黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

葛藤としての病、慢性疾患の話

2021-10-06 09:36:01 | 医療
              慢性疾患の身体とこころのメカニズム

           ――こころの葛藤と身体症状との関係――

以前に書いたものですが、今までは診療所の外来に来た人だけに配っていましたが、診療がなくなったので、載せました。コピー、配布は自由。金銭的利益目的でない限りです。私の著作はすべてそうです。知識はすべての人のためのものですから。

これは、アレクサンダー・ミッチャーリヒの「葛藤としての病」と「心身症」から、一部をとり、私の考えをまじえて解説したものです。いかに臨床医学が進歩していないかを痛感しています。昔の書が、未だに臨床の場で参考になるものですから。現代医学は、すぐ人文社会学的見地を離れて、肉体を切り刻み、神経経路はどうかとか、からだのどこの部分が問題かということにすり替えています。人間総体を、つまり心を持ち、肉体としてのからだを持ち、それが社会的に左右される存在である人間を見ていないのです。
 私は、世界的にはネオ・ヒポクラテス学派と呼ばれる考え方の医学理論、病因論を取っています。少なくとも難病の治療には役立ちませんが、臨床の場の最前線にいる開業医諸氏に役立てば幸いです。こころの持ち方を変えることによって、病気が治ったり、予防できたりします。特に初期ですと進行を止められます。


 慢性疾患の身体とこころのメカニズム
     --こころの葛藤と身体の症状との関係--


1) フランツ・アレクサンダーの器質的疾患患者における、無意識過程の心身症的力動の区分
--病因となる葛藤
  1.外的な制止に基づく外的葛藤
  2.摂取された制止、即ち、超自我反応に基づく構造的葛藤
3.同時に存在する対立した衝動の不一致に基づく葛藤
 このことは不当な外的制止を発見して、それを和らげると、速やかに、比較的たやすく、嘔吐、腹部疝痛、喘息等の子どもの身体症状を取除くことに、しばしば成功する。
 構造葛藤がない人は―― 一時的に病気にかかり、その後、自分に解放と感じられるような、葛藤解消の決定が起こって、再び、健康に戻るのである。
 精神的なものが身体的警告状態へ移動し、しかも危機は克服されていない場合、病気の慢性化が起きる。
 神経症症状が先行し、身体的障害の発生と共に消失し、患者の自己意識の中で意味を持たなくなる。しかし、治療によって身体症状を軽減したり、排除したりすると、今度は神経症的適応障害が新たに起こるのである。

慢性の病気も急性期があった筈である。

2)心身症の慢性化の四つの前提 (ミッチャーリヒ)
 ①慢性心身症はもっぱら神経症的適応障害(既往歴がある)から起こってくる。
 自我の統制出来ない情動的苦境と葛藤による<心的平衡>の慢性的障害が、慢性の重圧(ストレス)の前堤条件となり、このストレスにより身体症状が慢性化する。
 ②この様な原因の慢性症状は退行という情動の再身体化が起こっている。
 ③現実的あるいは空想的対象喪失が喚起者として作用する。しかもこの神経症的適応を部分的にしろ、固定するのを促進する。
 ④希望喪失と寄辺なさは現実的なものでなく、投影によるものである。
  疾病による生物機能の喪失には、一定の現実の喪失が対応し、そしてこの現実の喪失には、患者の体験の鍵となる意味が対応する。機能の喪失と対象の喪失は関連して現われる。
  エンジェルは「寄辺ない状態と希望喪失状態は、器質的過程を発展させる精神生物的前提である。」という仮設をたてる。

 3)フロイトの原因となる契機の3つのカテゴリー
  ① 条件--遺伝発生的要因
  ②特異的原因--早期発達段階で情緒的苦境、葛藤、その克服の試みへの固着が起こり、それによって精神生物的成熟の障害が起こる。など・・・
  ③競合的あるいは補助的原因

 4)葛藤としての病
  病気は常に不自由を作り、能力範囲を狭める。
  しかし1つの面での不自由によって他の面での自由が可能となる。
  病歴を調べることによって病気を起こす原因となった動因について盲点が存在していること、即ち、認識が盲目化されていることを知る。
  子どもは衝動要求の力に従って生きている。そして子どもはその存在によって、その成長によって喜びを与えるものであるが、子どもは両親の世話や配慮、忍耐を必要とする。
  病気の子どもを持つある母親に、彼女の無意識のうちに存在している。子どもを寄せつけない感情を洞察させ、その自覚によってそのような態度を克服することに成功させると、その子どもの嘔吐や発疹、夜泣き等は、それまでの物質的な看護を何ら変えることなしに消失したのである。子どもは、大人がその態度や表情を直すように、病気や症状を引っ込めることができるのである。
  各種器官の機能障害は、その人間が直接あるいは間接に暗号的に知らせる伝達の言語であり、それらは象徴的に情報を伝えているのである。
  精神と身体は一体である。
  実現されえない1つの意図のもとで緊張が続いていると、生物学的な統合にも崩壊が起こる。・・・慢性的な疾患には慢性的な感情の変調が先行している。
  同じ情動的負荷が持続して繰返される場合に、反応刺激のイキ値は、たいていは下がり、いろいろ些細なことが気分を熱するようになる。そしてある特定の葛藤領域における僅かな負荷に対してもアレルギーになる。感情に結びついている身体の準備態勢はもはや平静ではいられなくなり、再度中庸状態に調節することができなくなって緊張状態を保つことになる。

 5)人が病気になると
  一般的には人は病気になると、誰かに助けを求め、依存的になる。それは長い間「病気になったら、家族の看護を受け、医者にかかって薬を貰い、治してもらう。」という発想が社会(世界)全体にはびこっているからである。但し、昔は、鼻水などは病気の内に入らなかったのに今では先進国では病気に扱われているように、国や地域、その土地によって病気の概念に違いがあるのですが。
  昔読んだ「シートンの動物記」には、インディアンたちは病気やけがに対して自分で治すこころを持っていた。たった一人で行動している時に誰も頼る人はいないから、必然的にそうせざるをえなかったのだと思う。
  現代の先進諸国ではもうそんな人は珍しいのではないでしょうか。発展途上国でさえ、金がないからとか、医者がいないからとか、病院がないからとか、理屈をつけてあきらめているものの、やはり医療に期待し、医療や看護を受けるのが当然と思い、受けられない時にはがっかりしているのである。
  だが期待される程には、医療は人間と病気との闘いで有効な武器になっていないのである。
でも大抵の人は、もちろん医師も含めて、医療が有効だと信じている。
ところが有効なのは、病気の人がその医者にかかって勇気づけられ、自分で病気に立ち向っていく時なのである。
  人が病気になった時に、それがインフルエンザや下痢症などの急性の病気の場合には余り関心を払わない。早く治らないかなと思う位である。現代人は必ず治ると信じて疑わないからである。

