黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

人新世の資本論を読んで

2022-01-19 10:19:11 | 免疫の仕組み
          脱成長のコミュニズムによせて
 
 引き続き、「人新世の資本論」から、脱成長のコミュニズムについての私の感想を述べます。

脱成長のコミュニズムによせて

 コロナ禍も人新世によって生まれたもの
民主主義とは何か
資本主義によって商品化が進み国家への依存が進む
資本主義による国家の崩壊
 コロナ禍で医療機器や経済の混乱が起きた
 気候危機でも、食糧難などが起きるし、食料自給率の低い日本はパニックになるだろう。
選択肢は単純で、コミュニズムか単純だ
 それしか抜け出す方法がない
トマ・ピケティが社会主義に転向した。 
それは参加型社会主義である
 ピケティは労働者が自分たちで生産の「自治管理」、「共同管理」が重要であると
 それは晩期マルクスの立場に近づいているが・・・。
物質代謝の亀裂を修復するために
 マルクスは、この亀裂を修復するのは、自然の循環に合わせた生産が可能になるように労働の領域を抜本的に改革することである。
 肝腎なのは労働と生産の変革なのだと斉藤幸平は続ける。
今までの脱成長派は、消費の次元での「自発的抑制」に焦点をあてたが、マルクスは社会的生産・再生産に焦点を当てた。
 労働・生産の場から変革が始まる。
社会運動による「帝国式生産様式」の超克
 生産の場はコミュニティを生み出し、更に社会の輪を広げる
 ライフスタイルとしての帝国的生活様式を生み出すのが、帝国的生産様式である。
 トップダウン式の政治主義では解決しない。
 「社会運動なしには、いかなる挑戦といえども国家の制度を揺るがすほどのものを市民社会から生み出すことはありえない」と社会学者マニュエル・カステルは言う。私も運動無くしては得られないと思う。
 斉藤幸平は「私たちが先に動き出そう」という。私は30歳代の彼に呼応して、70歳以上のラジカルとしてこれから動き出す。
★ ではどうしたらよいか
晩年のマルクスの考えを読み解き、エコロジー、共同体研究の意義から、資本論に秘められた真の構想は、「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、「エッセンシャル・ワークの重視」の五点である。
エッセンシャル・ワークとは、社会にとってなくてはならず、それが無いと社会の仕組みが止まっている職業。運輸、通信、銀行などに加えて、清掃事業、上下水道、教育、福祉、介護、医療などのケア労働など、コロナ禍でもテレワークのできないことが多い職業。
船からの荷下ろし、原発事故後の廃炉作業、停電の復旧なども。
☆脱成長のコミュニズムの柱
①使用価値経済への転換
 使用価値に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
 資本主義は価値が重要であり、使用価値や商品の質、環境負荷などはどうでもよい。
コミュニズムは生産の目的を使用価値にして、生産を社会的な計画のもとに置く。GDPではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視する。これが「脱成長」の立場である。
人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に自己抑制して行く。
これが人新世において必要なコミュニズムだ。
②労働時間の短縮
労働時間を短縮して、生活の質を向上させる
金儲けのための意味のない仕事を減らす。そして社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を配分する。
 例えば、マーケティング、広告、パッケージングは人々の欲望をあおることを禁止するし、コンサルタントや投資銀行は不要である。コンビニやファミレスを深夜空けておく必要はないし、年中無休も必要はない。消費期限切れで廃棄処分される食品も多い。使い捨ての商品も多い。
夜間や休日診療所も、ほとんどの救急車出動も必要ないものが多い。風邪や発熱で救急医療を求め、人々はコンビニ医療を求めるように仕向けられている。医師の処方した薬の三分の一は廃棄されている。風邪や発熱の多くは薬を飲まずに治る。それより上手に生きれば病気をしない。
 これらの必要のない労働を減らす必要がある。
 オートメーション化によって生産力が高まり、賃金奴隷から解放される可能性が高まっている。しかし、資本主義の下では失業の脅威となる。それを恐れて過労死するほど必死に働き、体の具合が悪くても失業の脅威や日銭を失うために、仕事を休むことができない。そんな資本主義を捨て去るほうがよい。
 コミュニズムはワークシェアにより、GDPに表れない生活の質(QOL)の向上を目指す。しかし、労働時間の短縮のために生産力をあげれば良いという訳でもない。
 エネルギー効率、エネルギー収支比の問題がある。オートメーション化で減らした労働者の数だけ、化石燃料の消費をしているのである。化石燃料を再生可能エネルギーに替えれば、生産性は落ち、経済成長派困難になる。二酸化炭素の排出量削減によっておこる生産力の低下は「排出の罠」と言われている。生産力が落ちるから、それだけ働かなければならない。それだから「使用価値」を生まない意味のない労働をなくし、他の必要な部門へ労働力を割り当てる必要がある。
 だからこそ、労働の中身を、充実した魅力的なものに変えていくことが重要だというマルクスの主張を再評価すべきである。
 ③画一的な分業の廃止
 画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
 労働時間が短縮されても、退屈で辛い労働であれば、人々はストレス解消に走るだろう。労働の中身を変えてストレスを減らすことは、人間らしい生活を取り戻すためには不可欠なのだ。ストレスを提唱したハンス・セリエは、その最後の改訂版の著書の中で、長時間労働の中で、なぜか農場主と農業労働者のストレスは少ないという。
 徹底したマニュアル化は、作業効率を向上させるが、労働者の自律性をはく奪する。退屈で無意味な労働が蔓延している。これは殆どすべての労働現場において蔓延している。
 余暇としての自由時間を増やすだけでなく、労働時間のうちにも、労働をより創造的な自己実現の場に変えていくことが求められる。
 それでマルクスは「精神労働」と「肉体労働」の対立を将来の課題として提唱したのである。労働者たちが「分業に奴隷的に従属する事がなくなり」、「労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求」になる。そしてその暁には、労働者たちの能力の「全面的な発展」が実現できるはずだという。
 この目的の為にも、生涯にわたる平等な職業教育をマルクスは重視する。労働者が資本による「包摂(取り込み)」を克服し、真に意味で、産業の支配者になるために。
 人間らしい労働を取り戻すべく画一的な分業をやめれば、経済成長のための効率化は最優先事項ではなくなる。利益よりも、やりがいや助け合いが優先されるから。
その時に科学やテクノロジーを使うことで、人々はより一層様々な活動ができる。これが「開放的技術」である。
私が書く病気の話のプリントは、医療技術の開放と言えよう。
 ④生産過程の民主化
 生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
 「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していこう。そのような「働き方改革」を実行するには、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。それが「社会的所有」である。
 社会的所有によって生産手段を民主的に管理するのである。
 生産する際にどのような技術を開発し、どのように使い方をするかを、民主的な話し合いによって決定しようという。技術だけでなく、エネルギーや原料についても民主的に決定されれば、様々な変化が生まれる。
 この生産過程の民主化は、経済の減速を伴うことである。
 生産過程の民主化とは、「アソシエーション」による生産手段の共同管理である。社会的所有がもたらす決定的な変化は、意思調整の減速である。強制的な力のない状態の意見調整には時間がかかる。
 大学のウェブ講義については、10年かけて論議され、決まらずにいたのが、コロナ騒ぎであっという間に実現してしまった。民主化は時間がかかる。それと斉藤幸平は言っていないが、新しい科学の発見や技術の開発ができても、それが社会全体で共有されるようになるには時間がかかる。科学史はそれを教えてくれる。地動説や重力の理論が一般化されるには、それに反対する社会的な重鎮が死んでからである。私の病原環境論は、複数病因説は、アレルギーの心身症説は、いつの時代に一般化されるのであろうか。まだまだ多くのことが、技術的なことは取り入れられても、根幹の考え方は取り入れられずに残されている。
 だからこのことはすべてのことには適用できない。あくまで生産過程の場である。

 マルクスのアソシエーションは生産過程における民主主義を重視するために、経済活動を減速させる。
 生産過程の民主化は、社会全体の生産も変えていく。知識や情報は社会全体のコモンであるべきなのだ。知識が持つ「ラディカルな潤沢さ」は回復されなくてはならない。 
 市場の強制から解放されることで、各人の能力が発揮されるようになり、効率化や生産力の向上が起きる可能性はある。
 コミュニズムは、労働者や地球に優しい「開放的技術」をコモンとして発展させることを目指す。
⑤エッセンシャル・ワークの重視
 使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視
 それでオートメーション化やAI化には明確な限界がある。
 一般に機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を、「労働集約型産業」という。その典型はケア労働である。
 脱成長コミュニズムは、労働集約型産業を重視する社会に転換する。それによって経済は減速する。
 ケアやコミュニケーションが重視される社会的再生産の領域では、画一化やマニュアル化やオートメーション化は難しい。求められる作業は複雑で多岐にわたることが多く、イレギュラーな要素が常にあるために、ロボットやAIでは対応できない。
 これこそが、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証しである。
 ケア労働は「感情労働」と呼ばれる。相手の感情を無視したら、台無しになってしまう。
 感情労働は対象人数をふやすことができないし、時間を短縮することが難しい。
 ある程度はパターン化し、効率を上げることは可能であるが、儲け(価値)のために労働生産性を追求すると、サービスの質(使用価値)が低下してしまう。
 資本主義の下では、生産性が低いからということで、無理な効率化や、理不尽な改革コストカットがされてしまう。
 その最たるものは医療である。
★ブルシット・ジョブ対エッセンシャル・ワーク
 ブルシット・ジョブとは、意味のない仕事つまり使用価値のない仕事である。(前述)
 エッセンシャル・ワークは使用価値が高いものを生み出す労働である。ここでの矛盾は、マーケティングやコンサルティングなどの仕事が高給で、必須な労働が低賃金で、恒常的な人手不足になっている。
 ケア労働は、社会的に有用なだけでなく、低炭素で、低資源使用である。
 経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の製造業重視から脱却して、労働集約型のケア労働を選択することができる。
 これけがエネルギー収支比が低下していく時代に、最もふさわしい労働のあり方である。
★ケア階級の叛逆
 世界のあちこちでケア労働者が、資本主義の論理に対抗して立ち上がっている。
 保育士の一斉退職、教員スト、介護スト、コンビニの24時間営業の停止や高速道路のサービスエリアでのストなどがある。これは世界的な流れである。
 ブルシット・ジョブに従事していた元日産のCEOのゴーンの年俸や年次の成功報酬などは、「使用価値」を生産する末端の労働者の賃金と比べると、信じられない程巨額である。
 
