ウツウツ記

毎日の生活で感じたことを書いています。

「キャタピラー」

2010-11-08 17:44:12 | 映画
昨日は映画「キャタピラー」と監督のトークショーに行って来ました。
寺島しのぶさんがベルリンで賞をとった戦争を扱った作品。

夫・久蔵は戦地から四肢を失い、耳も聞こえなくなった状態で
故郷に帰ってきます。
わが身を顧みず敵と戦った軍神さまとして。
妻のしげ子は現実を受け入れられないまま、
久蔵との現実の生活に追われるようになります。
全てをしげ子に頼らなければならない久蔵。
食欲と性欲だけが彼の生きている証。
一方、彼の生死を握るしげ子の心は
激しく揺れ動きます。
戦地へ赴く前には子どもが産めないという理由で散々、暴力を振るわれたこと。
彼を疎ましく思い、何故死ななかったのかとなじり、
それでも彼に毎食毎食食べさせ、世話をし、彼の欲望に付きあい、
外へ出かける際には軍神の妻としての眼差しの気持ちよさに酔い、
よく、こんな大変な気持ちを抱えて日常を送れたなとただただ感心してしまいます。

心を持った屍というのは、本当に残酷な状態だと思います。
久蔵はごく普通の人間で、妻への暴力も戦地での女性への暴力も
ごく当たり前の行為だったのでしょう。
加害者であった久蔵が一転して、妻に生死を握られてしまう。
妻から一方的に激しくなじられ、全くの抵抗ができない状態になって初めて
彼は被害者の心を理解し、
また自分が行ってきた行為への慙愧の念にかられるのです。
妻のしげ子もまた、被害者だけであった訳ではありません。
好奇の目にさらされることを嫌い外へ出たがらない夫に
無理やりに軍服を着せ、リヤカーに乗せて外を連れまわる。
「外の空気を吸いましょう」という正当な理由をつけながらも
それは、自分が軍神の妻として扱われる気持ちよさを味わうためであり
また、久蔵に居心地の悪さを味わわせるためでもあるのです。
しげ子もまた、自分が優位に立ってしまえば加害者に成り得るのです。
誰しも、被害者だけであったわけでもなく、加害者だけだったわけでもない。
どちらにも成り得る。
どちらにも成れるのだから、本当はどちらの気持ちもわかるはずなのです。
ちょっと想像力を働かせれば。
そんなことに気付いて実行できていれば、戦争なんて起こらないのかもしれませんが。

上映後、監督のトークショーが30分ほどありました。
丁寧に自分の思いを語って下さいました。
戦争に対する思いとか、報道されるものばかりに目を向けるのではなく
自分で調べて考えて欲しいとか。
次回作への強い思いもお話しして下さり、
映画の感想とは別になりますが、こういう人生を楽しんで目一杯生きている大人の話を
子ども達が聞けたらいいのにな、と思いました。

暗い映画は好きなのですが、
どうも私のジャンルではなかったのかも。。
これが感想です。
やっぱり、四肢を失い聴力も失った姿というのは、
衝撃が強すぎて、それだけで戦争否定が十二分に伝わりすぎるような気がするのです。
確かに、そんな人は実在したと思います。
私が子どもの頃には、まだ街には傷痍軍人がいて、物乞いをしていました。
そんな人権意識の時代でした。
でも私にはインパクトが強すぎました。
小さなささやかな、暖かなものが壊れてゆく方が
私にとっては恐怖に感じるのかもしれません。
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