 6)こころの葛藤の悪循環  
  所が腎臓病や心臓病、膠原病それに気管支喘息に代表されるアレルギー性の病気などの慢性の病気だったり、がんや悪性の病気だった時には、人は全く別の反応をする。
  慢性の病気と知ってもうだめだとか、治らないと思い込み、既に病気との闘いを始める前から気持の上で負けてしまい、がんなどでは最悪の場合は生きる望みを失ってしまうことすらある。人間は社会的存在であり、こころで生きる生物であるから、生きる意欲を失ったらまず死は確実である。そうでなくても病気と闘う意欲を失うと治りにくくなるし、時には治療にも拘らず進行したりする。
  そうでなくとも多くの人は、少なくとも病気を嫌悪し、あたかも病気という異物が自分の身体に入り込んできたという気持になる。所がそれは「近代医学の壁」で明らかにされたように何も外から病気(細菌やウィルス)が入ってきただけでなる訳ではない。
  でもそうと分っていても、「どうしてこんな因果な病気になったのだろう。なぜ治らないのだろう。」と思って、医者を替えてみたり、それでもよくならないと、「何か難しい病気の様でもう一生治らないのかなあ。ああ嫌な病気だなあ。」と思う。
  しかし実は病気は人間が環境に適応出来ない為になるのであって、外から来た訳ではないので、「嫌だ」と嫌っているのは、実は健康であった時の自分が、病気になった自分を嫌っているのである。だから「いやだ」と思えば思う程、自分のこころの中で、無意識の過程の中で、葛藤が起こり、病気を悪化させていく。
  病気になったのは自分であり、自らの身体とこころが病んでいるのだから、それを治すには「いやになってしまう」と思うことではなく、自分の身体とこころをなだめすかして、病気の状態から少しずつ病気を脱する方向へ進めていくことである。私は「病気と上手に付きあって下さい。」と説明しているが、その方が分りやすいようである。
  その技術は医師が提供するから、できるだけ専門医、特に腕の良い医師にかかるように勧める。ところが日本の専門医や学会認定医はあてにならない科がほとんどだから、「腕の良い医師を知っていることも、医者の腕のうち」と私は考えている。
  しかし専門医だけでも決してうまくいかないことがある。専門医たちは自分の腕=技術だけで病気を治せると信じているから、治らないのはまだ医学が未熟な為か、病人が医者の注意を守らない為だと考えているからである。病気の人のこころや社会的な面を見ていない。専門医からは病気のうちの身体の部分を治す技術を学ぶしかない。それ以上を求められない。心の面の治療には、精神科医ではなく、心療内科医にかかるのが望ましいが、心療内科医は少なくなかなか見つけられない。もちろん心療内科医の役割を果たしてくれる精神科医も少数ではあるが存在する。
  そしてあなたの身体の病気を受入れてあげて下さい。日常生活が支障なければ良いと、病気と一緒に暮していきましょう。悪くなったらどうしようと思ったら悪くなるから、そう思った時にはすぐ別の楽しい事を考えて頭の中を楽しいことで一杯にして下さい。でもすぐあの嫌な危険な考えはいつの間にか頭の中に浮んでくる。折角追払ってもすぐまた頭の中に入って来る。でも負けずにまた他の楽しいことを考えよう。考えることがない時はセックスのことを考えるのが最後の手段という(但し、良いセックスを経験したことのない人には判らない)。
たったこれだけのことがうまくできるようになるのに、上手な人でも2~3ヵ月かかる。一生出来ない人もいる。でもそのことが分った人は半分治ったようなものです。
  あなたとあなたの病気とのつきあいがうまく行くことは、丁度結核菌を持っていながら発病していない人、即ち、ツベルクリン陽性の人と同じである。あなたの身体のどこかが病気になっているのであって、別に疫病神が入って病気になったのではなく、自分の身体が病んでいるのだから、嫌わずいたわってあげて下さい。そうすれば丁度駄太っ子をなだめる様なものだから、次第に穏やかになり、その内に、静かになる。でも病気は完全に治った訳ではない。でも日常生活が普通に送れるなら良いと考えて生きて行こう。
  病気にかかったら、先ずいいとか嫌とか感情で反応しないで、冷静に客観的に自分の身体の病気を見つめ、どこがどのように具合が悪く、病気になっているのかを見る。痛い時には「ああ自分の身体の○○が痛がっているなあ」と考えて見よう。それ以上考えを進めてはいけない。そこで止めるのがよい。
  「痛い=いやだ」と反応すればする程痛みが耐えられなくなる。痛みは文化的なものだから、民族や個人によって異なる。楽しい痛みは耐えられる。お産の時の陣痛など、いやなもの、苦しいものと考えなければ、我慢できることも少なくない。また楽しいことを考えている時は痛みを忘れていることもある。だから痛みを受け入れ、いやとか苦しいと反応せず、同化するのが良い。なかなか習練が必要である。ヨーガの行者が針のむしろに座っているのを本で見たことがあるが、やはり痛みを感じるのだが我慢できるし、怪我をしない。
  それから病気にかかった時に決して悪いことを考えてはいけない。悪くなると考えれば、本当に悪くなることが多い。自己暗示によって、病気が悪くなるから、「良くなる、良くなる」と良い方向に自己暗示をかけよう。それによって病気はよくなる。ブルックス・クーエの自己暗示による治療はその一例である。
  例えば心臓病の場合には現実に死に至ることがある為に、どうしてももしかして心臓が止ってしまうのではないかと言う不安が浮ぶと、ますます具合が悪くなる。そして心臓の具合はどうだろうかと神経を心臓に集中させる程、動悸がひどくなったり、脈が不整になったり、息苦しくなったり、心臓の状態も悪くなるものである。
  その時に心臓のことから考えを別のこと出来れば楽しいことに移すと、次第に症状が和らぐことが多い。その時に医者がついていて脈を取ったり、心電図を採ったりして、「大丈夫ですよ、そんなに心配することはありません。」というだけで、病人がその気になって「もう安心だ」と思うと病気は良くなっていく。バリントはそれを「医者くすり」という。医者は側にいるだけで患者は安心し、薬の役割を果たす。
  自律訓練法という一種の自己暗示法があるが、その1つに心臓の動きを自分でコントロールする方法がある。実際に心臓の動きを早くしたり遅くしたりできるのである。その為には神経を集中させ過ぎてもだめで、精神をリラックスさせて、なんとなく心臓の動きをゆっくり整えるように考える。あせるとできない。とにかく心臓の動きや呼吸数、皮膚の熱感など自律神経系による不随意の働きと云われてきたものが、自分のこころの暗示でコントロールできる。ですから悪くなるのではないかと自分に暗示してはいけません。
  昔中学時代の頃から日本の忍者に興味を持ってきた。忍者のいろいろな術のほとんどは幼いころからのトレーニングによって上達する。その中の一つに呼吸を止め、心臓の拍動を止め、脈をとられた時に死んでいると思わせる術があるのだが自律訓練法の極致もそれである。ただ仏教での荒行と同じく、死に到ることもあるという。
  別に心臓病でなくても同じである。どんな病気でも「悪くなったらどうしよう」と考えてはいけない。「ケセラセラ。なるようになる。」と楽観的に考えること。
  顔が赤くなるとか、身体に湿疹ができるのも同じである。またできるのだろうと自分で自己暗示をかけ、わざわざ病気を作っているのです。でもその段階ではなかなか悪循環から抜け出せません。思ってはいけないと思う程、そのことに頭が一杯になってしまい、そのことから頭が離れられなくなってしまうからである。そうしてますます悪くなってしまう。
  気管支喘息やすべてのアレルギー性の病気も、膠原病も、心筋梗塞も脳卒中もがんも皆同じである。
  遺伝子病や染色体異常は母親が妊娠する時に悩んだり、身体の状態が悪いと確率が高くなる。
  皆自分のこころが病気を作っている。いや、社会の不安がそうさせるのである。だから現代では医学が進歩するのと病気が増えるのとでは、病気が増えるスピードが早く、医療費の増加を抑える為に脳死で判定して医療を打ち切ろうとしている。
  しかし本当は今の社会の在り方を変えた方が遥かに早い。それだけで病人は大幅に減るが、今の支配階層には都合が悪くなるので決してそうならないでしょう。
  アレルギー性の病気や肝炎が北欧諸国で少ないのも、民族の差ではなく、社会の仕組みまたは在り方の違いからと考える。
  心療内科の池見酉次郎は、アレルギー疾患の心理的脱監査療法を実施し、9割を治癒に導き、残りも軽症化させている。私も、子どものアレルギー疾患なら治せるし、大人でも軽症化することはできる。その方法は説得療法と暗示療法である。
 
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現代社会とストレス

2021-10-05 17:06:44 | 医療
     現代社会とストレス

字が小さかったので大きくしようとしたら消えてしまいました。再掲します。

  

ハンス・セリエは1936年にストレスの発見をしてから、全身適応症候群ないしはストレス症候群について約11万もの論文が発表され、セリエ自身も30冊の著書と1500余の論文を書いた。 それらをまとめ、1956年初版の「現代社会とストレス」の改訂版を1975年に出した。その要約である。

 ☆現在のところ、ストレスを何かの要求に応ずる身体の特異的反応と定義しておく。
医学上に用いられるストレスの本当の意味は、身体の磨耗の度合いといえる。
 身体の適応反応、つまりストレスにたいする生体の防御反応系が明らかにされた。
このような変化の総体、すなわちストレス症候群は、全身適応症候群G・A・S(General Adaptation Syndrom)とよばれている。そして、これは三段階の変化として観察されている。1、警告反応期 2、抵抗期 3、疲憊期。
 ストレス中の抵抗を保持するためには、神経系と内分泌系が特別に重要な役割を演じる。
この二つの系は、神経性緊張だとか、損傷、感染、害毒などのストレスを産むもの、つまり、ストレッサー(ストレス作因、ストレス刺激)に身体をさらすにもかかわらず、体内の構造や機能を正常にたもとうと務める。このはたらきは、恒常性維持機構(ホメオスタシス)と知られている。(現在は、この二つだけでなく、ほとんどすべての身体の系統が関連して作動していると考えられ、精神身体免疫内分泌学などと呼ぶこともあるほどである。

〇 米国の細菌学者ハンス・ジンサーは、「医学史上の科学的発見というものは、古来経験的に観察され実際に用いられてきた諸々の事実を、単に明確にするとともに合目的性を付与したにすぎない場合が多くみられる。」という。
〇 科学的発見の本質と言われるものは、何かを最初に見ることではなくて、すでに知られているものと今まで未知とされてきたものとの間に固い関係をつくることなのである。

☆ 病気との闘い―――ポノス
 いまから2400年ほど前、ヒポクラテスは、「病気とは、損傷に苦しむ(パトス)ということばかりでなく、闘い(ポノス)―――つまり、身体を自ら正常な状態に復帰させようとつとめる身体内部の闘争である。内部より病気をなおす自然の力、すなわち自然治癒能力が常に存在し、作用しているのである。」と語った。
 現代から250年前に、ジョン・ハンターは「病気とよびえぬ偶発的損傷のもたらす状態というものが存在する。すなわち、そこに生まれた損傷が、あらゆる場合に治療の素因と手段をあたえようとする傾向をもつのである。」と指摘した。
 19世紀の後半の中頃、フランスの生理学者クロード・ベルナールは、「生命あるものの最大の特徴の一つは、外界の変化の如何にかかわらず、生物が自身の内部環境を一定の状態に維持せんとする能力を有することであろう。」と指摘している。 そして、この自己調整能力がうしなわれると、病気や死が訪れるのである。

☆ ホメオスタシス(Homeostasis)―――生体の恒常性維持力
 ハーバード大学の生理学者W・B・キャノンは、この生体が正常な状態で維持される能力をホメオスタシスと名づけ、同一状態、あるいは、静的な状態のままにとどめようとする力を表わしたのである。これは簡単に維持力と解してもいいと思う。
 いまや、病気というものは、単に受け身の、損傷にさいなまれている事実にとどまらず、損傷にもかかわらず身体の各組織が一定の均衡を維持しようとするための闘争をも内に秘めていることが明らかになった。