★脱成長コミュニズムが物質代謝の亀裂を修復する
 生産を「使用価値」重視のものに切り替え、労働時間を短縮する事であった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に生産過程の民主化である。
 その結果は、経済の減速である。
 利潤最大化と経済成長を無限に追及する資本主義では、地球を守れない。
 脱成長コミュニズムは、人間の欲求を満たしながら、環境問題に配慮できる。生産の民主化と減速によって、人間と自然の物質代謝の「亀裂」を修復していける。これには電力や水の公営化、社会的所有の拡充、エッセンシャル・ワークの重視、農地改革などの包括プロジェクトが必要である。
 コロナが生み出した、また、コロナ禍を生んだ、人新世という環境危機の時代に、必要なのは脱成長のコミュニズムである。
△ブエン・ビビール(良く生きる)
 エクアドルの憲法には、国民の「ブエン・ビビール」の実現を保証する国の義務が2008年に明記された。
 ブータンの「国民総幸福量」も先住民からもっと学ぼうという価値観の見直しの一つである。
 ナオミ・クラインは「将来世代への義務やあらゆる生命のつながりあいについての先住民の教えから学ぼうとする謙虚な姿勢を伴っていなくてはならない。」という。
△気候正義
 資本主義が引き起こす環境危機は、グローバル・サウスにおいて矛盾が激化している。
 今や自然回帰ではなく、新しい合理性が必要になっている。
 都市化が行き過ぎて、問題が起きているが、それを自然に戻せというのは不可能であり、都市の修正が迫られている。二酸化炭素排出量の7割は都市が出している。コミュニティの相互扶助も解体され、大量のエネルギーを消費する生活は、持続可能ではない。だから気候危機に立ち向かい、相互扶助を取り戻すためには、都市生活を変えなくてはならない。
 バルセロナの試み「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」と気候非常事態宣言
 市民の力の結集で、240以上の項目を掲げる。
 経済成長を捨てて、市民の生活と環境を守ることである。そこには、
  都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充、自動車や飛行機・船舶の制限、エネルギー貧困の解消、ごみの削減・リサイクル、
  飛行機の近距離路線の廃止、市街地での自動車の速度制限(時速30km)などグローバル企業と対峙しなければできない。
 そして「既存の経済モデルは経済成長と利潤獲得のための終わりなき競争に基づくもので、地球の生態学的なバランスを聞きに陥れている。この経済システムは経済格差を著しく拡大させている。豊かな国のとりわけ最富裕層による過剰な消費に、グローバルな環境危機、気候危機の原因がある。」という。
 これを生んだのは、バルセロナのワーカーズ・コープの伝統であるという。
 マルクスの言う「可能なコミュニズム」が労働者協同組合である。
〇 そして気候正義にかなう経済システムを
 協働的なケア労働、他社や自然との友愛的関係、誰も取り残されない社会、への移行を
〇 ミュニシバリズム―国境を越える自治体主義
 バルセロナの呼びかけたフィアレス・シティのネットワークはアフリカ、南米、アジアに広がり、77の拠点が参加している。
 国境を越えて連帯する、革新自治体のネットワークの精神をミュニシバリズムという。
国際的に開かれた自治体主義を目指している。
 グローバル・サウスから学ぶ
 食料主権を取り戻す
  農産物輸出国なのに、飢餓率が26%にものぼる南アフリカの例
 南アフリカの食料主権運動のサトガーたちのスローガンは「息ができない」である。
 これはブラック・ライブズ・マター運動のスローガンを踏襲している。
 人権、気候、ジェンダー、そして資本主義。すべての問題はつながっている。
〇 今こそ、気候正義を大義として、ラディカルな潤沢さを求めていこう。
それには経済、政治、環境の三位一体を
 生産のコモン化、ミュニシバリズム、市民議会、
〇 最後に
 ハーバード大学のエリカ・チェノウェスらの研究では、「3.5%」の人々が非暴力的方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるという。
 フィリピンのマルコスを打倒した「ピープルパワー革命」1986
 シュワルナゼ大統領を辞任させたグルジアの「バラ革命」2003
ニューヨークのウォール街占拠運動
 バルセロナの座り込み
グレタ・トゥーンベリの学校ストライキ

「未来はあなたが、3.5%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている」
 とこの書をしめくくる。

★さらに斉藤幸平は、
「大洪水の前に」のあとがきで、
 感謝して、この本を捧げるとともに、宮沢賢治の次の言葉を送りたい。
 「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」
 と述べる。



続いて斉藤幸平の対談集「大分岐の前に」から載せます


「未来への大分岐」斉藤幸平編



〇 マイケル・ハート
 リーダーなき社会運動は持続しない。サンダース現象は、ウォール街占拠運動の連続です。
 ウォール街を占拠した人たちが、運動の継続を求めて、それをサンダースに求めたのです。
 彼らの要求を表現する「手段」が、サンダースだったのです。サンダースはいろいろな運動をして来た人々の主張を取り込んで、政策にしたのです。
 サンダースの発する声の背後に、ウォール街占拠運動や、ブラック・ライブズ・マター運動、パイプライン建設に反対する環境運動(ダコタ州のスー族居留地を通すことへの反対)、学生ローンのボイコット運動(オキュパイ・スチューデント・ローン)などのさまざまな運動体の主張が流れこんでいる。
 
(サンダースは民主党下院議員の中で、進歩的グループを4人で結成しましたが、今は4割を占めるほどになり、大統領候補を争うまでになっています。その進歩派議員は、様々な人種や女性、若い議員で占めています)

△イギリス労働党党首のコービンはどうか。
 コービンを支えているのは、労働党の中での核の存在ですが、活動の中心は35歳以下の若者たちと70歳以上の高齢者で、中間の年齢層が余りいないのです。
 若い支持者は、サンダース支持層に似ています。違うのは社会主義的な政策を訴えてきた長い歴史を持つ等に調和しながら、うまくやっていることです。
 70歳以上の支持者たちは、労働党がラディカルだった1960年代以前から党員だった人たちです。

△選挙がすべてではない。
 社会運動が社会を変えるのです。
 政治を民主化するだけでは不十分で、社会全体を民主化することが重要なのです。
△コモンから始まる、新たな民主主義
 コモンとは何か
  民主的に共有されて、管理される社会的富のことです。
  コモンは水、空気、電気などです。土地も入るようです。
 コモンの自主管理を基盤とした民主的な社会が、コミュニズムです。

マイケル・ハートの最後の言葉は、
 この時代に左派の意味が失われてしまうわけではないのです。
 自由、平等、連帯、そして民主主義―私にとって左派が意味するのは、やはりこういった一連の言葉であり、こうした言葉の持つ可能性を問い続けなくてはなりません。
コメント (1)
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人新世の資本論を読んで

2022-01-19 10:00:57 | 人新世
          脱成長のコミュニズムによせて
 
 引き続き、「人新世の資本論」から、脱成長のコミュニズムについての私の乾燥を述べます。

脱成長のコミュニズムによせて

 コロナ禍も人新世によって生まれたもの
民主主義とは何か
資本主義によって商品化が進み国家への依存が進む
資本主義による国家の崩壊
 コロナ禍で医療機器や経済の混乱が起きた
 気候危機でも、食糧難などが起きるし、食料自給率の低い日本はパニックになるだろう。
選択肢は単純で、コミュニズムか単純だ
 それしか抜け出す方法がない
トマ・ピケティが社会主義に転向した。 
それは参加型社会主義である
 ピケティは労働者が自分たちで生産の「自治管理」、「共同管理」が重要であると
 それは晩期マルクスの立場に近づいているが・・・。
物質代謝の亀裂を修復するために
 マルクスは、この亀裂を修復するのは、自然の循環に合わせた生産が可能になるように労働の領域を抜本的に改革することである。
 肝腎なのは労働と生産の変革なのだと斉藤幸平は続ける。
今までの脱成長派は、消費の次元での「自発的抑制」に焦点をあてたが、マルクスは社会的生産・再生産に焦点を当てた。
 労働・生産の場から変革が始まる。
社会運動による「帝国式生産様式」の超克
 生産の場はコミュニティを生み出し、更に社会の輪を広げる
 ライフスタイルとしての帝国的生活様式を生み出すのが、帝国的生産様式である。
 トップダウン式の政治主義では解決しない。
 「社会運動なしには、いかなる挑戦といえども国家の制度を揺るがすほどのものを市民社会から生み出すことはありえない」と社会学者マニュエル・カステルは言う。私も運動無くしては得られないと思う。
 斉藤幸平は「私たちが先に動き出そう」という。私は30歳代の彼に呼応して、70歳以上のラジカルとしてこれから動き出す。
★ ではどうしたらよいか
晩年のマルクスの考えを読み解き、エコロジー、共同体研究の意義から、資本論に秘められた真の構想は、「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、「エッセンシャル・ワークの重視」の五点である。
エッセンシャル・ワークとは、社会にとってなくてはならず、それが無いと社会の仕組みが止まっている職業。運輸、通信、銀行などに加えて、清掃事業、上下水道、教育、福祉、介護、医療などのケア労働など、コロナ禍でもテレワークのできないことが多い職業。
船からの荷下ろし、原発事故後の廃炉作業、停電の復旧なども。
☆脱成長のコミュニズムの柱
①使用価値経済への転換
 使用価値に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
 資本主義は価値が重要であり、使用価値や商品の質、環境負荷などはどうでもよい。
コミュニズムは生産の目的を使用価値にして、生産を社会的な計画のもとに置く。GDPではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視する。これが「脱成長」の立場である。
人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に自己抑制して行く。
これが人新世において必要なコミュニズムだ。
②労働時間の短縮
労働時間を短縮して、生活の質を向上させる
金儲けのための意味のない仕事を減らす。そして社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を配分する。
 例えば、マーケティング、広告、パッケージングは人々の欲望をあおることを禁止するし、コンサルタントや投資銀行は不要である。コンビニやファミレスを深夜空けておく必要はないし、年中無休も必要はない。消費期限切れで廃棄処分される食品も多い。使い捨ての商品も多い。
夜間や休日診療所も、ほとんどの救急車出動も必要ないものが多い。風邪や発熱で救急医療を求め、人々はコンビニ医療を求めるように仕向けられている。医師の処方した薬の三分の一は廃棄されている。風邪や発熱の多くは薬を飲まずに治る。それより上手に生きれば病気をしない。
 これらの必要のない労働を減らす必要がある。
 オートメーション化によって生産力が高まり、賃金奴隷から解放される可能性が高まっている。しかし、資本主義の下では失業の脅威となる。それを恐れて過労死するほど必死に働き、体の具合が悪くても失業の脅威や日銭を失うために、仕事を休むことができない。そんな資本主義を捨て去るほうがよい。
 コミュニズムはワークシェアにより、GDPに表れない生活の質(QOL)の向上を目指す。しかし、労働時間の短縮のために生産力をあげれば良いという訳でもない。
 エネルギー効率、エネルギー収支比の問題がある。オートメーション化で減らした労働者の数だけ、化石燃料の消費をしているのである。化石燃料を再生可能エネルギーに替えれば、生産性は落ち、経済成長派困難になる。二酸化炭素の排出量削減によっておこる生産力の低下は「排出の罠」と言われている。生産力が落ちるから、それだけ働かなければならない。それだから「使用価値」を生まない意味のない労働をなくし、他の必要な部門へ労働力を割り当てる必要がある。
 だからこそ、労働の中身を、充実した魅力的なものに変えていくことが重要だというマルクスの主張を再評価すべきである。
 ③画一的な分業の廃止
 画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
 労働時間が短縮されても、退屈で辛い労働であれば、人々はストレス解消に走るだろう。労働の中身を変えてストレスを減らすことは、人間らしい生活を取り戻すためには不可欠なのだ。ストレスを提唱したハンス・セリエは、その最後の改訂版の著書の中で、長時間労働の中で、なぜか農場主と農業労働者のストレスは少ないという。
 徹底したマニュアル化は、作業効率を向上させるが、労働者の自律性をはく奪する。退屈で無意味な労働が蔓延している。これは殆どすべての労働現場において蔓延している。
 余暇としての自由時間を増やすだけでなく、労働時間のうちにも、労働をより創造的な自己実現の場に変えていくことが求められる。
 それでマルクスは「精神労働」と「肉体労働」の対立を将来の課題として提唱したのである。労働者たちが「分業に奴隷的に従属する事がなくなり」、「労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求」になる。そしてその暁には、労働者たちの能力の「全面的な発展」が実現できるはずだという。
 この目的の為にも、生涯にわたる平等な職業教育をマルクスは重視する。労働者が資本による「包摂(取り込み)」を克服し、真に意味で、産業の支配者になるために。
 人間らしい労働を取り戻すべく画一的な分業をやめれば、経済成長のための効率化は最優先事項ではなくなる。利益よりも、やりがいや助け合いが優先されるから。
その時に科学やテクノロジーを使うことで、人々はより一層様々な活動ができる。これが「開放的技術」である。
私が書く病気の話のプリントは、医療技術の開放と言えよう。
 ④生産過程の民主化
 生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
 「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していこう。そのような「働き方改革」を実行するには、労働者たちが生産における意思決定権を握る必要がある。それが「社会的所有」である。
 社会的所有によって生産手段を民主的に管理するのである。
 生産する際にどのような技術を開発し、どのように使い方をするかを、民主的な話し合いによって決定しようという。技術だけでなく、エネルギーや原料についても民主的に決定されれば、様々な変化が生まれる。
 この生産過程の民主化は、経済の減速を伴うことである。
 生産過程の民主化とは、「アソシエーション」による生産手段の共同管理である。社会的所有がもたらす決定的な変化は、意思調整の減速である。強制的な力のない状態の意見調整には時間がかかる。
 大学のウェブ講義については、10年かけて論議され、決まらずにいたのが、コロナ騒ぎであっという間に実現してしまった。民主化は時間がかかる。それと斉藤幸平は言っていないが、新しい科学の発見や技術の開発ができても、それが社会全体で共有されるようになるには時間がかかる。科学史はそれを教えてくれる。地動説や重力の理論が一般化されるには、それに反対する社会的な重鎮が死んでからである。私の病原環境論は、複数病因説は、アレルギーの心身症説は、いつの時代に一般化されるのであろうか。まだまだ多くのことが、技術的なことは取り入れられても、根幹の考え方は取り入れられずに残されている。
 だからこのことはすべてのことには適用できない。あくまで生産過程の場である。

