こんばんは!昨日の予報通り、今日10月9日新潟で35.1度、10月初の『猛暑日』になりました~気象庁によると、新潟県糸魚川市では9日午後2時前に最高気温が35度1分に達し、10月としては全国で初めて猛暑日となったようです。
これまで国内で観測された10月の最高気温は平成17年に長崎市野母崎で観測された34度3分が最も高い気温。北陸などでは台風から変わった温帯低気圧に向かって吹く強い南風で、山を下る際に気温が上がる『フェーン現象』が起きて気温が上がったということ。
今年に入って30度以上の『真夏日』となったのは87日目(オレの誕生日の数と一緒だ!おう!夏男だからネ~)で、1933年(86日)の記録を80年ぶりに更新した。そして、また今日、台風25号が発生したんだって!本と、今年は台風が多いですネ~嫌になっちゃいます…。と、今日の出来事を…...((φ( ̄ー ̄〃)ノ□。
今日も、まだ体調がイマイチなのでジムトレはお休みしてパソコンを......((8-(ノ ゜ρ゜)ノ カタカタカタ--やってます。そんな中、iTunesからのメールで新作映画の紹介があったので何とな~くそれを見ていると、しばらく前にテレビで観たドキュメンタリー『シュガーマン』の映画がレンタル、発売されていたので番宣を見てついブログで紹介したくなったので紹介します。
『シュガーマン 奇跡に愛された男』
アメリカ・ロサンゼルスで行われた第85回アカデミー賞授賞式。 華やかなセレブ達がレッドカーペットを彩った光景はまだ記憶に新しい。 そんな歴史的祭典で、長編ドキュメンタリー賞を獲得した作品の主人公が世界中から注目を集めている。
物語の始まりは43年前に発売された1枚のレコード。 ワイルドなポーズで写真に収まっているアーティストの名前はシクスト・ロドリゲス。 代表曲のタイトルから付けられたニックネームは『シュガーマン』。
しかし、アメリカで発売されたこのレコードは、売り上げランキングのトップ100に一度も入ることはなかった。 それどころか、当時のレコード会社によれば、たった6枚しか売れなかったとも言われている。
だが、アメリカから大西洋を隔て、1万5000キロ離れた南アフリカ・ケープタウン、この町で意外な情報が・・・。 レコード店を経営するスティーブンさんは、『シュガーマンはヒーローだった』と語る。 さらに、レコード会社に務めているロビーさんによれば、南アフリカで50万枚は売れたというのだ!
1970年代、南アフリカでは、厳しい人種差別政策・アパルトヘイトが敷かれていた。 黒人と白人は乗るタクシーも別。 白人の中にも反対する者はいたが、人々の行動は監視され、もし抗議活動を行えば懲役3年。
若き日のスティーブンも表立って行動することはできなかった。 そんなある日のこと、スティーブンの友達がアメリカで人気の歌手らしいと、シュガーマンのレコードを持ってきた。 人種差別政策のせいで国際的に孤立していた南アフリカは、海外の情報が入ってこない、鎖国状態。 しかし、稀に正規ではないルートで海賊版が入ってくる。 その一枚がシュガーマンのレコードだった。
全ては遇然の産物だった。 たまたま違法な業者がコピーしたシュガーマンのレコードの政治的な歌詞が、抑圧された当時の若者達の心を瞬く間に掴んだのだ!そしていつしか、シュガーマンの曲は、南アフリカの反政府運動のテーマ曲として、皆に歌われるようになっていった。
海外の文化に疎い、南アフリカの若者達は、シュガーマンをビートルズに並ぶ、世界的なスターだと思っていたのだ。 だが、人種差別政策がようやく終わり、海外の情報が入ってくるようになると・・・シュガーマンがアメリカで全くの無名だという衝撃の事実を知ることになる。
同じ頃、シュガーマンに興味を抱き、情報を集める人物がいた。 南アフリカの音楽ジャーナリスト、クレイグだ。 どんなに調べてもシュガーマンの情報は全く出てこなかった。
シュガーマンは何者なのかという、共通の疑問を持った、レコード店 店主のスティーブンと音楽ジャーナリストのクレイグは、その後協力してシュガーマンの正体を探り始めた。 2人が彼について唯一知っていたのはライブで歌った後、拳銃で自殺したという噂だけだった。
シュガーマンのレコードは違法なルートで流通した海賊版だったため、彼に関する情報はこれ以上出てこなかったのだ。 そこでスティーブン達は、直接アメリカのレコード会社に問い合わせてみたのだが、担当者がもういないと電話を切られてしまった。
次に注目したのは、歌詞。 2人はその後、歌詞にあった場所などを実際に訪ね、懸命にシュガーマンの正体を追った。 しかし結局、手がかりになるものは何も見つけられなかった。ある曲の歌詞に『ディアボーンから来た娘と会った』という一節があった。 アメリカ北部、ミシガン州ディアボーン。 ようやく手がかりになりそうな具体的な地名を見つけた。
そこで2人は、この地のコミュニティーサイトにシュガーマンの情報を求める告知を出した。 これがダメなら他に考えられる手立てはなかった。 しかし・・・待てど暮らせど、有力な情報な何も得られなかった。ところが、半年後。 シュガーマンに会ったことがあるという女性から連絡があったのだ! そこに記されていた市外局番は、歌詞にあったディアボーン近辺のものだった!