1  略
☆病気とは何か。
☆ストレスとは何か。
〇ストレスの定義☆第五部 その医療での実践
セリエは、

純然たる身体疾患(身体医学)にストレス概念を応用する場合に、各種の侵襲
つまりストレスに対して、生体(人間)は同じ適応・防衛の仕組みをもって応対するという。
 この分析で、ストレスに対する生体自身の防衛を強化して、病気と闘う方法を教えてくれる。
〇 ストレス中の身体変化は精神状態に作用するし、その逆も成り立つ。
 身辺に生じるトラブルを分析し、我々の防衛と降伏に関する適応方法の役割を認識し、
 ストレスのはたす役目を区別し、毎日の生活におけるストレスに対して、どう対処するか。身を処する上にどう役立つか。
 これは哲学的な意義をもつ。
〇 ストレスは全体のうちのある部分が、自己保存(ホメオスタシス)のために払う苦闘の帰結であるとも言える。老化、個性の発達、自己表現の必要、人間の究極的な目標など、
 これは、人間の個々の細胞、社会の中の個人、全動物界における個々の種においても当てはまる。
 人間相互の関係を支配する情緒(承認の欲求、非難される恐怖、愛情、嫌悪、感謝、復讐など)は、我々がする行動で、他人に感謝の気持ちを起こさせることが、われわれの安全をいちばん適確に保証するようだ。自己防衛の価値をそこなわずに、自然にもっているあらゆる利己主義的な衝動を、せずに、利他主義にふりかえることができる性質はすばらしいことである。
相手に感謝しよう。
〇 到達しうる最高の目標のために闘え、
 しかし、決して無益な抵抗をしてはいけない

これはセリエの助言である。
人の究極の目標は、自分自身の光に従い、できるだけ十分に自己を表現することにある。


☆1  日常生活のストレッサー 
ストレスは、あらゆる要求に応じた身体の非特異的反応である。
 ストレスのメカニズムは、エネルギー消費と同様に、本質的には、人間の善悪の概念とは全く無関係なのである。
 人間にとっての一番重要なストレッサーは情緒的なもの、とくに苦悩をおこすたぐいのものである。
 日常的な生活の中での出来事としては、ストレッサーの影響は、われわれがそれを受け入れるやり方に左右されやすいのである。われわれの行動そのものや偶然起こるものではない。
 人間生活におけるストレッサーと条件づけ因子を区別することは事実上不可能である。
 それ(ストレッサーと条件づけ因子)は、遺伝的因子、身体的(欠陥)因子などの体内的条件付けか、食物成分、大気汚染因子、他人との接触などの体外的条件付けかはわからない。ストレスには、有益なストレスもあるが、健康上の影響がないので、有害ストレスを単にストレスと呼ぶ。
職業
各種ストレスに関する文献からは、(セリエによるもの)
計理士 
重大なお金を扱う仕事をしていると、血清コレステロールが上昇する。このストレス
は、心臓発作を起こしやすい。会計職員
精神を集中して忙しく仕事をすると言うストレスは、疲労、腰痛、腕から肩への痛みを起こす。短時間にできるだけたくさん仕事をする意欲が生じるから、
産業労働者
仕事の満足度は心臓発作の出現頻度を低下させる。また、しごとに満足していると、精神的ストレスの治療的効果もあるという。
仕事のプレッシャーは、トップ管理者および末端労働者に対してともに有害ストレスを悪化させる。
昇進の過度や遅延、使用人の個人的諸問題への管理側の無関心、なども(産業)ストレス。またこれらのストレスは、男子のインポテンツ、女子の不妊を起こしやすい。
高級官僚・重役
管理的責任のストレッサー効果。重役の責任は心身症状を伴う激しいストレスを起こす。
彼の意思決定のストレッサー効果は、主としてその反応様式に左右されるからである。
ある人は生まれつきリーダーになるようにできているし、他の人は生まれつき従う人に適している。頭の良い人の中に、責任度が高くなると、フラストレーションが強くなり過ぎて、仕事が不満になりそうだからと、昇進を拒否する人もいる。
高い地位で適格に仕事をしている人をさらに高めて不適格に達するまで、従業員を昇進させるのが普通のやり方である。(ピーターの原則)
多くの人は、自分から昇進の誘惑に身をゆだねるわけだから、雇用者に対する管理者の責任は、これらの決定を自ら下さなくてはならないことである。
交代勤務員昼夜の変化は光線によっては、余り影響をうけない。
長時間労働は、各種の職業で事故性の心臓発作を起こしやすくなる。ただし、農場主と農業労働者はなぜか例外だという。
消化器潰瘍は交代勤務者に特に多い。夜勤は疲れやすく精神ストレスを生じやすい。
しかし、交代勤務は慣れるにつれてストレスが軽減されること、交代勤務者の一番多い不満は、「社会から締め出される」ことらしいと研究者はいう。
電話オペレーター
いつも油断せずにいるため、各種のストレスを生じる。仕事そのものではなく、労働者がその仕事に反応する様式が問題になる。
医師
心臓発作は一般開業医と麻酔医に多い。皮膚科医と病理検査医に少ない。アメリカでは、研修医がもっともストレスが激しい。困難な手術に直面した外科医もストレスが大きい。
イギリスの医師は、薬物中毒、自殺、精神性の病気に特にかかりやすい。
歯科医
複雑で痛みを伴う処置の際に、患者と医師の双方にストレス性の精神症状が起こりやすい。精神安定剤の使用が予防に役立つ。
看護師
難しい患者を良心的に看護することや、集中治療室の看護がストレスとなる。
法律家
仕事が難しいと、心臓発作が起きやすいという。学んだ法律学校の質と相関が強いと言う。
演説
ある人たちにとっては、聴衆は向けての演説が相当の苦痛の原因となり、身体症状もでる。血清コレステロールが増え、脈拍数が増し、血圧も上がり、それによって心臓血管系の病気も起きやすい。
警察業務
一番強く感じられるストレッサーは、上司からけん責されると言ったようなプロフェッショナリズムの精神を脅かす事態であった。
潜水
水中の構造物撤去作業がストレスが大きいようだ。潜水夫の中には血中コレステロールの上昇がよく現れる人がいる。水圧の増加や、この職業に特有な他のストレサーによる不安作用が冷水中で強くなるという。
軍人
戦闘ストレスの最も重大な影響は、「戦争神経症」である。この発症は、遺伝的素質、戦闘集団内の士気と人間関係を高めるための予備教育および動機づけなどに強く影響される。
胃潰瘍、胃腸障害、心臓血管病などもストレスの帰結である。指令系統の変更は、いつでも、とくにストレスを強く感じやすい。
航空管制官
 多忙な時期に相当のストレスを感じる。とくに夜間飛行および飛行機の発着が混んでいるピーク時に強く起きる。胃潰瘍、高血圧、心臓発作が起きやすい。
自動車運転
 精神集中とくに交通混雑中を高速運転する時、いらいら、身体の位置を同じに保つことから来る身体的不快感、長期間の運転で起きる退屈感、時間通りに目的地に到着するための気疲れなどがストレスになる。さらに、車の構造にもよるが、振動や騒音など。
気候と環境
空気と水の汚染
 化学物質、微生物、騒音など。過密で汚染された区域、都会化された地域、集合キャンプや刑務所。
社会的文化的ストレッサー
これについては、遺伝因子、気候、食物、流行性の病気、過密、隔離、さらに複合して起こりやすい無数の関連因子があり、分離して考えることは難しい。
文化ストレスまたは異文化ストレスがある。人間関係のストレスに極めて敏感な指標は血漿中の脂質である。
文化ストレスの指標は、抗議的自殺、反抗性他殺、泥酔によるけんか、魔法のたぐいである。
〇社会的ストレス
 腎臓病の原因に社会的ストレスが大きな有意性をもって関与している。
過密、群れ集まること
 雑踏状態の典型的な症状は、副腎肥大とその機能亢進、胸腺リンパ系と性腺の萎縮、妊娠率低下、消化性潰瘍、感染しやすいこと、
〇感覚喪失と退屈
 非常に楽な寝床に静かに寝かせると、ストレスから自分を守り切れない。そのような状態では、「外部からの感覚刺激と身体運動を強く欲し、被暗示性がまし、条理ある思考が阻害され、不快感と憂うつ感が生じ、極端な例では幻覚や幻想、錯乱さえ起こってくる。
 生物体は働くようにできあがっているから、閉じ込められたエネルギーの流出ができないと、この「喪失ストレス」への適応は極端な努力が必要になる。
〇移住 病院や老人ホーム、また家から遠く離れた学校などでの長期生活で生ずる適応困難、
孤独
 孤独がアルコール症を増やす。
 孤独は攻撃性になりやすい。胃潰瘍にもなりやすい。孤独の人は、コルチコイドとアドレナリン生産の昼夜リズムが乱される。
大災害
爆撃、地震、洪水、戦争、竜巻、原発事故後など・・がストレッサーで、
不安逃避、驚愕性立ちすくみ、無感動、うつ状態、従順依存性、脅迫神経症などになる。
〇ストレスと条件づけ因子
〇ストレッサーと作用因子の条件づけ効果
食事、気温変化、火傷、音、紫外線、光線、振動、空気爆発と圧搾、重力、電気、磁力、痛みと悲しみ、認識努力、各種のバイオリズム(昼夜、季節、睡眠)、生理的状態(性、年齢、月経周期、妊娠、哺乳)、遺伝、人種、免疫、低酸素症、出血、運動競技を含む筋労作、