 マルクスのアソシエーションは生産過程における民主主義を重視するために、経済活動を減速させる。
 生産過程の民主化は、社会全体の生産も変えていく。知識や情報は社会全体のコモンであるべきなのだ。知識が持つ「ラディカルな潤沢さ」は回復されなくてはならない。 
 市場の強制から解放されることで、各人の能力が発揮されるようになり、効率化や生産力の向上が起きる可能性はある。
 コミュニズムは、労働者や地球に優しい「開放的技術」をコモンとして発展させることを目指す。
⑤エッセンシャル・ワークの重視
 使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視
 それでオートメーション化やAI化には明確な限界がある。
 一般に機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門を、「労働集約型産業」という。その典型はケア労働である。
 脱成長コミュニズムは、労働集約型産業を重視する社会に転換する。それによって経済は減速する。
 ケアやコミュニケーションが重視される社会的再生産の領域では、画一化やマニュアル化やオートメーション化は難しい。求められる作業は複雑で多岐にわたることが多く、イレギュラーな要素が常にあるために、ロボットやAIでは対応できない。
 これこそが、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証しである。
 ケア労働は「感情労働」と呼ばれる。相手の感情を無視したら、台無しになってしまう。
 感情労働は対象人数をふやすことができないし、時間を短縮することが難しい。
 ある程度はパターン化し、効率を上げることは可能であるが、儲け(価値)のために労働生産性を追求すると、サービスの質(使用価値)が低下してしまう。
 資本主義の下では、生産性が低いからということで、無理な効率化や、理不尽な改革コストカットがされてしまう。
 その最たるものは医療である。
★ブルシット・ジョブ対エッセンシャル・ワーク
 ブルシット・ジョブとは、意味のない仕事つまり使用価値のない仕事である。(前述)
 エッセンシャル・ワークは使用価値が高いものを生み出す労働である。ここでの矛盾は、マーケティングやコンサルティングなどの仕事が高給で、必須な労働が低賃金で、恒常的な人手不足になっている。
 ケア労働は、社会的に有用なだけでなく、低炭素で、低資源使用である。
 経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の製造業重視から脱却して、労働集約型のケア労働を選択することができる。
 これけがエネルギー収支比が低下していく時代に、最もふさわしい労働のあり方である。
★ケア階級の叛逆
 世界のあちこちでケア労働者が、資本主義の論理に対抗して立ち上がっている。
 保育士の一斉退職、教員スト、介護スト、コンビニの24時間営業の停止や高速道路のサービスエリアでのストなどがある。これは世界的な流れである。
 ブルシット・ジョブに従事していた元日産のCEOのゴーンの年俸や年次の成功報酬などは、「使用価値」を生産する末端の労働者の賃金と比べると、信じられない程巨額である。
 
★脱成長コミュニズムが物質代謝の亀裂を修復する
 生産を「使用価値」重視のものに切り替え、労働時間を短縮する事であった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に生産過程の民主化である。
 その結果は、経済の減速である。
 利潤最大化と経済成長を無限に追及する資本主義では、地球を守れない。
 脱成長コミュニズムは、人間の欲求を満たしながら、環境問題に配慮できる。生産の民主化と減速によって、人間と自然の物質代謝の「亀裂」を修復していける。これには電力や水の公営化、社会的所有の拡充、エッセンシャル・ワークの重視、農地改革などの包括プロジェクトが必要である。
 コロナが生み出した、また、コロナ禍を生んだ、人新世という環境危機の時代に、必要なのは脱成長のコミュニズムである。
△ブエン・ビビール(良く生きる)
 エクアドルの憲法には、国民の「ブエン・ビビール」の実現を保証する国の義務が2008年に明記された。
 ブータンの「国民総幸福量」も先住民からもっと学ぼうという価値観の見直しの一つである。
 ナオミ・クラインは「将来世代への義務やあらゆる生命のつながりあいについての先住民の教えから学ぼうとする謙虚な姿勢を伴っていなくてはならない。」という。
△気候正義
 資本主義が引き起こす環境危機は、グローバル・サウスにおいて矛盾が激化している。
 今や自然回帰ではなく、新しい合理性が必要になっている。
 都市化が行き過ぎて、問題が起きているが、それを自然に戻せというのは不可能であり、都市の修正が迫られている。二酸化炭素排出量の7割は都市が出している。コミュニティの相互扶助も解体され、大量のエネルギーを消費する生活は、持続可能ではない。だから気候危機に立ち向かい、相互扶助を取り戻すためには、都市生活を変えなくてはならない。
 バルセロナの試み「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」と気候非常事態宣言
 市民の力の結集で、240以上の項目を掲げる。
 経済成長を捨てて、市民の生活と環境を守ることである。そこには、
  都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充、自動車や飛行機・船舶の制限、エネルギー貧困の解消、ごみの削減・リサイクル、
  飛行機の近距離路線の廃止、市街地での自動車の速度制限(時速30km)などグローバル企業と対峙しなければできない。
 そして「既存の経済モデルは経済成長と利潤獲得のための終わりなき競争に基づくもので、地球の生態学的なバランスを聞きに陥れている。この経済システムは経済格差を著しく拡大させている。豊かな国のとりわけ最富裕層による過剰な消費に、グローバルな環境危機、気候危機の原因がある。」という。
 これを生んだのは、バルセロナのワーカーズ・コープの伝統であるという。
 マルクスの言う「可能なコミュニズム」が労働者協同組合である。
〇 そして気候正義にかなう経済システムを
 協働的なケア労働、他社や自然との友愛的関係、誰も取り残されない社会、への移行を
〇 ミュニシバリズム―国境を越える自治体主義
 バルセロナの呼びかけたフィアレス・シティのネットワークはアフリカ、南米、アジアに広がり、77の拠点が参加している。
 国境を越えて連帯する、革新自治体のネットワークの精神をミュニシバリズムという。
国際的に開かれた自治体主義を目指している。
 グローバル・サウスから学ぶ
 食料主権を取り戻す
  農産物輸出国なのに、飢餓率が26%にものぼる南アフリカの例
 南アフリカの食料主権運動のサトガーたちのスローガンは「息ができない」である。
 これはブラック・ライブズ・マター運動のスローガンを踏襲している。
 人権、気候、ジェンダー、そして資本主義。すべての問題はつながっている。
〇 今こそ、気候正義を大義として、ラディカルな潤沢さを求めていこう。
それには経済、政治、環境の三位一体を
 生産のコモン化、ミュニシバリズム、市民議会、
〇 最後に
 ハーバード大学のエリカ・チェノウェスらの研究では、「3.5%」の人々が非暴力的方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるという。
 フィリピンのマルコスを打倒した「ピープルパワー革命」1986
 シュワルナゼ大統領を辞任させたグルジアの「バラ革命」2003
ニューヨークのウォール街占拠運動
 バルセロナの座り込み
グレタ・トゥーンベリの学校ストライキ

「未来はあなたが、3.5%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている」
 とこの書をしめくくる。

★さらに斉藤幸平は、
「大洪水の前に」のあとがきで、
 感謝して、この本を捧げるとともに、宮沢賢治の次の言葉を送りたい。
 「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」
 と述べる。



続いて斉藤幸平の対談集「大分岐の前に」から載せます


「未来への大分岐」斉藤幸平編



〇 マイケル・ハート
 リーダーなき社会運動は持続しない。サンダース現象は、ウォール街占拠運動の連続です。
 ウォール街を占拠した人たちが、運動の継続を求めて、それをサンダースに求めたのです。
 彼らの要求を表現する「手段」が、サンダースだったのです。サンダースはいろいろな運動をして来た人々の主張を取り込んで、政策にしたのです。
 サンダースの発する声の背後に、ウォール街占拠運動や、ブラック・ライブズ・マター運動、パイプライン建設に反対する環境運動(ダコタ州のスー族居留地を通すことへの反対)、学生ローンのボイコット運動(オキュパイ・スチューデント・ローン)などのさまざまな運動体の主張が流れこんでいる。
 
(サンダースは民主党下院議員の中で、進歩的グループを4人で結成しましたが、今は4割を占めるほどになり、大統領候補を争うまでになっています。その進歩派議員は、様々な人種や女性、若い議員で占めています)

△イギリス労働党党首のコービンはどうか。
 コービンを支えているのは、労働党の中での核の存在ですが、活動の中心は35歳以下の若者たちと70歳以上の高齢者で、中間の年齢層が余りいないのです。
 若い支持者は、サンダース支持層に似ています。違うのは社会主義的な政策を訴えてきた長い歴史を持つ等に調和しながら、うまくやっていることです。
 70歳以上の支持者たちは、労働党がラディカルだった1960年代以前から党員だった人たちです。

△選挙がすべてではない。
 社会運動が社会を変えるのです。
 政治を民主化するだけでは不十分で、社会全体を民主化することが重要なのです。
△コモンから始まる、新たな民主主義
 コモンとは何か
  民主的に共有されて、管理される社会的富のことです。
  コモンは水、空気、電気などです。土地も入るようです。
 コモンの自主管理を基盤とした民主的な社会が、コミュニズムです。

マイケル・ハートの最後の言葉は、
 この時代に左派の意味が失われてしまうわけではないのです。
 自由、平等、連帯、そして民主主義―私にとって左派が意味するのは、やはりこういった一連の言葉であり、こうした言葉の持つ可能性を問い続けなくてはなりません。
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人新世の資本論を読んで

2022-01-18 10:03:43 | 人新世
              人新世の資本論を読んで

 「人新世の資本論」(斉藤幸平)を読んで感じたことと、半分は抄録です。まぜこぜになりましたが、私の気持ちです。次に「脱成長のコミュニズム」を載せます。2020年9月に斉藤幸平の本を知ってから、私の考えがまとまってきました。また二十代の昔に戻った気持ちです。ジグザクデモの名目上の指揮者になり、その後随分長くマークされました。私には怖いものはありません。今の若い人たちは、すぐ「怖いとか、恐ろしい」とか言いますが、私には何ということのない、想定内のことばかりです。誰かが言っていたことですが、「武士は、家の敷居をまたいで一歩外へ出たら、七人の敵に会う」ということをいつも考えて歩いています。安心、安全な社会は、自分の自由を売り渡して得ていると、あるアメリカ人が日本を評して書いていました。私の学生時代に慶応の文学部の教授(名前がどうしても出てきませんが)が言うには、自由や民主主義にはいくつもあると。資本家にとっての自由とは、搾取し掠奪する自由なのです。学生運動時代から遠ざかっていましたが、また私を元気にしてくれる時代が出てきました。 
 
 人新世の資本論を読んで思うこと

 ☆ この書は「大洪水の前に」の後に書かれた啓蒙書ないしは啓発書のようです。
これはマルクスの有名な言葉の引用からで「どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのであるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである」。
 だから「大洪水がやってくる前に、『私たちはすべてを変えなくてはならない』」という。