2人はすぐに電話をかけた。 すると、女性はシュガーマンを良く知っているという。 一体彼女は何者なのか?先日、我々はその女性の妹だと言う人物に接触することができた。 なんと彼女はシュガーマンの娘だった!!
では、拳銃で自殺したという話しは・・・? なぜそんな話しが出たのか分からないが、今でも元気だという。 実は、シュガーマンは生きていた!!本名は、シュクスト・ディアス・ロドリゲス。 1942年、ミシガン州生まれの70歳。 彼が青春を送った1960年代は、アメリカでも人種差別が色濃く残っていた時代。 メキシコ系の移民だったため、苦労を重ねてきた。
しかし、その現状を悲観する事無く、ビルの解体現場などで働くかたわら、メッセージを込めた歌を歌う事で、権力や差別に立ち向かった。 そんな彼の歌は一部の音楽関係者の間で話題になり、やがてレコードデビューをはたすことに。 しかし、全く売れなかった。 結局、2枚目のアルバムで契約を切られてしまった。
その後、元の職場に戻り、やがて結婚。 3人の娘を授かった。 音楽と離れた後も、家族のために堅実に生きてきたシュガーマン。そんな彼の元に、「あなたのことをずっと探していた」という内容の電話が南アフリカからかかってきたのだ。 そして、南アフリカでは有名なスターで、こちらに来てコンサートをやってくれないかと言うのだ。
こうして、今から15年前、シュガーマン一家は半信半疑のまま南アフリカへ向かった。 空港に着くと、リムジンが2台待っていて、宿泊先のホテルはスィートルーム。 まるで夢みたいだと浮き足立つ家族をよそに、シュガーマンは普段と全く変わらぬ様子だったという。
ライブのため用意されたのは、5000人収容の大ホール。 今までそんな会場でライブをしたことなど一度もなかった。 アメリカでは全く売れなかった名もなきアーティスト。 シュガーマンこと、シュクスト・ロドリゲス。 そんな彼の前に信じられない光景が!!
5000人収容のホールを埋め尽くした大観衆!! そしてステージに上がったシュガーマンが最初に発した言葉は・・・『生きてたよ』。 囁かれ続けた死亡説を自ら一蹴してみせた。
そして、彼がオープニングナンバーに選んだ曲の歌詞に観客達は酔いしれることになる。 『驚いたぜ 何度だまされるんだ 考えてた予定が少し変わっただろ 何度愛し合ったんだい 次に騙されるのは一体誰かな・・・』 まるでこの日の事を予言していたかのような曲で、シュガーマン初のホールライブは幕を開けた。
講演後のサイン会は2時間にも及んだ。 中には、ジャケットの絵柄をタトゥーにまでしているファンもいた。滞在中に行われた6回の公演は全てソールドアウト。 人生初の海外ツアーを大成功させたシュガーマン。
だが、アメリカに戻った彼は、あっさりといつもの生活に戻っていった。 住み慣れた家に暮らし、今も肉体労働の仕事を続けている。 公演で得た収入も、ほとんど家族や友人にあげてしまったという。
『ビルの解体だろうが、音楽だろうが、自分のできることにベストを尽くす。俺にできるのはそれだけだ・・・』とシュガーマンは言う。
伝説のライブから7年が経った2005年。 たまたま南アフリカを訪れた1人のジャーナリストがシュガーマンの話しに興味を持ち、映画化を思い立った。 そして昨年、映画が公開されるや、各地で絶賛を博し、先月 映画界最大の祭典で最も優れたドキュメンタリーに送られる、アカデミー長編ドキュメンタリー賞を獲得した。
シュガーマンの功績は40年の時を経て、ついに本国アメリカでも認められたのだ。 日本でも先頃、彼のCDが発売になり、映画の公開も間近。 そんなシュガーマンの元には、今、世界中からコンサートの依頼が殺到しているという。しかし、アカデミー授賞式当日、会場にシュガーマンの姿が見当たらない。 一体なぜ? 授賞式の翌日、我々は彼の自宅があるデトロイト郊外に向かった。
なぜ会場に行かなかったか聞いてみると・・・『俺には映画の賞なんて関係ないからさ。仕事の方が大事だろ?』という。 世界的に注目されるようになっても、彼の生き方は変わらない。
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