ストレスの症状                       ハンス・セリエより
〇危険な徴候
過度のストレスを体験し続けていることを、どのようにしたら知ることができるであろうか。ある程度のストレスは行動のための調子の高揚やその維持のために必要である。
 有益ストレスは、快であり、人生に希望を与えるもの、危なく限度を越える前に自己の耐性を知っておかねばならない
〇自覚症状
1. 通常の刺激感受性、過度興奮性、あるいは抑うつ性。各人の体質に依存する。
2. 心臓拍動の高鳴り、高血圧。
3. のどや口腔内のかわき。
4. 衝動的な行動、情緒不安定。
5. 抑えがたい衝動から、泣き、走り、うずくまる。
6. 集中力減退、思考回避や、通常の方向感覚の消失。
7. 非現実性感情、薄弱、あるいはめまい。
8. 疲労状態を好む、「生きる楽しみ」の喪失。
9. 「浮遊不安」、つまり心配なものが何なのか全くわからないけれど、怖がっていること。
10. 情緒的な緊張と警戒、「興奮亢進」状態の感情。
11. 身震い、神経性チック。
12. 小さな音にすぐびっくりする傾向。
13. 神経性高笑い。
14. どもりや他の言語障害。これはしばしばストレスがきっかけで起こる。
15. 歯ぎしり。
16. 不眠症。常に「興奮が高まった」状態の結果である。
17. 運動機能亢進、理由もないのに動き回る傾向をいう。じっとしていられない状態。
18. 発汗。
19. 高頻度の排尿要求。
20. 下痢、胃のむかつき、嘔吐。胃潰瘍、潰瘍性大腸炎、過敏性腸症候群、胃腸機能異常。
21. 偏頭痛。
22. 月経前緊張状態。月経周期異常。
23. 頸部や腰背部の痛み。
24. 食欲不振や過度の食欲。結果としてのるい痩や肥満。
25. 喫煙増大。
26. トランキライザーやアンフェタミンなどの指定処方薬の使用増加。
27. アルコール中毒や麻薬の常用。
28. 悪夢。
29. 神経症的行動。
30. 精神病。
31. 事故に遭いがちなこと



愛他的利己主義の原理   セリエ
「愛他的利己主義の哲学」は、・・愛と善意と感謝のインスピレーションを介して、達成感と安心感とを創り出すことを支持する。
 基本概念とガイドラインは、(三つの原則は )
1.あなた自身の自然のストレス・レベルを知ること。
 日常生活の危急に合致しており、また将来の安全と幸福を保証する価値があると考える仕事の量と種類に関する、人々の判断は違う。そして、この点に関しては、われわれのすべては、遺伝的素質と社会的期待によって影響を受ける。われわれは計画的に自己分析を行ない、自分が真に望むものをはっきりさせよう。伝統に関する基本的な変化と破壊の危険性に余りにも保守的にふるまうため、自分の生活のすべてに困難を感じている人が多すぎる。
2.愛他的利己主義。
 われわれの隣人の善意、尊敬、尊重、支援および親愛の利己的な蓄積は、われわれの閉じ込められたエネルギーを開放し、楽しく、美しく、さらには役に立つ物事を創りだすための一番有力な方法にとる。
3.汝の隣人の愛を受けよう。
 このモットーは支配的な愛とは異なり、人間の自然な構造に合致している。さらに、それは愛他的利己主義に基づくものの、倫理的に攻撃されないですむだろう。自分に対して他人が豊かな慈悲の心をいだいてくれるために、好ましい幸福感や恒常性が確保できるなら、だれもそれを拒否はしないだろう。しかも、だれでも依存する人達を攻撃したり破滅に追いやったりはしないから、事実上、責め立てられることはない。
 人間は文字どおり社会的生物であるから、あなたを取り巻く過密社会の真っただ中で、独りぼっちになってはいけない。一見信用できそうでなくても、また友人がいなくても、助けてもらえなくても、人々を信用しなさい。隣人から愛されるようになれば、独りぼっちにならずにすむだろう。
 
 これらは、細胞ばかりでなく、人々、さらには社会全体のホメオスタシスを保ち、また生存や安全、福祉のために絶え間なく戦いを続けなくてはならないストレッサーに直面したさいに助けとなる基本メカニズムの観察から導きだされたものである。これらの原則は・・・まだ、・・・いまもなお、進行中である。
 しかしながら、生活の質を改善する価値が純然たる経験的観察によって確立されているテクニックもたくさんある。
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人間的な医療を目指して

2020-04-12 11:41:54 | 医療
人間的な医療を目指して

今思うこと

ヒポクラテスからデュボスまで

 人間的な医療を目指して
             Human medicine
★ヒポクラテス教義
 病気は悪霊や移り気の神が原因になって起こるのではなく、むしろ、自然の法則に従う自然の力で起こるものである。したがって、治療の技術を合理的な基礎の上に発達させることができる。こうした手段には、自然の力の害をなしている効果を正すようにと目指された食事、薬剤、手術の利用がふくまれる。
 人間の福祉は、特定の空気、水、土地およびいろいろの食糧をふくめて、環境の影響のもとにある。環境が人間におよぼす影響を理解することが、医師の技量の根本的な基礎である。
 健康とは、人間の本性のいろいろな成分(すべての人間の活動を制御している四つの体液)、環境、および生活様式との間の調和のとれた平衡のあらわれである。
 こころに起こったことはどんなことでも身体に影響が及び、またその逆も起こる。事実、こころと身体との一方を他から分けて別々に考察することはできない。
 健康とは健康な身体に存在している健康なこころを意味するもので、生体のいろいろの力と環境の力との間のつり合いを保証している自然の法則と合致するように、毎日の生活を統御することによってのみ達成できるものである。
 医療は倫理的職業であり、人間の条件ヘの尊敬の態度を意味するものである。

★医療の科学の責務のーつは、技術的な文明が創り出した新しい脅威が、身体とこころにおよぼす効果を究明することである。(デュボス)
 :環境の刺激および汚れた空気や水に始終さらされていること
 :人類が進化してきた自然の周期から、人間の生体がうとくなってゆくこと
 :人であふれている都会の生活での孤独と情緒的創傷。画一化された生存の単調さと退 屈
 :自動化からおこる強制的な暇つぶし。
 これらが、現在西洋文明に特徴的な医学的な問題の根源となっている影響である。
 身体とこころの不調の大部分は、環境の影響に対する適切でない応答のあらわれである。

☆生体論的で環境的な医学の発展をはぐくむ為に
 ①環境の力による効果の多くがきわめて間接的であり、また遅れて起こる。
  また、殆どすベての器官がまきこまれている一連の反応で、変化され、増幅される。  時間が本質的因子である。→アレルギー反応、悪性腫瘍、精神病等
 ②人間の適応的可能性は広い範囲にわたっていて、いろいろ異なった緊迫した状況に対 しても、何かの形で調整をやりとげることができる。人間の適応性の限界は知られていない。
 ③間接的で遅れて現われる影響が提起する問題には、生体が全体として示す応答が関係 している。都市の工業化された現代社会の生活が創り出した条件が人間におよぼす影響 → 長期間観察しうるもっと複雑な生物学的モデルが必要。
 ④医原性の病気、特に薬剤によってひきおこされたもの。
 ・ある種の毒性のものは―――直接的で単純
 ・しかし大抵の場合には―――毒作用は極めて間接的で、時間がたって現われる。
 ⑤行動の問題
  行動をかえる物質→種々あり
  栄養状態、特にアミノ酸代謝が精神過程に及ぼす影響
  遺伝的に制御されるが、生涯の初期における種々の剥奪によっても左右される。

 この様な形は生体論的で、生態的な取り上げ方を通じて理解され得る。
 そして、こうした研究は色々広い範囲の条件の下で長期に亘って数世代に渡ることさえある位にしておこなわれた場合にだけ、十分な科学的意味を持つ。

☆人間の本性の特徴
自然科学の知識の発達とその人類ヘの一般化が特定の個人に摘要できない理由は、
 ・個々の人間の反応するやり方が極めて個性的であること
 ・人間は常に非合理的な考えに影響されていること
  生物としての、かつ、社会的な過去を振り切れない
 ・心理的な力が環境に対する人間の応答の特徴や強さを決定していることが多い。

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2020年新型コロナウイルスの話(第二報)

2020-02-07 10:41:35 | 医療
第一報の続きです。できれば、これを読んだら、第一報もお読みください。


2020年新型コロナウイルスの話(第2報)
結論から
 やはり騒ぐほどの感染症ではありません。かかってもほとんどの人が治っています。とすると、もっと流行することが考えられます。軽い程流行しやすいのです。
 晴天の日と、曇りの日での違いを他の専門家は考えていません。入港を拒否しても、風に乗って飛んでくるかもしれません。無症状で帰国するかも知れません。だから防げません。
ウイルスのPCR法という検査法は、時間と費用のかかる方法ですから、誰でもインフルエンザの迅速検査のように手軽にできる検査ではありません。それができるようになるのは、大流行が終ってからになると思います。