☆ 人新世の資本論の「はじめに」は、「SDGs(持続可能な開発目標)は「大衆のアヘン」である!」で始まります。
 かってマルクスは、資本主義のつらい現実が引き起こす苦悩をやわらげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、という。
 人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」と名付けました。
 そして気候危機は、既に始まっています。「100年に一度」と呼ばれる異常気象が毎年、世界各地で起きています。もうすぐそこに「急激で不可逆な変化が起きて、以前の状態に戻れなくなる地点」が迫っています。
☆ グローバル・サウスとグローバル・ノース
 グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域およびその住民を指す。
 現代では新興国の抬頭と先進国への移民増大による格差社会の進行によって、先進国内での貧困の増大も激しくなり、地理的位置と関係が無くなりました。マルクスの言う万国のプロレタリアートではないだろうか。
しかし、現代では、資本家と労働者という分類ではおさまらなくなり(ジジェクの「パンデミック」参照)、あえてこのような言葉で表現しています。言い換えれば世界のレベルでの「富裕層」と「貧困層」ではないでしょうか。先進国の貧困層をグローバルサウスに含めています。
 グローバル・ノース(先進国を中心に世界の富裕層)における大量生産、大量消費型の社会を「帝国的生活様式」と呼ぶ。それはグローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪によって成り立っているのです。
 日本もそこに住む我々も、グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化を、つまり資本主義の収奪を前提として、生活しているのです。それが見えなくなってしまっています。
 先進国に次いで、発展したのは韓国、台湾、香港、シンガポール、そして中国と言われた時代がありました。今はブリックス諸国(BRICS)、つまりブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカという人口の多い国で、発展している国々です。
 それで分類が難しくなり、グローバル・ノースとグローバル・サウスという呼び方が始まったと思います。当初は世界の南北問題が、格差社会の進行で、世界の富裕層と貧困層のことを指すようになったのです。
☆ 労働者だけでなく、地球環境も搾取と収奪の対象になっています。
 その為の気候変動なのです。しかし、それも限界に来ています。もう世界には安価な労働力も安価な自然も消滅しつつあります。
 資本主義が経済成長を優先する限り、気候変動を止められないとグレタ・トゥーンベリは訴えました。しかし、資本は成長を止められません。だから資本主義を止めるしかなくなっています。

☆ マルクスは環境危機を予言していたと斉藤幸平はいう。
資本主義は自らの矛盾を他へ転嫁し、見えなくしてしまう。だが、その転嫁によって、
更に矛盾が深まって泥沼化していくことが必然的に起きるであろうと。しかし、資本による転嫁は最終的に破綻する。
〇そして斉藤幸平は、三種類の転嫁を述べるが、それは
 (1)技術的転嫁――生態系のかく乱
   マルクスは農業による土壌疲弊を扱った
 (2)空間的転嫁――外部化と生態学的帝国主義
   この点もマルクスは土壌疲弊の問題として扱っている
 (3)時間的転嫁――「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
   マルクスは森林の過剰伐採を扱うが、現代では気候変動である
 そして資本主義より先に、地球がなくなってしまう

☆ 新型コロナは、その矛盾を拡大し、見えるようにしてくれたのです。
「大洪水」は今まさに「すぐそばに」せまってきているというのです。今、自分たちの「帝国的生活様式」を見直さないといけないという現実に直面しています。
だから「大分岐」なのだ。今まさに我々は選択を迫られています。
ローザ・ルクセンブルク(ドイツの女性社会主義者で暗殺された)の「社会主義か、野蛮か」というスローガンが生き生きと再登場してきました。野蛮を防ぐにはどうしたらよいだろうか。

☆グリーン・ニューディールはどうか
 これは気候ケインズ主義だと斉藤幸平は切り捨てます。グリーン・ニューディールの最後の砦がSDGs(持続可能な開発目標)なのです。これは「緑の経済成長」を掲げています。それは可能なのか。
気候ケインズ主義というのは、気候におけるケインズ経済学のやり方で、ケインズはマルクス経済学の台頭に対抗して出てきた資本主義擁護の経済学です。しかし、歴史の中でもう当てはまらなくなり、学問的価値は落ちています。
ニューディール政策とは、アメリカが1930年代に経済停滞した時に、経済に政府が介入し、公共投資を行ない、社会保障も行なったルーズベルト大統領の政府がとった政策で、それでアメリカ経済が復活したのです。

〇「地球の限界」を、2009年ロックストロームが提唱
 地球システムには、自然本来の回復力が備わっている。だが、一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、急激かつ不可逆的な、破壊的変化を起こす可能性がある。これが「臨界点」であると。
この考え方は正しいと思う。それはまさに「人間そのもの」にそういう現象があるからです。例をあげれば、過重労働です。人間の体に負荷をかけると、その臨界点を超えるともう元に戻れなくなります。その結末は、うつ病による自殺、心筋梗塞、脳卒中、癌の発病です。
 ロックストロームは、その臨界点を9項目にして測定しようとしました。(気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、待機エアロゾルの負荷、化学物質からの汚染の9項目)
 しかし、ロックストロームの測定では、気候変動や生物多様性などの4項目は既に「地球の限界」を超えてしまっているというのです。人類は、自然を支配しようとした結果、地球環境を取り返しのつかないような形に変えてしまっています。2019年ロックストロームは「緑の経済成長という現実逃避」という自己批判をしました。経済成長か、気温1.5℃未満の上昇か、どちらか一方しか選択できないことが判ったのです。ロックストロームの結論は、経済成長をあきらめることでした。
〇ティム・ジャクソンの「成長なき繁栄」では、先進国ではエネルギーの消費の効率化は進むのですが、後続して進むブリックス諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)などは逆に悪化しています。産業革命以来の資本主義の歴史をみれば、経済成長は化石燃料を大量に使用することによって成し遂げられたのです。経済成長と化石燃料は、不可分、つまり切り離せない程密接に関連しています。
〇この事態を、「効率化すれば、つまり技術進歩が、環境負荷を増やす」という「ジェヴォンズのパラドックス」(1865年)が説明してくれます。
〇市場の力では(ケインズ主義経済学では)気候変動は止められません。
 世界の富裕層が「裕福な生活様式」によって二酸化炭素を排出しています。世界の富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているというデータも出されています。世界の下から50%の人たちは全体の10%しか排出していないのです。

☆しかも、先進国に住む人たちのほとんどは世界のトップ20%に入っており、日本人のほとんどは世界のトップ10%に入っていると考えられます。つまり、私たち自身が、自分の享受している「帝国的生活様式」を抜本的に変えていかなければ、気候危機にたちむかうことなど不可能なのです。
☆ 電気自動車の本当のコスト
それは原子力発電の本当のコストと同じなのです。原料の生産から、廃棄処分までを計算
すると高額になります。決して安くはありません。電気自動車に使われている原材料を、採掘から加工の費用まで計算するとそうなります。
☆ 人新世の生態学的帝国主義
「緑の経済成長」を目指す先進国の取り組みは、社会的・自然的費用を周辺部へと転化しているのに過ぎません。鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量です。 膨大な天然資源を消費しています。それは殆ど循環せずに消費されています。資源総消費量を大幅に減らさなければならないのです。
(バイオマスとは、自然の動植物を使った有機的資源のことです。わかりやすく言えば、家庭の生ごみなどを肥料にしたりすることなど)
 電気自動車の生産は、その原料の採掘にも石油燃料が使われ、二酸化炭素が排出されます。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えます。
国際エネルギー機構によれば、2040年までに電気自動車は現在の200万台から2億8000万台にまで伸びるといいます。ところがそれによって削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのです。
 〇バイオマス・エネルギーの導入によって二酸化炭素排出量をゼロに実現しつつ、大気中の二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯留する技術もそう簡単には実現はしません。
 バイオマスには膨大な農地が必要になるし、二酸化炭素を貯留するにも大量の水が必要になります。これはマルクスの言う「転嫁」にしか過ぎません。
 結局は、グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、経済のスケールダウンとスローダウンなのです。
☆ 気候変動への適応とは、気候変動はもう止められないということだといいます。
そこで出された答えは一つで、成長を止めること。つまり脱成長ということが選択肢になるのです。今まで、ずっと経済成長が善であると語られてきました。経済成長によって貧困者を救えると。しかし、どうもそうではなさそうです。
☆ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」であり、彼女の言う「地球の生態学的限界のなかで、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全体の繁栄が可能になるのか」という問いであったのです。その結論は、持続可能性の為には、現在の世代は、一定の限界内で生活しなくてはなりません。
1日1.25ドル以下で暮らす14億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%
を再分配すれば足りるというのです。
☆ 経済成長と幸福度は相関するのか
いくら経済成長しても、その成果を一部の人々が独占し、再分配を行なわないなら、大勢の人々は潜在能力を実現できず、不幸になっていきます。

☆ そこで未来の選択肢となるのは
国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助の実践を、人々が自発的に展開し、気候危機に取り組む可能性があるのです。それが公正で、持続可能な未来社会のはずです。
アメリカのサンダースもイギリス労働党のコービンも、グリーン・ニューディールでした。
☆左派ポピュリズムを支えたのは、主にZ世代と呼ばれる1990年以降生まれの世代(30歳以下)です。ついでミレニアル世代(アラフォー以下)だといいます。彼らを、斉藤幸平はジェネレーション・レフトと呼ぶ。
ちょうど私たち70歳以上の世代が若い時には、多くが左派であったように。私が大学生協の常任理事を務めていた当時、慶応の学生の3割しか左派がいなかったのですが、東大や多くの国立大では9割が社会党、共産党支持でした。慶応の学費闘争の後に、一時的には慶応でも左派が増え全学自治会を制しました。それがジェネレーションでしょうか。

☆ 斉藤幸平は「取り残される日本の政治」という。失われた30年ともいう。
 しかし、私はそうは思わない。私たちが闘ってきた時代は、若者たちが政治を動かした。
 慶応で学費反対闘争が起こり、バリケード、直接民主制、自主講座という闘争形態を生み出した。学費値上げは阻止できなかったが、学費は物価連動制となり、医学部の授業料が、私学の中では最も安い大学となったのです。それが1964年のことでした。
 今判ったことですが、同じ1964年に、アメリカではカリフォルニア大学バークレー校でマリオ・サヴィオを中心とした学生たちが抗議の運動を展開していたことです。
 アメリカでベトナム反戦運動が起きた頃に、日本でもベトナム反戦運動が起き、べ兵連が登場しました。私は、また20~30年後に、アメリカでも日本でも、若者たちが立ち上がる時が来ることを予想し、期待してきました。今若者たちは、社会への不満を、暴走したり、いろいろな問題行動をして叛逆しています。そのエネルギーが政治的になると、また若者たちの運動が起きます。

☆ 今まさにその時が来ました。そして「未来への大分岐」の中で、マイケル・ハートは「(イギリス)労働党のなかでもコービンを支持している核の存在なのですが、・・・。活動の中心になっているのは、三十五歳以下の若者と七十歳以上の高齢者で、・・・。」
 「若い支持者たちは、サンダース支持者にとても似ています。」
 日本もその時代が来たのです。斉藤さんが呼びかけたのです。若い人か抬頭してくることを私は待っていました。私たちの世代は二十歳代を先頭に闘ったのですし、マルクスだって26歳で新聞に評論を書いたのです。若い世代が新しい社会を築くのです。
 斉藤さんは「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ」という。

