の社会経済政策と福祉政策によるのです。そういう観点で見て下さい。
 金持ちの多いクルーズ船の乗客の感染率と死亡率を見て下さい。裕福だからそれなりのことができて、治るのです。