 2月7日の東京新聞の報道では、死亡率が武漢市で突出しているとしています。
中国全体の感染者は、28,018人で死者563人、致死率2.0%。湖北省では感染者19,665人、死者549人、致死率2.8%。武漢市の感染者は、10,117人で死者414人、致死率4.1%。武漢市のある湖北省を除く中国では3460人で、死者2人、0.05%です。なぜか湖北省特に武漢市の致死率が高いのです。
 2月6日の日本人感染者45人のうち、無症状4人、回復退院10人、安定6人、治療中4人、他不明。
 インフルエンザの致死率は0.1%以下です。
 SARSウイルス9.6%。MERSウイルス35%でした。2003年のサーズ(重症急性呼吸器症候群)は世界で約8000人が発病し、774人が死亡(致死率約10%)して終息しました。これも新型コロナウイルスでした。
2月5日の中国当局発表では感染者数は2万4千人、死者490人に。香港大研究チームは4万4千人が感染と予測。四、五月頃がピークで六月頃から減少すると見ています。
医学誌「ランセット」も流行は五、六月まで続くと言います。
 2009年のメキシコ発の新型インフルエンザも騒がれましたが、従来型より少し強い程度でした。今回もその時と同じように、在来型コロナウイルスより少し強い程度で、死亡率も低く、そのため感染力は高く、航空機時代には従来の検疫体制では防げないのです。
私の予測では日本にも広がり、大都市ではインフルエンザ並みになり、終息すると思います。オリンピックまで続くかは判りません。サーズは流行が始まってから、終息するまでに8カ月かかっています。予測が外れると良いのですが。

在来型のコロナウイルスは、
 通常のコロナウイルスは、至る所に存在し、絶え間なく感染するウイルスなので、ありふれた風邪のウイルスで、すべての成人と5歳以上の子どものほとんどが感染したことがあると言います。通常はかぜの5~10%を占めています。主に下気道に感染して時々重症化し、まれに肺炎を起こします。主に5歳以上で明らかな症状を示します。大きさは0.1~0.15ミクロンで、ほとんどのマスクを通過してしまいます。

今回の新型コロナウイルスは、中国当局の発表では、
① 感染者が全員発病する訳ではないこと。
② 若い人の発病は少なく15歳以上がほとんどで、患者の72%は40歳以上です。
③ 40%は糖尿病、高血圧、心血管疾患などの持病がある弱者であること。
④ 潜伏期間は1~10日くらい。その後「10日前後だが、最も短くて一日、長くて14
日」と発表しています。また潜伏期間中も感染する、(在来型より)毒性が強まっている、重症率は25%、初期には肺炎像を示さないなど、とも発表しています。 
 WHOの1月27日の発表では、中国以外の患者の年齢は2歳から74歳までです。しかも若年層特に子どもの感染者は少なく、症状が軽いのです。サーズの時も子どもにはほとんど感染せず、感染しても軽症でした。医学誌「ランセット」でも患者のほとんどが15歳以上でした。香港大学医学院でウイルスを発見された一族は、まず60代の夫婦が発病して入院し、その娘の義母も入院、30代の娘夫婦は発病し、孫二人は発症せず、一人は検査陽性でもう一人は検査陰性でした。
 第一報にも載せたように、軽くかかって発病せずに検査陽性の人もいるために、感染力は高く、大流行しやすいのです。それを防ぐことは困難です。いずれ日本全体に広がると思います。そして世界に常在していきます。それが感染症の歴史です。

症状は、発熱98%、咳76%(痰がからまない咳、から咳)、筋肉痛または疲労44%です。下痢はまれです。サーズでも1割程度しか下痢はありませんでした。ほとんどがかぜか軽いインフルエンザの症状です。肺炎もすべてに見つかっている訳ではありません。無症状で検査陽性の人も次々と見つかっています。感染しても発病しない人もいます。

重症になるのは
 ほとんどが高齢者です。これもインフルエンザと同じです。2月7日には全世界で565人が死亡しています。その年齢は公表されていませんが、1月22日までの死亡者17人の平均年齢は73.3歳で、60歳未満は二人でした。死者のほとんどが重い心臓病、慢性腎不全、パーキンソン病、糖尿病などを持っていました。
 多くの医師は人間と病気との関係を、人間の側は同じとみて、ウイルスの病原性が高いか低いかと言いますが、ルネ・デュボスは結核の重症者と軽症者の結核菌を調べて、どうしても違いが見つけられず、その結果病気の重症度は人間の抵抗力つまり免疫の働きが落ちているかいないかによると結論したのです。
 人間では、乳児期とその次の1年間は重症化しますが、3歳過ぎから小中学生の時代がもっとも病気が少なく、かかっても軽いことが多く、逆に言えば自然免疫が活発な時代です。 
だから今回も子どもでは発病が少なく、かかっても軽く済んでいるのだと思います。それで72%が40歳以上です。しかも40%は高血圧、糖尿病、心血管疾患などの持病のある人です。日本でも、年収400万円を超えない貧困層が増えていますから、社会的経済的弱者も病気による弱者と共にかかりやすいと思います。
予防するには
 かぜが予防できないように、適切な予防法はありません。
 まず睡眠時間を十分とること。睡眠はこころと体の健康に大きく寄与しています。あとは疲労をためないこと。自分の健康管理に気を付けている人はかかりにくいのです。今までにめったにインフルエンザにかからない人はかからないか、かかっても軽く済みます。
 マスクも手洗いもうがいも、それ程有効ではありません。
ヒトゲノム計画で判ったことは、日本人は97%が神経質になりやすい遺伝子回路を持
っていて、白人は67%だったと言います。それでマスクをするのは日本人だけと思ったら、
中国人もマスクをするので、中国人も日本人と同じく神経質な遺伝子を持っているのだなと
思いました。

 感染経路は、飛沫感染と接触感染と言います。
飛沫感染は、インフルエンザで考えると、晴れた日では直射日光に弱く1メートル離れれば感染しないのですが、今回は晴天でなくても2メートル離れると感染しないと言います。しかし、インフルエンザの場合には、過去に曇りの日には1キロ離れた沖合の船に感染した記録があります。インフルエンザが流行した時には、学校の教室などの中はウイルスが充満していると考えられていますが、かからない子の方が多いのです。コロナウイルスも同じではないでしょうか。結核は30分以上同室に一緒にいないと感染しないし、麻疹はほんの数分でも感染するようです。

接触感染は、手の皮膚から感染するのではなく、手に付いて、その手で物を食べる時に口から感染するのです。皮膚から感染するのではありません。食べる時に手洗いをすれば防げます。しかし、子どもは手を口に入れたりするし、世界の人口の三分の一は手で食べ物を直接食べます。手洗いは、飲食する時にすればよいです。
 健康な皮膚には、通常1平方cmの中に約10万の微生物が住んでいて、外来の生物の侵入を防いでくれますし、皮膚の垢は皮膚の角質細胞がその中に微生物を含んで脱落していく防衛反応の一つなのです。傷や湿疹、皮膚炎がない限り手の皮膚から直接侵入することはできません。
 鼻や口の中、咽頭喉頭にも常在菌やウイルス、カビなどが棲んでいます。それが通常は、外来微生物を追い払ってくれます。なぜか人間が抵抗力を落とすと、その働きが低下して感染しやすくなります。
 詳細は、私のブログの「免疫」の項目の、最後にある「生体防御」、「自然免疫」などを見て頂ければ詳しく書いてあります。
 人間は自然体で生活していれば、もっと免疫が活性化して、病気になることも少ないのです。でも新しい感染症は少なくない犠牲者を出して、人間と適応関係を結び、人間社会に定着していき、消えて行きます。結核、天然痘、発疹チフス、ペストなどが歴史を作ってきました。そんなことは歴史学では教えてくれませんでした。
 
新型感染症はなぜ出てくるのか。
 なぜこんなことが起きるのかというと、自然界では、ヒトも動物も、細菌もウイルスも日々進化し、変異を繰り返しているからです。生物はいつも絶えず変化し、進化しているからです。人間も生きるためにいろいろと科学文明を使って進化していますが、他の生き物たちもすべて生き残りをかけて進化しているのです。
 デュボスの考えは、古い感染症は消えて行き、新しい感染症が出てくるのが歴史の流れであると言います。

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中国の新型コロナウイルスによる肺炎について(第一報)

2020-01-28 07:57:24 | 医療
中国の新型コロナウイルスによる肺炎について(第一報)
結論から
 そんなに騒ぐほどの感染症ではありません。せいぜい、2009年の新型インフルエンザ程度でしょう。時間的には予測できませんが、その程度には世界中に広がると思います。
 大都市では、人口の10~15%程度は感染するかも知れません。
 2009年のメキシコ発の新型インフルエンザが、WHOの専門家会議で、判断を誤り二段階も流行レベルを上げてしまった裏に、レベルアップを提唱した二人の委員の製薬企業との利益相反があったのです。
WHOの専門家会議が今回は慎重なのは、それを踏まえてのことだと思います。
感染力は強いですが、重症度は低いようです。同じコロナウイルスによるものでも、サーズ(重症急性呼吸器症候群)よりも重症度が軽く、かかった人が歩き回り、感染が広がりやすいのではないでしょうか。指定しても感染の広がりを抑えることはできないと思います。