☆ コモンという考え方
コモンとは、社会的に共有され、管理されるべきと見のことを指す。
水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として自分たちで民主的に管理する
ことを目指す。「社会的共通資本」とも似ているが、
 コモンは専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。
最初は医療もコモンに入ると思っていましたが、歴史を見たら、農業が始まる以前には医療は怪我の治療位であり、農業の開始、産業革命、資本主義社会の進行と共に、病気が増えて医療が必要になったのです。もっと穏やかな社会にすれば、医療の必要性は大きく減ります。私のしている育児法は子どもの病気を減らします。大人の病気も減らせます。だから水や空気とは違い、医療はコモンとは言えないのです。
 そして最終的には、このコモンの領域を拡大していくことで、資本主義の超克を目指す。
 マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段をコモンとして、共同管理・運営する社会のことだった、と明快に解いてくれる。
 コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまったコモンを意識的に再建する試みにほかならない。
 マルクスはコモンを再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいたという。
 労働者たちの自発的な相互扶助<アソシエーション>が<コモン>を実現するという。
 グレーバーは資本主義の下でアソシエーションを実現する方法が、福祉国家だった。
 しかし、それを解体したのが新自由主義だったから、歴史は元に戻らず、次の社会を構築するしかない。それは何か。
☆ そこでマルクスの復権、再構築を目指す
〇リービッヒの「掠奪農業」批判にマルクスは感銘を受けた。
人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、地球上で、生きている。この自然との循環的な相互作用を、マルクスは「人間と自然との物質代謝」と呼んだ。
 人間はほかの動物と違う関係を結ぶのが「労働」だというが、私は異議を唱える。昆虫には、人間と同じように労働している種族がいるのではないか。しかし、結論には納得する。
 「人間の労働は」、「人間と自然の物質代謝」を制御・媒介する、人間に特徴的な活動である。
 マルクスは、資本主義は物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告した。
 マルクスはリービッヒの「掠奪農業」批判を超え、過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅などのエコロジカルなテーマを資本主義の矛盾として扱っていたという。
 〇ドイツ農学者のフラースは、古代文明の崩壊過程を描く。フラースは過剰な森林伐採のせいで、地域の気候の変化、そして農業が困難になったせいだという。これに注目していたという。資本が環境を変え、そして環境が破壊されて、文明が崩壊するという。
☆資本主義の下では、持続的な成長は不可能であるからと、マルクスはその後の世界をエコ社会主義と描いたという。
〇ヨーロッパ中心主義はどうか。
 サイードのマルクス批判に応え、それを晩年に脱却したという。
 (エドワード・サイードは、パレスチナ生まれのアメリカ人でアラブ系学者の代表。ヨーロッパ文化批判の「オリエンタリズム」著者)
 〇当時のロシアには、ミールと呼ばれる農耕共同体が残存していた。それをナロードニキたちが広げようとしていた。(ナロードニキは、19世紀末期のロシアの社会主義者たちで「人民の中へ、ヴ・ナロード」を提唱し農村へ入った)
 ロシアにおける土地の共同所有
 アジアにおける村落共同体
 古代ゲルマン民族の共同体である「マルク協同体」
共同体の中に平等主義に出会う
イスラエルのキブツ、日本のヤマギシズムや幾つかの試みの中にも共同体思想はあった。
☆ 持続性と社会的平等
農耕共同体の再評価
社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。私にとって、資本主義は医療、つまり人間の精神、身体を破壊する。自然の治癒力を破壊する。


◎ 「新しい合理性」― 大地の持続可能な管理のために

<これは資本主義の下での合理性ではなく、「新しい合理性」である。医療でも、政府厚生労働省や多くの医学者は「科学的根拠」という言葉の下に、ちっとも根拠のないことを科学的と称してきた。今回のコロナ対策の大半は、そうである。スウェーデン政府の衛生政策担当者は、おずおずとそう語って、それでも申し訳程度にいろいろな施策をちょこっとしている。自信がないからである。私は歴史を総括し、自信を持って、斉藤幸平を支持する。
本当の合理性、斉藤幸平のいう「新しい合理性」を支持し、それを医療にも適用したい。
△伝統に依拠する共同体は、「経済成長をしない循環型の定常型経済であった」という。
生産力をあげることを、敢えてしなかった。生産力をあげることにより、平等ではなくなり、権力関係を発生するからである。
これは対等の取引をしていても格差を生ずるという「数理が語る格差拡大のメカニズム」によく書かれている。それは市場経済に内在する不平等である。(日経サイエンス2020.9)
だから、経済成長しない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織していた。(とマルクスは認識していたという)
マルクスが目指したコミュニズムは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ。
資本主義を乗り越えるために、マルクスはぼんやりとした形で、より高次のレベルで、定常型経済という共同体の原理を、復興させようとしていたのである。

★ 「脱成長コミュニズム」が到達点だ
これは社会の発展段階での、共同体思想の取り込みだと思う。これは「生産力至上主義」とも、「エコ社会主義」とも全く違ったものに変化した。「脱成長コミュニズム」だった。
斉藤幸平は「大洪水の前に」から、更に成長し、「脱成長コミュニズム」を提唱する。
斉藤幸平は、私の記憶の中に強く残っていたマルクスの言葉「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」を、高らかに宣言してくれた。
そして「マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては、「協同的富」を共同で管理する生産に代わるという。これが<コモン>の思想だという。
斉藤幸平は、マルクスの遺言を引き出した。この地球的危機である「人新世」を私たちが生き延びるために欠かせないのが「脱成長コミュニズム」だと。

☆ 人新世の資本論
「人新世」という地球の危機、気候危機の時代は放っておけば、起用理由が絶滅した時
代のような、大変動が起きるだろうという。それが「人新世」という時代区分をクレッツェルが提唱した。
 そしてその時代を乗り越える為には、「何をなすべきか」。
 この危機を乗り越えるには、資本主義を止めなければならない。だから資本主義に替わる社会システムを生み出さなければならない。それが「脱成長コミュニズム」であるというのだ。
 そしていろいろな道を検討する。
  加速主義
  エコ近代主義と緑の経済成長
  バスターの加速主義的なコミュニズム
  素朴政治
  政治主義と左派ポピュリズム
 
これらは政治・政策によって実現される「政治的」プロジェクトのために、「生産の領域における変革の視点」、つまり「階級闘争の視点」が消えてしまう。
 斉藤幸平はさらに続けて言う。それどころか、ストライキのような「古くさい」階級闘争やデモや座り込みのような「過激な」直接行動は、選挙戦におけるイメージダウンになるという理由によって、政治主義によって排除されていく。
  だが、香港でもパリでも世界の各地でも、人民の素朴な発想によって、政治的指導者の思惑を超えて、実行されてしまう。私たちが若い時にしたように、香港でバリケードを作り、火炎瓶を作り、大学に籠城した。
 そして、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要性を説く。
 そうだ。社会的運動を作る必要があるのだ。それを作ろう。
 その一例が、「気候市民議会」、イギリスの環境運動「絶滅への叛逆」、フランスの「黄色いベスト運動」など。
 社会運動が、民主主義を刷新し、国家の力を利用できることを、証明した。

☆アンドレ・ゴルツの「開放的技術」である
 「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。ちなみに、閉鎖的技術とは、人々を分断し、利用者を奴隷化し、生産物ならびにサービスの供給を独占する技術を指す。(医療でも同じ)
閉鎖的技術の代表格は原子力発電である。医療もそれに準ずる。
閉鎖的技術は、民主主義的な管理にはなじまず、中央集権的なトップダウン型の政治を求める。特定の技術は、特定の政治形態と結びついている。気候工学も閉鎖的技術である。

まず必要なのは「開放的技術」である。そして「潤沢さ」が危険である。「潤沢さ」を資本主義的な潤沢さから、生活そのものを変え、その中に新しい「潤沢さ」を見出すことが必要である。脱成長と潤沢さのペアを見つけよう。

日本人にとっては、理解しやすいであろう。それは「武士は食わねど高楊枝」の世界を
どれだけ日本以外の人たちに理解してもらえるだろうか。英語には、「こころゆたか」という言葉はない。我々青医連の仲間たちは、昔、「清く、貧しく、美しく」生きる医師を目指した時期があった。昔の赤ひげ医者であるが。
 いくらランボルギーニという高級車に乗っても、いくら博士や大臣になっても、トランプ大統領のように、アメリカの上層の20%の中の1%の中の1%の中の1%の中の1%の中の
4人の一人であり、かつ大統領になっても、こころゆたかであろうか。

☆ 欠乏を生んでいるのは資本主義である
本源的蓄積が欠乏を生み出す。本源的蓄積とは、イギリスで行なわれた「囲い込み(運
動)」のことを言う。共同管理されていた農地から農民を締め出したことである。なぜしたかというと、利潤の高い羊の放牧にするためだった。
 マルクスいう「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的に作った「希少性」を増大させることを指す。つまり、資本主義は、その発端から現在に到るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。
 だから格差社会のメカニズムが解明したように、対等な関係の取引を繰り返していても、格差社会が生じてしまうのである。それが資本主義である。

☆ 「コモン」とは何か
イギリスでは、入会地のような共有地は、「コモンズ」と呼ばれていた。人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこ、どんぐりなどを採取して生活していた。
資本主義によりこの「コモンズ」は解体された。人々は生活している土地を奪われ、共有地に入れなくなり、生活手段を奪われて、多くは都市に流れた。
しかし、資本主義とは、人々があらゆるものを自由に市場で売買できる社会である。
人々は労働力を売ることによって貨幣を獲得し、市場で生活手段を買うことになった。これで商品経済は発展し、資本主義は舞い上がった。
☆ コモンはまだまだある
河川もコモンである。河川は飲み水や、魚を提供し、さらに無償のエネルギー源だった。それが化石燃料に変わった。そして排他的独占が可能になった。
 土地と水がコモンだという。私はそこに空気と太陽光も加えたい。
 本源的蓄積が始まる前は、コモンは潤沢であった。誰でも、無償で、決まりを守れば必要に応じて利用できるものであった。

☆ ローダデールのパラドックス
「私財の増大は、公富の減少によって生じる」という逆説である。
 アダム・スミスは、私富(私財)の合計が国富としたが、それに対する批判であった。
 19世紀初頭の経済学者ローダデールは、本当の豊かさは公富の増大にかかっているという。国富が増えても、国民は豊かにはならないという。

☆ マルクスは、これを発展させて「価値」と「使用価値」の対立とした
富とは使用価値のことであり、空気や水や土地などが持つ、人々の欲求を満たす性質である。それに対して財産は、貨幣で測られる。それは商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済でしか存在しない。
使用価値は「価値」を実現するための手段になり、経済活動の目的であったはずだったのが、「価値」を増やすために犠牲にされた。これをマルクスは「価値」と「使用価値」の対立とした。
 コモンズの解体による人工的な「希少性」の創造が、「本源的蓄積」の真髄であるという。
☆ まとめ
 コモンズとは、万人にとっての「使用価値」である。
 コモンズに「希少性」を生み出すことによって、商品「価値」をつけたのだ。
 資本は、気候ショックも、コロナショックも、希少性によって金儲けをする。もう抗生物質は、利益が少なく、製薬企業の撤退が始まっている。そして儲かるワクチン製造へ転換した。今が「希少性」による価値の増大で、大儲けのチャンスである。
 使用価値を犠牲にした希少性の増大が私富を増やす。これが資本主義の不合理さなのである。
☆ 現代の労働者は、奴隷と同じである
 意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も同じなのである。資本主義のもとでは、替わりはいくらでもある。先進国では、その為に移民を受け入れている。日本でも、研修生という名目で受け入れている。
 労働者は、首になって仕事が見つからなければ、究極的には飢え死にしてしまう。この不安定さをマルクスは「絶対的貧困」と呼んだ。世界銀行はこの定義を、一日一人1.9ドル以下で生活する人とした。世界で7億人(10%)の人がこれに当たるという。
 〇負債という権力
 負債を背負うことで、人々は従順な労働者として、資本主義の「将棋で言う盤上の」駒として、働くことを強制される。
 それは第一に、住宅ローンであり、第二に、奨学金ローンである。第三に、ちょこちょこ借りることができるカードローンである。
 
