で、ブログ

アメリカ生活3年半を終え、帰国しました。
で、ブログは不精しつつも続けます。。

その後

2008-02-21 23:24:19 | Weblog
くぼたのシチュエーションは、改めて考えると、「母子家庭の一人息子で、海外在住」というわけで、色々と面倒だ。USに戻らないといけないので、手続きで動ける期間が決まってるし、日本に住民票がないと、死亡届も出せない(かどうかは正確には不明のまま。葬儀屋さんから、確実のため、日本に住民票のある、別の家族名義での提出をすすめられた)。せめて日本に兄弟でもいれば、手続きを手伝ってもらえたんだが。

まずは、お骨を祭ったり、七日ごとや四十九日(満中陰)などの法要。
くぼたはアメリカ在住で、日本滞在中はホテル暮らしのため、本来くぼたが祭るべきところを、叔母に一時預かりをお願いし、引き取って祭ってもらえる寺を探すことになった。叔母をはじめ親族に参ってもらいやすいよう、地元で宗派の同じ寺を探した。

無事、寺を見つけることができ、先方も、急な話ではあったが快く引き受けてくださった。この件が本当に気になっていたので、式のあとも心が休まっていなかったが、ようやく落ち着いた。

と思ったら、熱が出て2日ほど寝込んでしまった。相変わらず弱い。

無事故障したパソコンの代わりのパソコンも買って、メールの読み書きができるようになった。アメリカとの連絡は、やはり電話よりメールの方が便利だ。

あとは、市役所での手続きや、年金関連の停止の手続きに、簡易保険の死亡の手続きなど。母の本籍のある役所を回ったりせんといかんようだ。
日本に住所がなく、母と住所を同じとしないため、何かと叔母に一緒に出向いてもらうことになったり、なかなか手続きも進まず、大変だ。

なんとか残りの日数で頑張らねば。

母の死

2008-02-21 23:06:13 | Weblog
突然だが、今日本に帰国している。

2月上旬に、入院中の母が、別の病気を発症し、治療をしているとの知らせを聞いた。その時はそこまで深刻な状況ではなさそうだったので、しばらく様子を見てから帰国を検討しようとしていたのだが、2/12夜(US時間)になって、容体が急変し、ナースステーションの向かいの部屋で、随時状況を監視する必要があるとの連絡を受けた。

心配な状況なので、日本に行くことに決め、夜の10時を過ぎていたが、慌ててUnitedに電話。なんとか翌朝のチケットを手配し、そのままほぼ徹夜で準備。この週は日本からの出張者がおられたので何とか仕事したかったが、電話の向こうの状況は、そういってられる状況ではなさそうだった・・。

2/13朝、ポートランドを出発。出発前に叔母に電話すると、意識がなく、集中治療室に移動したとのこと。どんどん嫌な感じがしてくる。パソコンは壊れるし、ろくなことがない。飛行機の上は、十時間以上何もできないため(乗継含むDoor-to-Doorの総移動時間は18時間ほど)、余計に要らぬことしか考えられなくなってしまう。「誠に会ったら、一気に元気になるさ」と言い聞かせて心を落ち着けようとするが、あまり効果はなかった。

2/14夕方、関空に到着。
即座に叔母に電話をするが、、、母は、ほんの数時間前に息を引き取ったとのことだった。
まさに茫然自失だったが、まずできることは、病院へ急ぐことだけだった。

母はすでに霊安室で安置されているとのことだった。久々の親族との挨拶も適当に、霊安室に向かった。つい先月帰った時は、初孫の誠に会って、「今度おもちゃを買ってあげるな」と喜んだ姿を見せてくれた人が、そこで永久の眠りについている。実際そこで母を見るまでは、まだ半信半疑というか、まったく実感がなかったのだが、、、。

つらかったろうに、我々をギリギリまで待とうとがんばってくれていたんだろうか、と思うと、涙が止まらなかった。

その後、スーツケースを持ったまま、母の遺体と共に葬儀場となる会館に移動して、喪主としての葬儀の打ち合わせ。喪主なんて経験もなく、いろんな用語も知らなかったのだが、九州から来てくれた叔父叔母が付き添ってくれていたので、有難かった。

2/15に通夜、2/16に告別式を終えた。自分にこんなに涙があったのかと思うくらい、泣いた。いろんな言葉をかけたかった気がするが、涙のせいで、口に出せたのは、「大変やったな」と「ありがとう」だけだった。

初めての喪主は、ただただ疲れた。もういつからろくに寝てないかもわからなくなっていた。喪主というものは、なんでこう、一番悲しいはずの立場なのに、一番忙しくなるのか、と思っていたが、ある意味、忙しさで、多少は悲しさを紛らわせることができるようになっているのかもしれないなぁと思った。

母の死に目に会えなかったのは、一生残念な気持ちを心に背負って生きることになると思う。いまだに、「もし、あと1日でも早く帰って、少しでも我々の顔を見れたら、母は快方に向かっていたのでは」などと思ってしまう。1日前出発となると、容体が急変する前の話なので、その選択肢は頭になかったけれども、どうしても、「もしも」の話を考えてしまう。

そんな中で、ただ一つ、本当に良かったと思えることは、年末年始に帰国して、母がまだ比較的元気な時に初孫を会わせてやることができたことだ。(もし会わせてなかったとしたら、それほど後悔することはないだろう) 母の、あの喜んだ笑顔が忘れらない。今から思うと、すべてが偶然だが、うまく母が初孫とめぐり逢えるようになっていたという気がする。

年末年始の帰国は、妻のビザ更新が一番の目的だったが、もともと日本行きは、予定していなかったものだった。当初は、カナダで更新を行う予定で、フライトもホテルもカナダ行きの予定で予約していた。が、直前の12月上旬になって、カナダの米国領事館のポリシー変更のため、ビザ更新にかかる日数がかなりかかるようになったため、それならば勝手の分かる方で、という話で、急遽日本でのビザ更新とすることになったのだった。もとの予定では、3月まで妻子と日本に帰る予定はなかった。

そもそも、結婚のタイミングも何かのめぐり合わせだったかもしれない。母は以前から入院していたわけなのだが、私としては、母が退院するまで、そうでなくとも私が30歳になるまでは結婚をするつもりはなかった。が、28歳の時にアメリカ行きの話が出て、結婚して一緒に行った方が何かと良いだろうということで、結婚することになったわけだ。もしこの話がなければ、母のために結婚を待った代わりに、初孫を見せてやることができなかったということになったかもしれない。

さらに、母が亡くなった週は私と妻の誕生日のある週なので、例年通りなら一足遅い冬休みを取って、我々夫婦の好きな、携帯もろくに入らないであろう国立公園などの旅行に行っていたのだが、出張者との日程調整でここしか良いタイミングがなかったので、今年はその週はどこにも行かず、仕事の予定をいれていた。おかげで、日本行きの行動が少しでも早く起こせたとも言える。

と色々考えると、母の死に目には会えなかったものの、帰ってすぐに喪主を務めることができたし、色々な巡り合わせで、母と誠を一度でも会わせることができたのも、運命だったのかと思うようになってきた。

母子家庭なのに、私に負い目を感じさせないためか、必死で働いて育ててくれた母。いろいろと大変だったことだろう。

母よ、今までおつかれさま。そして、ありがとう。