中国発の新型コロナウイルスによる肺炎という病気はどうでしょうか。
 感染者は全員発症する訳ではないこと。
 特に若い人の発病は少なく、患者の72%は40歳以上であること。
 40%は糖尿病、高血圧、心血管疾患などの持病がある弱者であること。
 ウイルスが見つかったのが、香港大病院の患者で60代の夫婦と30代の夫婦、孫二人のグループからで、孫の一人は発病しませんでしたし、もう一人の孫はウイルスの検出もされなかったと言います。
 症状は、発熱、咳、下痢だと言います。しかもインフルエンザのような経過を取らないようです。まだ病状や経過の特徴は、確立はされていません。
 中国当局の発表では、「潜伏期間は1~10日くらい。潜伏期間中も感染する。毒性が強まっている。重症率は25%」です。肺炎と言うが初期には肺炎のX線映像はないようです。
 これらを検証しましょう。私の理論はルネ・デュボスの適応説によるものです。(後述)
 また武漢市は人口1,100万人ですから、湖北省で729人発病、死者39人と発表されていますが、一部では5千人から2万人以上発病しているのではないかとも言います。
 1月27日の発表では、中国国内で発病者2066人、死者56人、重症者324人と発表されました。
 でも東京都だけで毎年新規に結核発病者が2千人くらい出ていますから、それほど多いと思われません。

もう一度2009年のメキシコ発の新型インフルエンザを検証してみましょう。
 あの時に大阪の中高一貫校が最初に集団感染しました。その学校の全生徒教職員647人の血液検査をしたら、その結果102人(16%)の人しか抗体が検出されなかったのです。しかも、典型的な症状が出たのはその中の44人(45%)で、軽症36人(37%)、無症状18人(19%)でした。無症状だった人は不顕性感染と言い、血液中に入ったので抗体ができたのですが、その段階でウイルスに勝ったのです(ワクチンと同じ経過です)。
抗体が出なかった人は、侵入経路の鼻や咽頭の粘膜細胞で闘って勝ったので、血液中に入らず、抗体ができなかったのです。それが細胞免疫です。
 細胞免疫の測定はいまだにできず、唯一ツベルクリン反応だけなので、抗体があるかどうかで判定しています。だから抗体が無くても感染しない人もいるはずですが、証明ができません。ポリオ生ワクチンは、腸管粘膜の細胞免疫をつけるので非常に効果が高いのです。
 今インフルエンザ生ワクチンをのどや鼻の粘膜へスプレー噴霧して細胞免疫をつける試験がなされていますが、インフルエンザは変異が早いので難しいようです。
 厚生労働省もインフルエンザの毎年の通常の流行では人口の10%が感染し、大流行時は25%が感染すると予測しています。それで見込み違いをしたのです。新型インフルエンザを大流行と予測したのですが、従来型より少し多いだけだったのです。
 メキシコから始まった新型インフルエンザが、今冬流行しているA型インフルエンザの主力です。もう日本に居ついています。だから新型とは言わず、従来型と呼ばれています。
麻疹と風疹が国内で騒がれていますが、ちなみに過去のデータを見ると(今はワクチンをしてしまうのでデータはない)、兄弟への感染率は、麻疹99%、風疹90%、水痘80%、おたふくかぜ67%とありました。

さて「新型コロナウイルスによる肺炎」を検証すると、
 潜伏期間は、その人の抵抗力の違いです。1日~10日前後です。
 潜伏期間中も感染するというのは、軽く発症していたのに本人が自覚していなかったのではないでしょうか。よくあることです。
  例えば、麻疹は最初軽い風邪ようの症状と発熱が軽度あり、発疹と共に高熱が出るようです。発疹とその頃に出るコプリック斑で診断がつきます。
 百日咳も、3~5日の風邪のような軽い症状で始まり、ある晩突然ひどい咳こみが始まります。私の経験でも、黄疸やギランバレー症候群で入院させたら、肺に影があり、マイコプラズマ肺炎だったことがあります。つまり、その始まりの時期には感染しますから。
 肺炎がないからと、否定できません。マイコプラズマ肺炎でもある日突然肺炎のX線の映像が出ます。前日には出ません。これはアメリカの小児放射線診断医のグループでの研究で明らかになっています。
毒性が強まっている。これは人とウイルスの力関係ですから、持病などのある人は重症化し、健康な人は軽症ですむということです。インフルエンザと同じパターンです。
 それが重症化率です。
 人から人へ感染すると毒性が強まると言うのは思い違いです。デュボス説では、重症になるタイプのウイルスに感染すると、その人は寝たきりか亡くなり、他の人に感染しません。
 軽くすんだ人が他の人に感染させるのです。感染力は高くなりますが、軽症化します。
重症になるのは、持病のある人たちです。

 またマスク、手洗いは、日本の真似です。2009年のメキシコでは、誰もマスクもうがいも手洗いもしていませんでした。これはアメリカのやり方です。
 昔中国に行った時には、中国の医師たちは日本よりアメリカの医学を見ていましたが、今は違ってきたようです。欧米諸国では、マスク、手洗い、うがいはしません。汚れた時だけするくらいです。厚生労働省もやっと認めて、「エチケット・マスク」と言って咳の出る時に他人に濃厚にうつさないようにマスクをしましょうと変わってきたはずですが。マスクの予防効果はほとんどありません。見かけだけです。防毒マスクなら確実に予防できます。

かからないようにするためには。
 まず、今までに何年もインフルエンザにかからなかった人は、今まで通りで良いです。
そうでない人は、睡眠時間を十分とり、過重労働を避けることです。体とこころの疲れを避けること。神経質になりすぎても行けません。一種の自己暗示行為になります。それは今の社会、特に安倍政権では無理でしょうね。
 ペストの時にできたのが、千夜一夜物語だったと思いますが。流行したら不要な外出を控え、家でのんびり「はやり病い」を忘れて過ごしましょう。
かかってしまったらどうするか。
 病院にかかる条件は、呼吸状態が悪くなった時です。
解熱剤を使うことは、絶対にしてはいけないこと。免疫を低下させます。総合感冒薬も解熱剤入りです。内科医は対症療法と称して解熱剤を出します。小児科でも出す医者がいます。
症状は体の防衛反応ですから、症状を取ってはいけません。つらければ、高熱には頭を冷やしたりしてもよいし、子どもはあなたの肌で冷やしてください。以前は、欧米ではぬるま湯に入れて下げましたが、今はしません。下げない方が良いからです。解熱剤が氾濫しているのは、先進国の中で日本だけです。製薬企業がメディアを支配しているからでしょう。

 次に、熱が出てすぐにはレントゲンを撮っても肺炎の影は出ないことが多いようです。熱が出ても、一日か二日は様子を見ましょう。でも呼吸状態が悪ければ、いつでも病院へ行きましょう。今のところウイルスに効く薬はありません。間違って解熱剤をもらっても、飲まないように。解熱剤が免疫を低下させることを知らない医師が多いですから。
 日本の先端医療は進んでいても、一般の医療は世界の標準以下です。
 かかったと思ったら、家で休んでください。診断書をもらいに医者にかかることも、周りに感染させてしまいます。心配なら受け入れ病院へ電話して指示を仰いで下さい。
 今日、1月28日に「指定感染症」に閣議決定されたら、診断されたら行動制限されます。問題はどうしたら診断できるのでしょうか。特有な症状はないし、肺炎が判るのは時間がかかるし、診断基準はないし、治療法もありませんから。

 
私の理論、病原環境説または適応説は
 1971年の国連人間環境会議のアドバイザー委員会共同代表で、報告書の序文を書いたルネ・デュボスの適応説から学んでいます。それは遠くヒポクラテス学派から始まり、中世の暗黒時代はイスラム医学へ受け継がれ、近代医学へ回帰し、ドイツの病理学者ウイルヒョウたちが受け継ぎ、フランス系アメリカ人のシゲリストとデュボス夫妻に受け継がれてきたのです。しかし、この理論は基礎医学者と精神科医たちにしか支持されず、アメリカの臨床の感染症学者たちとは違います。日本にも十数冊もの翻訳書が出版されていますし、結核の名著「白い疫病」も出されていますが、その理論は受け継がれていません。私はそれを臨床に応用して、成果を得ています。

 感染症の歴史や、耐性菌はどうして出てくるか、人間の歴史は感染症の歴史でもあることや、古い感染症は次第に消えて行き、また新しい感染症が出てくるのが歴史の必然であること、常に人間は犠牲を払いながらそれを乗り越えてきたことなどです。それらをデュボスは明確に説明していますし、私は臨床の場でそれを確かめています。
 新しい感染症が出てくるのは、歴史の必然です。

ヒトゲノム計画で、人のゲノムが明らかになったら、人のゲノムには人間の病気の歴史が書き込まれていたのです。デュボスの理論が証明されたのです。私は日本脳炎のゲノムの一部が今の若い日本人たちのゲノムに取り込まれていると予測し、それを証明してくれる遺伝子研究者を待っています。だから日本脳炎のウイルスがいるのに、発病する人が出なくなったのです。確かここ2年は0だったと思います。出てもほとんどが高齢者でした。いずれ現存の感染症もそうなると思います。
私の同期、41青医連の仲間だった京大の利根川進さんが、人間は一億の抗体を作る能力を持っていることを証明してくれました。
抗体を作る時間が潜伏期間で、症状はウイルスと人間の免疫システムが闘って生じる人間の防衛反応の結果と考えています。麻疹の発疹ができるのは、抗原(ウイルス)抗体反応の結果だと言うことも判っています。
 この10年の遺伝子学の進歩の話が、日本の科学ジャーナリズムの少ないことから、一般に知られていませんが、遺伝子も環境によって変化するし、遺伝子の発現も環境に応じて発現が変わってくるのです。そうして人間は、感染症に適応関係を作り、最後は平和共存していくのです。ヨーロッパを折檻したペストもそうして消えて行きました。総人口の四分の一を失って。