☆ コモンを取り戻すのがコミュニズムだ
 マルクスによれば、斉藤幸平は続ける、コミュニズムとは、否定の否定である。一度目は、資本によるコモンの解体であり、二度目はコモンの再建である。コモンの再建により、「ラディカルな潤沢さ」を回復することを目指す。
 資本主義を乗り越えて「ラディカルな潤沢さ」を21世紀に実現するのがコモンなのだ。
☆電力もコモンであるべきだという
 なぜなら、現代人は電力なしには生きてはいけない。水や空気と同じように、電気なしには生きていけない。水や空気と同じように、電力も「人権」として保障されなくてはいけない。そして、市場に任せずに、任せたら貨幣を持たない人には与えられないから、国有にもしてはいけない。国有だと、閉鎖的技術になるためだから。
 電力をコモンとして市民が管理することが求められる。市民の手による「<市民>営化」と呼ぼうという。
☆コモンの“市民”営化
 ここには太陽光も風力も、水や空気も、排他的(私的)所有と馴染まない。
 再生可能なエネルギーは、開放的技術だという。そしてどこでも作れることにより、希少性がなくなる。それは資本主義にとっては、利潤を生みだせなくなる。
 だから、再生可能エネルギーの普及には、“市民”営化が必要になる。
 私は医師として、医療もコモンにすべきと思う。医療を開放的技術にし、排他的所有から引き離さなければならない。原始的社会では、医療は人々の中にあった。今は、高度化し、閉鎖的技術となり、「金の切れ目は、命の切れ目」と言われるほどになってしまった。
 医療もコモンにできる。私は、それを心掛け、医師を貫いてきた。医療の知識を開放し、医師でなくても家族なら医療行為はできるから、それを広めてきたつもりである。

☆ 生産手段を「コモン」に
 それが労働者協同組合である。ここは省略する。
 そして斉藤幸平は、教育や医療、インターネット、シェアリング・エコノミーなどをコモンにして市民の手に取り戻そうという。
 ここにきてやっと医療が登場した。ここにおいて全く私の考えと一致した。

☆ ワクチンも医療も市民の手で管理しよう。
☆ ラディカルな潤沢さが増えるほど、商品化された領域が減り、GDPは減少する。それ
が脱成長である。
 私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働き過ぎた。
もう働かなくていい。脱成長のコミュニズムで、ラディカルな潤沢さを得て、生きていこう。

☆ そこで自由が問題になる。自由にはいくつかあると、私は学生時代に教えられた。現代
にあるのは、資本主義的自由、つまり個人的自由しかない。
 マルクスの掲げる自由は、物質的欲望から自由になることであり、集団的で、文化的な活動の領域に、人間的自由の本質があるという。

☆斉藤幸平はいう。自然科学が教えてくれないことと。
 私は、以前から医学は自然科学ではなく、社会科学であるというシゲリスト、ルネ・デュボス、白木博次の意見を支持してきた。今はさらに自然科学も、社会的に左右されるから、昔のような自然科学と社会科学という対置はできないのではないかと思う。
「人新世とは何か」でボヌイユは、人文社会科学と自然科学とが分断され、統合を支持する人たちはネオヒポクラテス派と言われ、世界の隅に追いやられたという。まさに私はその一人でした。
 また 私は、「人間は体(肉体)とこころを持つ社会的存在である」と提唱してきた。自然界には、蟻や蜂などの社会を営む生き物がいる。人間は、特に社会が無いと人間ではない。
 それは、昔、狼などの動物に育てられた人は、人間社会には戻れなかった。人間の姿をした狼である。この存在を否定する意見もあるが、言葉をしゃべれる年齢で猿にさらわれた人が人間界に引き戻されて生きていたという事実がある。略

◎コロナ禍というパンデミックからの出口はどこか
 もちろんコロナによるパンデミックは、資本主義が生んだものである。
新型コロナは、いろいろなことを教えてくれた。それが資本主義の終焉の兆候であり、気候変動の原因であることを。
 ここでコロナによるパンデミックによって、かき乱された世界の出口が見えてきた。

☆私がたどった出口への道
(1)ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大の「そろそろ左派は経済を語ろう」亜紀書房
(2)「ナオミ・クラインとアルンダティ・ロイ対談」世界2020.9.
(3)「ジェネレーション・レフト宣言」斉藤幸平、世界2020.11.
(4)「コロナと創造的破壊」広瀬純、週刊金曜日2020.9.18.
(5)「人新生の資本論」斉藤幸平、集英社新書
(6)「未来への大分岐」斉藤幸平編、集英社新書
(7)「自由と平等のサピエンス史」三宅芳夫、世界2021.2
(8)「未開と野蛮の民主主義」酒井隆史、世界2020.10

◎ そして私は出口を見つけることができた
私は、20歳代のマルクス主義から、挫折して医療の世界に埋没していた。私にとって「資本論」は理論構築のための教科書であった。その中で到達したのは、自然の体の働きに応じて生きることが大切だということを学んだ。社会が病気を作るのである。
だから現代社会は病気の人が多い。社会を変えれば、かかる病気が異なる。残念ながら社会主義体制下のソ連邦や中国、キューバなどの疾病統計を入手していないので、詳細は言えないが、マルクスの目指した「脱成長コミュニズム」を実現できれば、誰もがその人の持つ寿命をまっとうできると思う。人は誰でも死ぬ。雌雄がある生物には必ず寿命がある。
人は死を恐れ、それを宗教にすがった。マルクスは宗教をアヘンと言った。
私は、宗教に対して、「心療内科」を提唱する。心療内科も到達点は、こころの安寧である。そしてブッダのラディカル・ブッディズムを勧める。ブッダは死を語る時に、「死後の世界などは生きて帰った人がいないから判らない」と説いたという。また奇跡も、信じれば救われるとも言わず、ブッダ崇拝も禁じた。だからラディカル・ブッディズムは宗教とは認められていない。自己修養の教えである。
 そしてここに来て私が待っていた若者が出てきた。斉藤幸平だ。
 おまけに、30歳代以下の若者と70歳以上のラディカルな人との共闘を呼び掛けてくれた。
 社会の3.5%に入ると思う人々よ、立ち上がれ。と呼び掛ける。

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ジジェク「パンデミック」を読んで

2022-01-13 09:54:38 | 人新世
パンデミックに際して、どう対応するか

 ジジェク「パンデミック」を読んで

 まだ読んでいない方の為に、私の感想と抄録をここに載せます。いろいろな例え話やエピソード、説明などは、ご自身でお読み下さい。

 「パンデミック」スラヴォイ・ジジェク著抄録 (日販アイ・ビー・エス)

この71歳の哲学者は、最も危険な哲学者と呼ばれる。マルクスは「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」と「共産党宣言」の冒頭に書いた。私はコロナのパンデミック以後、今「妖怪が世界をさまよっている」と言ってきた。現代の妖怪はコミュニズム、それも形を変えた「脱成長のコミュニズム」である。この書は2020年4月にジジェクが書いたものを、5月に斉藤幸平が緊急出版した。
 1990年代半ばから始まっていたいろいろな動きは一方では政治や歴史の見直し、医学では精神神経免疫学の登場で、遺伝学や感染症学、疫学などの見直しが始まっていた。                        
 「人新世」は、地質年代の呼び方を人類が地球を変えているとして、2000年にオランダの化学者パウル・クルッツェンが提起したと言われる。ロンドンのエコノミスト誌が2011年に「人新世へようこそ」という特集を組み、広く知られるようになった。
ヒトゲノムも2003年には解読された。遺伝子分析から、古考古学も発展し、古墳の発掘も進んだ。その後次々と歴史の見直しが始まり、「サピエンス全史」や「反穀物の人類史」、「人体600万年史」など2015年前後から多くの著作が出た。
その中でも特にヨーロッパで注目されたのが、斉藤幸平の「大洪水の前に」で、ドイツの経済理論学会奨励賞とドイッチャー記念賞を、最年少で日本人が受賞したことである。斉藤幸平は「人新世の資本論」とマルクス・ガブリエルたちと対談集「未来への大分岐」を書いた。
私はつねづね医学は社会科学であると言っていたが、それを言ったのは、アメリカのルネ・デュボスと元東大医学部長の白木博次であった。しかし、それは医学だけではなく、気候学も人文社会科学から切り離されて語られていたので、現在の気候危機を招いたのである。それを「人新世とは何か」でボヌイユは指摘し、人文社会科学と自然科学の分断がなされていたが、これを再度統合しなければならないという。
 私はヒポクラテスの環境重視の医学を継承していたが、「人新世とは何か」によれば、ネオヒポクラテス学派と呼ばれるようだ。確かに病理学者ウイルヒョウや疫学者シゲリスト、
バーナード・ディクソン、ルネ・デュボスたちも、そして初期のバーネットやマクニールたちもそうだった。サイエンティフィック・アメリカン誌にも時々私と同じ考えの論文が載るのもやはりその流れであった。利根川進門下の某遺伝子学者が言うところの日本の科学ジャーナリズムの層の薄さから、科学雑誌を読んでいてもそう言う動きをとらえることができなかった。
それでそのことに気付いたのは「世界」に載った斉藤幸平の論文であった。私がこの世界の流れに気付いたのは、コロナウイルスによるパンデミックが契機である。コロナウイルスが教えてくれたのである。
 ジジェクの存在も斉藤幸平が教えてくれた。そこでジジェクの「パンデミック」の抄録と私の考えをここに記す。ジジェクは、欧米の人たちの習いでキリストとヘーゲルの言葉を冒頭に置いたが、私は私淑するブッダの教えを置く。ブッダは「もろもろの事象は過ぎ去るものである」。「生きとし生けるものの上に、幸いあれ、平和あれ、安楽あれと」と説く。
ジジェクに対する批判は、「資本主義と危機」(岩波書店)の中で、フォスターが書いていますので、参照してください。以下は抄録となります。 ()内は私見です。



序章  我に触れるな
 ウイルスは我々の生活の基礎そのものを打ち砕き、途方もない量の苦しみを生むだけでなく、ことによると大恐慌よりひどい経済的大混乱を引き起こすだろうということである。
もう平常への復帰はない。古い生活の廃墟の上に、新しい「平常」を構築しなければならなくなるだろう。
 (ブッダは、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」という。
 精神神経免疫学から言えば、人はすべて「暗示」から生じているという。ウイルスを恐れることはない。恐れるから悲しみや苦しみを生じる。しかし、パンデミックを起こすのは適度に感染力が強く、適度に人を死に至らしめる病原体である。エボラ出血熱のように致死的な感染症だと、人と一緒にウイルスが死ぬので次の人に感染しない。元気で歩き回る人がいるから感染しやすくなる。だからウイルスを恐れる人は、かかると恐怖に陥り、昂じるとパニックになり、「死ぬ、死ぬ」と自ら死んでいく。だが効果があると信じているワクチンを受けると、「これでコロナにかからなくて済む」と元気になる。だが、ワクチンが嫌でしぶしぶ受けさせられると、ワクチンで何が起きるか不安で、アナフィラキシーが起きる)。

第一章 我々はみな、同じ舟に乗っている
(しかし、ジジェクの分析は鋭い)。
中国の機構全体が、毛沢東の掲げた「人民を信ぜよ」に反していると言える。中国政府は「毛沢東主義者」のウェブサイトを閉鎖し、各大学のマルクス主義研究サークルを禁止した。
 マーチン・ルーサー・キング博士(暗殺されたアメリカ公民権運動指導者)が半世紀前に言っている。「我々はみな、違う船でやって来たかもしれない。だが、今、同じ舟に乗っている」。
 (そうだ。今は航空機時代で、船のような水際などない。しかも世界中のすべての人々が、同じ舟に乗っているのだ。水際作戦など成立はしない。オミクロン株のコロナウイルスは空気感染だというが、本当は呼吸器感染の病気はすべて空気感染なのだ。マスクもプラスティックのつい立ても、手洗いも、多少は効果があるかもしれないが、そんなに有効ではない。 最大の防御は自然免疫である。それは貧困と格差社会から、違いが生ずる。
  日本で最初のクラスターは、横浜に停泊したプリンセス・ダイアモンド号の乗船者であった。しかし、3711人のうち60歳以上が大半の2165人なのに、死亡率は低く、感染(PCR 陽性)率が19%、その内の発病率54%、70歳以上の1242人のうち、死者は7人だった。クルーズ船に乗れる乗客も乗員もそれなりに裕福であるから、軽く済んでいた。感染率も死亡率も低く、むしろPCR陽性でも無症状者が半数だったことを思い出して欲しい)。

(だからジジェクは言う)
第二章 何をこんなに、いつも疲れているのか?
 つまり、新しい労働区分が存在するのだ。西側先進国における自営の自己搾取の労働と、第三世界の疲弊させる組み立て労働。さらにもう一つ、激増しつつあるあらゆる形の人をケアする労働(介護職、ウェイターなど)である。これには搾取も多い。この三つのグループのそれぞれが、特有の疲労と過重労働の形態を示す。組み立てラインの労働は、労働者は死ぬほどうんざりする。
 一方、人をケアする労働が過酷なのは、共感を持って働くことが期待され、仕事の「対象」を思いやるように見せることを期待されるという。常に「いい人」でいることの重圧は想像に難くない。保育や介護、看護などの労働者に言える。
 しかし、最後のグループに対する要求は、ずっと疲労度が高い。自己搾取によって疲労困憊(ぱい)するのは、自宅のパソコン画面の向こうで働く不安定な労働者だけではない。「クリエイティブ・チーム業務」という欺まん的な名称で呼ばれるグループである。・・・つまるところ、経営のあらゆる悩みや責任を負いつつ、賃金労働者の将来の不確かさも変わらない、いわば、両方の世界の悪いところ取りである。
 超過勤務で死ぬほど疲れている医療従事者や、過大な負担でくたくたになっている介護従事者は、取りつかれたような昇進を動機とする疲労とは全く違う理由で疲れているのだ。
その人たちの疲労こそ値打ちがある。

第三章  欧州のパーフェクトストームに備えて
 めったに起きない重大な状況が重なって発生する究極の壊滅的な出来事を、「パーフェクトストーム」という。世界全体を巻き込むという特徴ゆえに、「我々はみな同じ舟に乗っている」という表現が使われることが多い。しかし、ヨーロッパという舟には、・・(危険な)運命を思わせる兆候がある。それは、三つの嵐が上空で力を蓄積しているからだ。
 最初の二つは、コロナウイルスの流行の持つ身体的な影響(隔離と苦痛と死)と、経済的な影響である。これに加えて、「プートガン」ウイルスとも呼ぶべき第三の嵐がある。トルコと(シリアの)アサド政権が起こしている暴力の嵐である。シリアを支えるプーチンと、トルコのエルドアンである。名づけて「プートガン」である。
 人種差別は、脅威をオリエントの他者に由来したものと判断した時に作動する。(日本でも、アメリカでも、過去に起きたこと)
 この感染と難民という大惨事を未然に防ぐため、・・・ヨーロッパは、難民の危機への対応に行動すべきである。
 ドイツの左翼党の幹部グレゴール・ギジは、「我々が第三世界の貧困層にたいする責任を受け入れなければ、彼らはヨーロッパに来るしか選択肢がなくなるだろう。それこそ反移民の感情を大いに逆なですることになる」と(批判に)答えた。貧しい国の苦しみの原因は、ヨーロッパの(日本も)人種差別や植民地支配の結果であるという動かしがたい事実にもとづいて、寛容や罪悪感に訴えるアプローチは、効率的でないからだ。(日本人に、特に左派の人たちにこれだけ言える人がいるだろうか。)



第四章  ようこそ、ウイルスの砂漠へ
 今回のコロナウイルスの感染拡大をきっかけに、社会の片隅に眠っていたイデオロギーのウイルスが大流行を起こしている。・・
 たとえば、新型コロナウイルスは、中国の共産党支配の崩壊につながるという推測がある。ちょうど、ゴルバチョフ自身が認めたとおり、チェルノブイリの悲劇がソビエト共産党の終焉(えん)につながる出来事だったように。但し、ここにはパラドックスがある。コロナウイルスは、国民や科学の信頼にもとづいて、共産主義を書き換えることも強いているのである。
 私は、新型コロナウイルスの流行が世界の資本主義制度に対する「五点掌爆心拳」(中国武道の究極の必殺技)となると考えている。
 我々はみな同じ舟に乗っているのだ。他者と密接に接触するな、自己隔離せよと求める厳格な命令下の日常生活の中で、団結と世界的な連帯を促すものが表れてきているという事実には、最高の皮肉を見ざるを得ない。
 そのほか様々な破局的な事態も姿を現している。干ばつ、熱波、巨大な台風など枚挙にいとまはない。こうした事例すべてにおいて、正しい解はパニックではなく、効率的な世界の協調を打ち立てるという、難しいが急を要する作業である。(今こそインターナショナルが求められている)
 
第五章  感染流行の五段階モデル
 精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスから。著書「死ぬ瞬間」の中で、死に至る状況にあると知った人がたどる反応を、死の受容の五段階モデルにまとめた。
 第一段階の<否認>は、「そんなはずはない。自分に起きるはずはない」
 続く<怒り>は、「なぜ、こんなことが自分に起こるんだ?」
 そして、<取引>をする。「子どもたちが卒業するまで、生きさせて」と、
 さらに<抑うつ>の本能的に投げやりになる段階では、「どうせ死ぬなら、何もかも、もうどうでもいい」と感じる。
 最後に、<受容>の段階が訪れ、「もう闘えない、覚悟した方がいい」と考えるようになる。
 これを彼女は破局的な個人的喪失(失業、愛する人の死、離婚、薬物中毒)に応用したが、五つの段階は必ずしも同じ順序でも起こらないし、すべて体験する訳でもない。
 社会が心的外傷を残す何らかの断絶に遭遇する場合にも、同じ五段階が識別できる。たとえば生態系崩壊の脅威を考えてみよう。
 同じことが、デジタル支配が生活に与える脅威の拡大についても言える。
 コロナウイルスの流行に対する我々の反応も、同様なのではないか。
 では最終段階の受容は、どのようなものになるだろうか。奇妙な真実として、この流行拡大は、・・・最近の社会的抗議活動に共通の特徴を示している。爆発しなければ、その後消え去る。根強く残れば、恒久的な恐怖と脆弱性(ぜいじゃく性=弱さ)を我々の生活にもたらす。もっと広い意味で言うと、ウイルスの流行は、我々の暮らしの究極の不確実性と無意味さを再認識させる。
第六章  イデオロギーのウイルス
 我々の世界が密接につながればつながるほど、一地域の災難が世界的な恐怖や破局的事態につながりやすくなるというパラドックス(逆説)が働いている。
 技術開発が自然からの独立性を高める一方で、別のレベルでは、自然の気まぐれへの依存を高めているのだ。
 新型コロナの拡散にも同じことが言える。
 ひとつ確かなことがある。新しい壁を作ろうと、更に厳しい封鎖をしようと、隔離だけでは効果が無いということだ。完全な無条件の連帯と世界的に協調した対応が必要なのであって、それはかって共産主義と呼ばれたものの新しい形でもある。
一時期の武漢。ゴーストタウンの都市。非消費主義の世界はこんな風なのかも知れない。
シチュアシオニスト(1960年代の国際的状況主義的社会改革者たち)のマニフェストの結論「無意味な時間なく生き、邪魔するものなく楽しむ」
ラカン(フロイト派精神分析医)の説明のように、超自我は突き詰めれば「享楽(きょうらく)せよ」という命令であり、それは実際、最悪の事態を招く原因だということだろう。割り当てられた時間のあらゆる瞬間を集中的な関与で満たしたいという衝動は、結局、息のつまるような単調さに行きつく。だから無意味な時間(退穏[隠居]あるいは放下[無我の境地に入ること])の瞬間は、我々の人生の経験の活性化にとって不可欠なのである。
世界の都市封鎖の意図しない結果のひとつとして、少なくとも一部の人が、騒々しい活動から解放された自分の時間を使って、自分の苦境の意味(あるいは無意味)について考えてくれるのも願っても良いだろう。
イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグは、自分の国を愛するのではなく恥じることこそが、国に帰属している本当の証かもしれないという考え方を示した。
しかし、世界各国で封鎖されている人々にとっては、恥じたり他者の非難を感じたりする時ではなく、勇気を出して辛抱強く自分たちの奮闘をやり抜く時である。
本当に恥じを感じるべきは、自分たちは過剰に防護しながら、感染拡大を甘く見た者たちだ。もしかすると、そうしたダブルスタンダードに対する一般市民の激しい怒りが、今回のコロナ危機に予期しない肯定的な副作用を生む可能性もある。

第七章  冷静にパニクれ!
 メディアはしきりに「パニックになるな!」と繰り返すが、パニックには独特の論理がある。この種の過剰な不安と対をなすのが、パニックになる理由が十分あるはずなのにパニックが起きない奇妙な状況である。
 コロナウイルスの流行によって共産主義が新たに息を吹き返すかもしれないと私が示唆した時、この主張は、案の定、一笑に付された。
 WHOの事務総長の述べている総合的アプローチは、一国の仕組みを超えたものである。
 他国との協力も模索しなければならないし、軍事行動と同様、情報を共有し、計画には完全な協調が必要になる。これがまさに私の言う、今日必要とされる「共産主義」である。
 ここでの私は空想主義ではない。
 コロナウイルスは人類に老人・弱者・病者を排除することを許し、世界の健康に貢献する、有益な感染であるように見えるのかもしれない。私が主張する幅広い共産主義のアプローチは、そのような粗野な視点から脱する唯一の方法なのだ。
 病院の収容能力を超えた時に人工呼吸器などの配分に関する決定を一体どんな基準でするのだろうか。最も弱い人、高齢者を犠牲にするのか。「適者生存」という野蛮な論理を発動させる準備をしているという意味になりはしないか。だから重ねて言う。我々が直面している選択は、野蛮か、それともある種の再考案された共産主義か、なのである。

第八章  監視と処罰? ええ、お願いします
 コロナウイルスの流行拡大によって、国民を管理・規制する施策や、・・・対策が、正当化され助長されてしまう状況について、多くのリベラルや左派のコメンテーターが発言している。イタリア全土のロックダウン・・・、デジタル化された社会統制が普及している中国こそ・・・我々の未来だという意味だろうか。
 イタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンは、・・全く異なる反応を示した。アガンベンは、インフルエンザの別バージョンでしかない「コロナウイルスの流行予測に対して、狂気じみた理不尽な、絶対的に不当な緊急対策が導入されている」として、「メディアや当局は、なぜ躍起になってパニック感をあおり、すべての地域に対して移動の厳重な制限と日常生活や労働の停止を課して、本当の「例外状態」招くようなことをしているのか」という。
 アガンベンは、この「不相応な対応」の主な理由を、「通常の統治の枠組みとして例外状態を利用する傾向が強くなる」ことにあると見る。
 「例外的措置の言い訳としてのテロ攻撃がネタ切れになったとたん、感染拡大に対する介入が、限度を超えた措置を広げる理想的な口実になるというわけだろうか」。もう一つの理由は、「恐怖状態である。恐怖状態は、近年、個人意識の中に流布しており、集団パニック状態の現実的な必要性に姿を変える。ここでも感染拡大は、理想的な口実になる」。
 アガンベンの主張には疑問が残る。パニックは国家に対する不信がつきまとう。なぜそんなことが必要なのか。アガンベンの反応は、左派のよくある立場を極端にしたものである。だが、脅威の現実を消しさることはできない。
 しかし、新しい形の地域や世界の連帯に対しても、絶大な後押しになっている。また、権力自体に対する統制の必要性も、明確になった。だから人々が国家権力に責任を負わせることが正しいのだ。権力を持っているなら、何ができるか見せてみろ!と。
 しかし、あらゆる形態の探知やモデリングを「監視」だと、積極的な統治を「社会管理」だと、反射的に解釈することは誤りである。我々には、介入を表す別のもっと「繊細な語彙(ごい)」が必要である。
 ジジェクが恐れているのは、「流行を封じ込める効果のない措置がとられることや、当局がデータを操作したり、隠ぺいしたりする可能性である」。マスクをしたり、社会的隔離を取ることが、今日の連帯の形というパラドックスが生まれている。我々庶民はウイルスと共に暮らさなければならない。
 問題は、いつかは生活が見かけ上の通常に戻るとしても、感染発生の前に我々が経験していた「通常」と決して同じではないということである。
 絶え間ない脅威にさらされながら、ぜい弱になった生活を送るすべを学ばなければならないだろう。生活について、あるいは様々な生命体の中の生物としての我々の存在について、態度を完全に変える必要が出てくるであろう。
 ウイルスは無生物の化学的単位とかんがえられているが、感染し、生きた細胞の中だけで増殖するから、生命体ととらえられる場合もある。ウイルスは、「リヴィング・デッド」であり、生きても死んでもいない。(だから消毒の意味はなく、洗い流したり、ふき取るしかない) ジジェクは「より高度な増殖の機構(まさに人間のこと)の不調の産物として現れ、それに取りつき(感染し)続ける最下位の生命という残余」であるという。
 (だから対策は、消毒や殺菌ではなく、我々の健康状態を良好に保つことであるの。マスクも手洗いも、社会的隔離も、本当は殆ど効果のない対策でしかない。江戸時代に、麻疹や天然痘の予防に張ったおまじないの紙でしかない。ジジェクは続ける)。
 人の精神は一種のウイルスである。ヒト動物に寄生し、自己複製のためにそれを利用し、時にはそれを破壊するぞとおどす。そして、精神の伝達手段が言語である限り、・・・言語は我々が従わなければならない規則である。
 現在のウイルスの感染拡大から我々が最も憂慮すべき教訓は、「あなたたちが私にしたことを、今度は私があなたたちにしているのです」というメッセージなのです。
 