 公衆衛生学者のシゲリストは、「医学は社会が病気と闘う武器の一つに過ぎない」と言い、「医学は社会科学である」と言っていました。東大闘争時の東大医学部長だった白木博次さんも「医学は社会科学である」と言っていました。
今の検疫制度はペストの時にできたといいます。しかし、航海時代のもので現代の航空機時代には、全く用をなしません。
 しかも昔、インフルエンザが流行した時に、パナマの港から1km以上離れていた沖に停泊していた船上で感染者が出たと言い、晴れた日には1m離れれば感染しないのですが、曇っていると風に乗って飛んでいくようです。
 もし新型コロナウイルスが呼吸器感染であれば、その可能性もあるのではないでしょうか。
 
これらの話は、臨床医は知らないと思います。科学史の中で知られているに過ぎません。
私は中山茂神奈川大教授の研究会に2年間在籍していて学びました。
 私は、川崎市衛生研究所の岡部信彦氏とは、はとこです。若い時は一緒に造反したのですが、彼が慈恵医大第三病院で助教授になってから、別れました。私はデュボスに傾き、彼は国際的な感染症理論を取ったのです。ヒポクラテスの環境説は、歴史的にはいつも反主流派です。「ヒポクラテスの誓い」だけは有名ですが、環境説は知られていません。
 
 
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ヒポクラテスの復権

2018-01-02 16:53:40 | 医療
現代医学にヒポクラテスの医学医療を復権させよう

  ヒポクラテスの復権
1) ヒポクラテス
ヒポクラテスは、ギリシャ医学の中のコス派に属していた。
 コス派は「助力せよ、せめて損なうな」という立場であった。残されているヒポクラテス全集は、ヒポクラテスだけでなく、複数のコス派医師の手による物と言われる(川喜田)
 ヒポクラテスは、(病名より)予後の判定を重んじた。
 二元論を斥け、すべて統一的な自然の中で考えようとする。
 (病名の判定ではなく)「病人の現症を正確に把握する」ことが診断であった。
 病気を既往から現状を経て、明日へと進む生物学的プロセス(過程)と解する。
 個別(患者)の重視
 臨床医の仕事は、技術あるいは手仕事であった。
 対象が、人である。生物としてのヒト、であると同時に、「悩み」の中にある人である。
 「病人」であること。(人の悩みは、悩んでいる限りは、皆同じである―誰かの言葉であったが思い出せない。)
 ヒポクラテスの「神聖病」つまり精神病は「他のいろいろな病気と同じ性質をもち、おのおのそのよっておこる牽引を持っている」として、身体病と精神病を分けなかった。
 「ヒポクラテスの誓い」は典礼的な意味をもち、コス派のものではなく、前4世紀以後の後期ピュタゴラス派によるものとの説が有力(川喜田)という。
 コス派は、病人を全身的に眺め、諸機能のつりあいを重んじ、環境(気候、気象、風土、季節、食物などの自然環境)に注意を怠らない。

 この考えは、600年を経て、ガレノス(四体液説と治療の方法を除く)へと受け継がれる。ギリシャ医学はアレキサンドリアからローマに浸透し、ガレノスに到り、その後の中世の暗黒時代になる。ガレノスの後千年にわたる。ヒポクラテス主義は、ローマの滅亡と共にビザンチウム(コンスタンチノポリス)を経て、アラビア医学から西方ラテン世界へとつながる。一部南イタリアに残り、サレルノ医学校(11世紀)で研究される。
 17世紀の開業医シデナムは、ヒポクラテスの病者の記録を継ぎ、諸病の経過の正確な記録と病気を除く方法の工夫を経験に求めた。病気の自然誌を考えた。病気を診ずに病人を診た。病気を正常からの「ずれ」とし、害われた人体のはたらきないし状態とみる。病気を他者でなく人体にあるとするギリシャ以来の見方であった。
 しかし、ヒポクラテスのもつもうひとつの環境を重視する見方は、抜けていった。
人間的な医学医療を求める考えや養生法や暮らし方、患者に害を与えない治療法は受け継がれていったが、環境説は消えていった。
 ローマ時代には、健康には、個人の衛生と公共の健康の二つに区別され、上下水道、公共浴場が発達したが、ローマ帝国の崩壊と共に退潮した。
 その後、ペストの防疫、職業病(パラケルスス、ラマッツィニ)の発見から衛生学へと発展し、環境、外因の病理に目が向けられていった。
 ラマッツィニ「労働者たちの健康を守り、社会の福祉をはかることが医学者の義務であると考える」1700
18世紀後半のフランク「病気の成因としての大衆の貧困」(1790)の講演と「人民の健康の保全が国の責任である」との見解をとった。ほそぼそと、環境論は再興されていったが、本格的には、ヴィルヒョウの時代まで待たねばならない。

2) ヒポクラテスの復権
ヒポクラテス著作集は、デュボス、ジルボーグ、川喜田らによると、ヒポクラテスが主ではあるが、ヒポクラテス以後の時代のいろいろな時期にヒポクラテスの所属したコス派を中心に、いろいろな学派の医師の手で作られたものの集大成であるという。しかし、現代医学の基本的礎をなしているという。
 ヒポクラテスは「人間というものをバラバラの単位の集合物としてではなく、一つの全体として考え、・・・ともかく多少とも一元的な人間の体系を築き上げようとする一つの努力であった。」(ジルボーグ「医学的心理学史」)
 しかしプラトンは精神と物質の二元論をとり、ヒポクラテスから一歩後退し、後世の二元論に道を開いたのである。
 そしてその後の医学は二元論が支配的であり、心身医学が登場し、心療内科という言葉が一般化した現在でも、今なおそうである。身体医学はこころを診ず、精神医学や心理学は身体を診ないのが大勢である。
 