第九章 人の顔をした野蛮がわれわれの運命か
 最近、ウイルスに感染することを願っている自分に気づいて驚くことがある。感染すれば、
少なくとも、この疲弊させる不確実性は終るだろうにと思えるのだ。
 (だからかかってしまった私には、今不安が全くない。マスクも手洗いも隔離も、人々との連帯の為にしているのです)
 最近、感染拡大の影響を克服するには、急進的な社会的変化が必要だと言われているのをよく耳にする。しかし、急進的な変化はすでに起こりつつあり、コロナウイルスの感染拡大は、何かこれまでに「不可能」だと思われているものを突き付けている。
 「不可能」が現に起きたのだ。我々の世界は止まってしまった。それは何なのだ。
 あけすけな野蛮(治安錯乱や恐怖によるリンチなどの暴力)よりも私が恐れるのは、人の顔をした野蛮である。無慈悲な生存主義的な措置が(首切り、借家からの追いだし、生活保護からの締め出し、不当な利子の奨学金ローンの返済強要、使用料未納での電気やガスの停止など)、後悔や同情すら伴って強行されるが、専門家の意見によってそれが正当化されるのだ。
 注意深く観察すれば、権力者の声色の変化に容易に気づくだろう。
 つまり彼らのへ本当のメッセージは、社会倫理の基礎を失う覚悟がいるぞ、高齢者と弱者のケアを切り捨てるぞということである。
 このような「適者生存」の倫理を受け入れることはできない。軍人倫理でさえ、重症者をまずケアすべきであると定めている。
 我々の第一原理は効率化であってはならず、救いの必要な人が生き続けるためには、費用にかかわらず、無条件の支援が行なわれることでなければならない。
 冷戦時代の生き残りのルールはMAD(相互確証破壊)であったが、今のルールは別のMAD(相互確証距離)なのである。(madはご存じのように「狂気の」である)
 最近は一人ひとりの責任があり、・・・というが、それは、経済や社会制度全体をどう変えるべきかというより大きな問題を見えにくくするために作用するなら、それはイデオロギーとして機能する。
 我々は三つの危機、医療の危機(感染拡大そのもの)、経済の危機、そして心理的な危機である。何億人もの日常の暮らしの基本的な座標が崩壊している。
 先ごろ、この危機を乗り切る方法は一種の「共産主義」だと示唆して、私は多方面から冷笑された。
 しかし、隔離と生存だけでは足りない。隔離と生存を可能にするには、基本的な公共サービスが昨日し続ける必要があり、電気、水道、食料、医薬品などが入手できなければならない。これは生き残るためだけの「戦時共産主義」と呼ばれたものの一種である。
 昔から言われている通り、危機においては、我々はみな社会主義者なのである。
 しかし昔、政府は銀行だけは救済したように、この強制された社会主義は富裕層のための社会主義になりはしないか。
 この感染拡大は、ナオミ・クライン(カナダの女性ジャーナリスト)が「惨事便乗型資本主義」と呼ぶ長く悲しい物語の新しい章になるだけなのか。
 今誰もが、社会と経済の仕組みを変えなければならないと口をそろえている。
 しかし、トマ・ピケティ(「21世紀の資本論」の著者)がいうように、本当に必要なのは、どのように、どの方向に変えるか、どんな方策が必要かである。今こそ真の政治が必要なのだ。連帯に関する判断とは、極めて政治的なのだから。




第十章 共産主義か野蛮か。それだけだ!
私が、パンデミックの結果、一種の共産主義が来るだろうというものだから、それに右翼から左翼までの批判は、戻ってくるのは資本主義であって、それも火事場泥棒的に、より強い形で、例えば中国のような国家による生活への完全統制(日本の戦前の軍部と財閥による国家統制のような)だと。いわく、生存主義的なパニックに政治性はなく、他者を闘いの同志ではなく、死の脅威と見ることを強いるだけだと。
 (アメリカ政府の秘密を暴露して)刑務所にいる(ウィキリークスの編集長)アサンジは、我々にとって必要な人物である。隔離下の私たちには、電話とインターネットが他者との主なつながりとなるが、いずれも国家に管理されており、国家は思いのままに遮断することができるのだ。
 一体何が起きるのだ。実際、以前は不可能と思われていたことが、すでに起こりつつある。例えば、ボリス・ジョンソン(首相、保守党)はイギリスの鉄道の一時的な国有化を発表した。(日本では、テレワークや学校のネット授業や、会議のズーム会議化が普通になった。)
 アサンジは「少なく見ても、コロナ危機の新しいフェーズで、「なんでもあり」、どんなことでも可能となったとはっきりした」という。
 言うまでもなく、事態は良いほうにも、悪いほうにも、あらゆる方向に転じる。だからこそ、急進的な選択に直面している現在の状況は、大いに政治的なのである。
世界の各地で、国家権力が半ば崩壊することもあるだろう。(現実にアフガンのタリバン政権や中南米やアフリカで起きている政変)
 アメリカでの数々の発現に含まれるメッセージは明白だ。膨大な数えきれないほどの人命か、アメリカ的「生活様式」(すなわち資本主義)かという選択である。そして、この選択では人命が敗れる。(だからアメリカのコロナによる死者が世界一だ)
 しかし、それが唯一の選択なのか。アメリカでさえも、世界でも、形を変え、新しい形でなら再出発できる。何をすべきかは、誰にも分からない。
 ここでカントが国家の法律について書いた「従え、しかし考えよ。思考の自由を維持せよ」にこそ従うべきだ。カントのいう「理性の公的利用」が我々には必要なのだ。
 感染拡大は(気候変動など)様々な環境上の脅威と合わさって襲ってくるだろう。だから難しい決断を今、下さなければならない。
 「中世のペストをみよ」という観念論ではなく、(現実には戦争と革命後のスペイン風邪のパンデミックの時を考えるべきだ)ペストを運命として受け入れる気もない。
 ここで、私の言う「共産主義」の出番である。これは既に起こりつつあること、あるいは、既に検討されつつあり一部は執行されている措置の名称としての共産主義、資本主義の解毒剤としての「災害共産主義」の視点である。
 観光業に従事する人たち、難民たちのことを(特に彼らの思いのことを)、忘れてはならない。
 明白なことが、あとふたつある。ひとつは、制度化された保健医療制度は、高齢者や弱者のケアを地域のコミュニティに依存せざるを得なくなること。
 もうひとつ、リソース(財源または資源)の産出と共有のため、何らかの有効な国際協力を組織しなければならないことである。各国が単に孤立すれば、戦争が勃発してしまう。(ミャンマーや北朝鮮を見よ)
 私が「共産主義」を言う時に言及しているのはこのような協力の進展であり、それ以外の選択肢は新しい野蛮以外にない。
 野蛮と我々(共産主義)とを隔てる境界線は、ますます明瞭になる。今日の文明の象徴のひとつが、世界各地で様々な戦争を続けることは、完全に狂った意味のないことだという認識の拡大である。
 ウイルスとの闘いは戦争ではない。ウイルスは、戦略などなく、馬鹿みたいに自己複製をするメカニズムでしかないのだから。
 自己破壊から人類を守ろうとする努力を通じて、我々は新しい人間性を作りつつあるからだ。現在のきわめて重大な脅威を通してのみ、我々は統合された人間性を思い描くことができるのだ。

 補遺 友人からの二通の有益な手紙
 (ここは簡略に、要点だけにします。PTSDの起き方にも関係しますので)
フロイトは「快感原則の彼岸」の冒頭で、指摘した謎である「戦争で負傷した兵士は、無傷で帰還した兵士よりも、自分の外傷的経験に向き合うことができる。逆に無傷の帰還兵は繰り返し夢にうなされて、暴力的な心象や戦時の幻想を追体験する傾向があった」ことである。
 ラカン派の精神分析医トゥピナンバは、HIV危機の最中にも同じパラドックスがあったことに気づいた。「目に見えないHIV危機の拡大は、まさに神経をすり減らすような状況だった。自分を問題の規模に一致させられないことが余りにも苦しくて、この状況に何か象徴的な輪郭を与える為なら、自分の
パスポートに「HIVあり」のスタンプを押されることは、支払うべき対価として高すぎるようには思えないほどだった。感染してしまえば、少なくとも、ウイルスの力を測る尺度が与えられ、まだ残されている自由がどんな種類のものかが分かる状況になるのではないかと思えた」。
 (フランスの哲学者)ブルーノ・ラトゥールは、新しいアプローチが必要になり、その道筋を示した。コロナウイルスの危機は来たるべき気候変動に対する「最終リハーサル」だと強調している彼は、正しい。(気候変動)は次の危機だ。
「健康上の危機においては、ウイルス側には我々に関心がなく、人間ののどからのどへと、その気はなくとも人間を殺しながら、我が道を突き進んでいるとしても、とりあえず人間側は全体としてウイルスと「戦って」いると言える。ところが悲劇的なことに、環境変化においてはこの状況が逆転する。恐ろしい毒性で地球上のあらゆる生命の生息条件を変えてきた病原体は、ウイルスではなく、人間なのだ!」
「これは宣戦布告もせずに我々に戦争を仕掛けてくる人間だけに当てはまる」、「宣戦布告せずに我々に戦争を仕掛けてくる」行為主体性は、人間の集団だけでなく、既存のグローバルな社会・経済システム、すなわち、我々みな(人類全体)が関与している既存の世界秩序でもある。
 多くの貧しい賃金労働者は、気がつけば貧困がウイルスよりも大きな脅威になっていたという悲惨な状況があり、その大きな原因は、福祉国家の解体に集中してきた新自由主義経済であること。
 実際に仕事に戻れる人たちは貧しく、一方で富裕層は快適な自己隔離に固執するという。
 左派リベラルの憂慮は、今実際起きていることを見落としている。(実際には社会経済システムがこの危機を引き起こしたのに)権力者たちは、マスクや手洗いや社会的距離などをと叫び、この危機の結果を我々個人的責任にしようとしているが、現実は正反対である。
 国家の運営にあたるものたちがパニックになっているのは、状況をコントロールできていないからだけでなく、彼らの臣民である我々にそのことがばれていると知っているから、である。権力の無能が、今、露呈しているのだ。
 この感染拡大の最もあり得る結果は、新しい野蛮な資本主義の蔓延である。体の弱った高齢者が、多数犠牲になって亡くなる。労働者は、生活水準の大幅な低下に甘んじるしかなくなる。生活に対するデジタル管理は、永続的なものになる。階級格差は、生か死かの問題に直結するようになる。
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