 セリエが1936年「全身適応症候群」を発表し、1943年シゲリストが「医学は社会科学である」と唱え、1965年デュボスが「人間と適応」を出版し、ヒポクラテスの復権を唱えた。そしてその後、基礎医学者や精神科医にデュボスの提唱に賛同し、病原環境論または適応説をとる医師が出て、精神科では精神神経免疫学や、心身医学(心療内科)が登場し、さらに精神神経免疫内分泌学に到るまでになった。だが私は、まだまだ不十分であると思う。1948年の世界保健機構(WHO)の憲章の前文に「健康とは、身体的、精神的、社会的に完全に満足できる状態で、単に、病気や虚弱が存在しないということではない」としている。
  ヒポクラテスは『病気を外から人に臨む「実体」としてでなく、「病んだ人」として眺める』、『病気を人の状態として把握する。』、『それ(病気)を招くものは、主に気候の変化、不適正な食事、その他外界の激変であるとされる。従って、まずその原因を除くことこそ治病の要諦でなければならない。・・・病気はそこに回復に向かうだろう。医者の任務は人体に備わったその自然治癒の働きを助長することでなければならない。』という。(ヒポクラテス「古い医術について」岩波文庫)
  ヒポクラテスは人間をこころと身体に分離せず、更には身体を細かく諸臓器に分解せず、「病める人」としてとらえた。それと同時に「空気、水、場所、気候、その他外界の激変」を病気を招くものとして捉えている。ヒポクラテスの時代と現代とでは環境も病気の種類も大きく変化してきているが、人間そのものが変化していないのであれば、基本的には現代でもあてはまると思う。人間の肉体的身体は、ここ二千五百年以上ほとんど変化していないと考えられている。(ルネ・デュボス)変わっているのは人間の住む環境である。環境には、自然環境と社会環境、そしてそれによって生ずる情緒的環境(精神的、心理的環境とでも言えましょうか)がある。環境の変化によって、生じる病気も変化しているのである。人間は環境に適応して進化して登場したが、環境に適応できない時に病気になるのである。
 デュボスの要約によれば、
 「病気は悪霊や移り気の神が原因となって起こるのではなく、むしろ自然の法則にしたがう自然の力で起こるものである。したがって、治療の技術を合理的な基礎の上に発達させることができる。こうした手段には、自然の力の害をなしている効果を正すようにと目指された食事、薬剤、手術の利用がふくまれる。
 人間の福祉は、特定の空気、水、土地およびいろいろの食糧をふくめて、環境の影響のもとにある。環境が人間におよぼす影響を理解することが、医師の技量の根本的な基礎である。
 健康とは、人間の本性のいろいろな成分(すべての人間の活動を制御している四つの体液)、環境、および生活様式との間の調和のとれた平衡のあらわれである。
 こころに起こったことはどんなことでも身体に影響が及び、またその逆も起こる。事実、こころと身体との一方を他から分けて別々に考察することはできない。
 健康とは健康な身体に存在している健康なこころを意味するもので、生体のいろいろの力と環境の力との間のつり合いを保証している自然の法則と合致するように、毎日の生活を統御することによってのみ達成できるものである。
 医療は倫理的職業であり、人間の条件への尊敬の態度を意味するものである。」
 さらに「医学的心理学史」のジルボーグは言う。
「ヒポクラテスは、身体病と精神病を分けなかった。」「彼(ヒポクラテス)においては、解剖学、生理学、心理学の三つが同盟を結んでいるように推論されるが、・・・」
「プラトンは、一歩後退して『精神と物質の二つの原理があるが、・・・・』という心身二元論をとり、アリストテレスも二元論をとっている。」「ヒポクラテス主義はすでに、精神医学において実を結んでいた。」
川喜田はヒポクラテスについて、「二元論を彼は斥け、すべてを統一的な自然の中で考えようとする。」彼は病気を外から人に臨む「実体」としてではなく、「病んだ人」として眺める。言いかえればそれ(病気)を人の状態として把握する。「助力せよ、せめて損なうな」
と言っているという。
ここから導き出されるのが、心身一元論であり、病原環境説なのである。
 病気は自分の中に生ずるものなのである。外から入って来たものではない。入って来たものはウィルスや細菌や異物であるが、その結果起きる病気はウィルスや細菌に対して闘っている自分の身体の変化なのである。死体にうじがむらがっても、死体はなすがままになり、反応しない。生体であるから、防御反応をし、それが病気なのである。細菌は死体でも生きているが、死体が細菌の栄養にならなくなると死んでしまう。ウイルスは、細胞の中でしか繁殖しないから、細胞の死と共にそこで繁殖できず、細胞内で死んでしまう。細菌やウイルスは、人間が生きているから、それに対する反応として病気になる。つまり、病気は自分の体の変化なのである。
  精神的・心理的病気も、自分のこころの持ち方から生じる自分の身体の変化である。
 成人病も膠原病もがんも、すべてこれ(病原環境論または適応説)で説明できる。悩んでいた説明がつかなかった先天性、遺伝性の病気も、ゲノムの解析と遺伝子学の進歩によって、説明できるようになった。そのことは、別の項で話すことにする。
 2)人間とは
  私は、「人間はこころと身体を持つ社会的存在である」としてとらえ、その人間がかかる病気として病気をとらえる。
 「人間とは考える芦である」という古典的時代ではもうないが、でもまだこころというものが見えない為に多くの人々や医者に誤解がある。
 人間にはこころがあり、物事を考え、記憶していく能力があるが、こころは大脳の活動から生じるのであり、しかも人間の社会で育てられなければ人間のこころをもつことができないのである。他の動物たち(有袋類を除く)のように、生まれたらすぐ、自力で立ち上がったり、母親にしがみついたりすることはできない。有袋類ですら、自力で母親の袋の中に入る。人は、一年早く生まれたという説(ボルトマンの「子宮外早生の一年」という概念――三浦雅士「身体の零度」より)も、「なぜか、どのように進化してそうなったのかと」いう疑問と共に、彼の言う「人間の最も重要な特徴――立つこと、話すこと、考えることという三主徴――が社会的環境との接触によってはじめて形成されていく・・・」ことも検討に値するだろう。
  人間はロビンソン・クルーソーのようにたった一人では生きていけない。つまり、人間はその生命活動を社会的に営む社会的生物である。人間が社会を造り出したが、社会が出来てしまうと社会が一人一人の人間を拘束し、影響を及ぼす。病気はその社会によって大きく左右され、社会は自然環境によって左右され、また人は自然環境や社会環境を変えていく。社会は文明を持ち、社会としての活動がある。
  疎外、管理社会、戦争と平和、不況と好況 。
  今までによく現代医療に対して病気しか見ず、病人を見ないとの批判があった。既にアメリカではがんなどの病気で入院すると多くの各科専門医たちのほかに、精神科医師や心理療法士、病院付きの牧師まで来て、病人が病気を治す為のこころの面での援助をしてくれる。スポーツをすることで気持ちをまぎらわせようと思えば、スポーツの指導員も来てくれる。乳がんで死んだ池田敦子さんの言うように日本に比べたら格段の差がある。
  現代アメリカの医療の中身は日本よりはずっとましなのだが、私の考えている「新たなる医療」と比べると、こころの持ち方の方向が違うし、社会的視野が欠けている。それに医療を受けられる人が限られているのが問題である。(問題なのは、アメリカ医療は金のある人だけの為にあることだが、それは医療の問題ではなく、医療制度の問題であるのでここでは省略する。しかし、現在の状況では、日本もアメリカ化しつつある。)
  さて人間と動物の違いは大脳皮質、特に新皮質系にある。「動物のなかで新皮質系がもっとも発達しているのは、人間であるし、人間の進化の過程をみても、脳の容積の増大とともに、新皮質系、とくに前頭葉の発達が著しい。人間を社会的動物であらしめ、・・るのはまさにこの新皮質系の作用である。」(田中正敏「ストレスの科学と健康」より)つまり人間の特徴は社会性にある。このように大脳の発達から見ても人間は社会的動物であることが分かる。
  「野生児の記録」(R.M.ジング)によれば、狼や熊に育てられた野生児の世界の結論として「人間は生まれてから幼児期または6~7才頃迄に人間社会から断絶されると、人間としての生活が営めなくなる。特に幼少期に隔絶されると四つ足で走る方が速くなる。(二本足で歩けない)言葉も習得できなくなる。人間は、人間社会の中でしか、人間らしく生きられないのだ。人間世界をいろいろな理由で離れた野生児たちは戻されてももう普通の人々と同じような生活には決して戻れないのである。生まれてから人間世界(社会)の中で育てられることが、人間らしさを得るただ一つの手段なのである。」という。人間は常に「社会的に」人間なのである。
 狼に育てられた人間はその後言葉を覚えても、記憶に残り話すことが出来ることは言葉を覚えてからのことだけである。言葉を覚える以前のことは決して言葉として語ることはできないのである。人間は生まれながらにして人間ではなく、「人間として」生まれ、かつ「人間として」育てられることが人間になるために必要なのである。
  さらに言えば、民族や人種の違いは生まれつきではなく、生まれ育った自然や社会の環境や文化によって違って来ている。よく雪国の子はすぐあきらめてしまい、南国の子はあきらめずに頑張ると、高校野球で言われるが、雪という自然がそこに住む人々のこころを大きく左右するのは不思議ではないと思う。最近は、南国の指導者が来て北国の高校野球も変わりましたが。
  このように私は以前から人種や民族による差は少なく、むしろ生まれ育った環境によって変わるのではないか考えていたが、それを証明してくれた人がいた。
  「DNAは生物の体の中で、不変なものではなく、つねに変化し動きまわるダイナミックな存在である。DNAが変化する形で、遺伝子が細胞の中で変化する。」ということを証明した利根川進博士の業績は、「環境によって人間の身体やこころが変わり、それが遺伝子によって伝えられる。」という環境を重視する私の考えを裏付けてくれたのである。
 そしてアメリカ人は多民族国家ですが、どの民族でも二代三代と経つ内に考え方も、かかる病気もアメリカ化されてしまう。日本人も、一世、二世、三世と次第にアメリカ人共通の病気になるようになっていく。日本では民族差を強調する人が少なくないが、アメリカに住んでいる人々を見ると皆アメリカ人であって出身の民族の差は少なく、むしろ宗教とか国とかその人の住む社会の違いの方が大きい。アメリカに住むユタ州中心のモルモン教やニューヨーク州に住むクウェーカー教徒、アーミッシュの人々、それに日本にも多いセブンズデイ・アドべンチストたちは、アメリカ人の中で極めてかけ離れて、成人病が少ないと言う。
  人間はこうしてこころと身体を持つ社会的存在であり、そのどれも切り離すことができない。人間はその身体があるからこころを持ち、そして社会的に存在するから人間でいられる。そして人間社会の中で育てられて人間になる。
  そうした意味で人間を「こころと身体と社会的存在」の総体としてとらえ、その人間がなる病気について見ていきたいと思う。
  WHO憲章の健康の定義にも「肉体的、精神的、社会的に良好な状態であって、単に疾病や虚弱のないことではない。」とあるように、これは私だけの考えではないようだ。
  こころと身体の医学とかこころと身体の健康とかよく言われるが、それだけでは不十分であるし、人間が社会的存在であることを見ないことが問題である。つまりそういう考え方は社会が病気を生んでいることから人々の目をそらす役割を果たしている。病気は個人がかかるもので、社会や企業は関係がないとする方が、現代の支配体制側(資本主義、社会主義などを問わず)にとっては都合がよいのだから、そういう考え方(心療内科など)は支配階級的でさえある。
 なぜなら、現代社会に適応できないで病気になった人を、薬やカウンセリングなどというまやかし(社会を変えずに、人を社会に合わせさせる)だと思う。本当は、社会を変えた方が、早く治るし、病気にならないで済むことが多い。残念ながら、私も社会を変えることができないから、薬を処方し、カウンセリングをしている。
3)社会的生物としての人間
 前述もしたが、三浦雅士「身体の零度」によると、スイスの生物学者アドルフ・ボルトも重要な特徴――立つこと、話すこと、考えることという三主徴――が社会的環境との接触によってはじめて形成されていくということと、関連して考えられなければならない。・・・人間にとって社会的接触は必須のものである。新生児に対する集団の助力、すなわち愛情をもった世話が確かになされないと、姿勢、会話、精神生活、思考が、完全な人間性に導く軌道から外れていってしまう。」 またマンフォードは、「生物学的な幼児期が長くなったおかげで、人間は、利用できるあらゆる身体器官の実験が促進される可塑的、成形可能的な状態におかれ、もはや人間の器官は、ただ機能的な役割だけを尊重して扱われるのではなく、希望をもった精神の道具として新しい目的のために形づくられるようになった」という。三浦はそれを「いい換えれば、人間の身体は人為的に作られるもの、すなわち文化にほかならない、身体こそ人間にとって最初の文化であったのである。」と解釈している。まだまだ三浦の論文は続くが、私は、まさに私と同じ考えと考えている。
 そして、三浦のいう近代の成立が、近代の病気を生み出してきたのである。姿勢、歩行、体育、会話、精神生活、思考、食事、衣服、住居、仕事、職場などの近代化が、現代の病気を生み出してきている。だから、今後も、社会の変化によって、新しい病気が次々とでてくることは、必定である。
 
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