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『維新の肖像』朝河貫一と父・正澄 破滅的な状況を招いた根本原因は維新の持つ思想と制度の欠陥にある

2015年08月10日 | 政治・行政
国会事故調で紹介された朝河貫一の業績や思想を知りたいと思っていたのだが、著書『日本の禍機』は敷居が高く後回しになっていた。貫一の父で戊辰戦争を戦った二本松藩士・朝河正澄と朝河貫一の小説『維新の肖像』を図書館で借りて読了。

この『維新の肖像』の少し残念なところは、タイトルだけ見ると薩長の維新の志士を讃える小説かと誤解しかねないこと。その上、著者の安部龍太郎(直木賞作家)が現首相の安倍晋三と関係があるのではないかと錯覚してしまう。(字が違う)

『維新の肖像』「貫一は歴史学者として明治維新を肯定する立場を取ってきた。…ところが日本は、日露戦争に勝利した頃から徐々に変質していった。…満州事変、…上海事変を起こし、…どうしてこんな国になったのか。日露戦争後に『日本の禍機』を書いて以来、…このテーマに取り組んできた」

『維新の肖像』「初めは維新は偉大な革命であったが、引き継いだ者たちが国家の運営を誤ったために、このような結果を招いたと考えていた。…今日の破滅的な状況を招いた根本原因は維新そのものが持つ思想と制度の欠陥にあるととらえなければ、物事の本質にたどり着くことはできない」

『維新の肖像』薩摩藩邸“焼き討ち”から戊辰戦争に至る薩長の卑劣な手口が、満州事変や上海事変とほとんど同じだと指摘。この小説は、朝河貫一が父・正澄の手記を元に執筆中の小説と、貫一自身の物語が併行する二重構造。歴史作家であり事実関係は踏まえて書いているはず。

『維新の肖像』作者の「根本原因は維新そのものが持つ思想と制度の欠陥」という問題提起にほぼ同意できる。司馬遼太郎の『坂の上の雲』や、この小説における若き日の朝河貫一のように、日露戦争までは大義名分のある自衛戦争で、その後日本国家が変質したと考えていたが、違うと確信。

『維新の肖像』維新における思想や謀略などの諸問題と、戦前の政府・軍部・メディアの問題と、今起きている安倍政権と財界やメディアの問題は、ほとんど同じ根っこから生じたもの。大河「花燃ゆ」や世界遺産登録の維新賛美には大きな違和感。

ものすごく簡単に言うと、長州で攘夷ジョーイと叫んで過激な言動に出た玄瑞を含む下級武士と、尖閣センカクと叫んでいる安倍晋三大好き自民若手議員やネトウヨとは、本質的に何も違わないのではないか。高杉・伊藤らは情勢を把握できていたが、今はそういう人材もいない。

『維新の肖像』安部龍太郎
http://www.usio.co.jp/html/books/shosai.php?book_cd=3922
明治維新によって日本が失ったものとは
朝河父子の生き様から現代日本の病根を探る。
…破滅への道を転げ落ちていく日本の病根を見出そうとする。

朝河貫一『日本の禍機』の復刻 中村尚美(社研教授)
本の周辺2 1987.10.26
http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/12/12-14.html

朝河貫一「日本の禍機(かき)」を読む
http://www.sakubundojo.com/blog-entry-46.html

太平洋戦争への入り口で日本人に猛省をうながしていた朝河貫一
http://home.hiroshima-u.ac.jp/utiyama/ISIS-12.8.W.html

『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』阿部善雄/著(岩波現代文庫)
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/0/6030940.html

変われぬ国 100年前警鐘 福島出身の歴史学者・朝河貫一
2014年6月17日

本の出版について記者会見して語る(左から)梅田秀男さん、武田徹さん、佐藤博幸さん=福島県庁で
写真

 国会事故調査委員会の報告書で、福島県出身の歴史学者朝河貫一が紹介された。黒川清委員長が「朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機(かき)』を著し、日露戦争以後に『変われなかった』日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた」とし、原発事故は「変われなかった」ことで起きたと書いた。
 地元の高校教師らが「100年前からの警告 福島原発事故と朝河貫一」(花伝社、税別千七百円)を出版した。執筆したのは、元高校教員の武田徹さん、梅田秀男さん、福島県立喜多方高教員の佐藤博幸さんの三人。国会事故調の報告書で紹介された朝河を「もっと知ってもらいたい」という。
 朝河は一八七三年の生まれで、父正澄は戊辰戦争で敗れた二本松藩の藩士だった。正澄から漢籍や古典を学んだ。
 九二年に福島県尋常中学(現安積高校)を卒業、九六年に渡米し、一九三七年に米エール大学歴史学教授になった。武田さんは「父子でくせ字が似ているんです」と言い、手紙から分かったエピソードを教えてくれた。

朝河貫一が学んだ福島県尋常中学校本館。国の重要文化財で、安積歴史博物館として公開されている=同県郡山市で

 「(米国で大学教授になることは)天命と受け止めています」と、朝河が帰国予定が迫った一八九九年に父に手紙を送ると、正澄は「独立して過ごすことが出来なくなった時には、自決する覚悟でおります」と返事を書いた。「ただし手紙並びに写真は年に一回位は。ひとえに待っております」と手紙は結ばれている。「自決だけではなく、年一回、と書く。武勇だけではない。これが本当の武士道なんです」と武田さんは言う。
 朝河は渡米後、二度帰国した。一九〇六年、最初の帰国時、福島市での講演を報じた福島民報の記事がある。
 「国の政治のためには、偽り、嘘(うそ)を言い、弱い者をいじめるという必要性を感じることがあるでしょう。(略)それは何のためでしょう。政治には『責任』が伴うのでありますが、このことを無視するからなのであります」
 「日本の禍機」の中でも「日本は国を挙げて国民の反省力向上に努めなければならない。それを怠り、この国の行く末を、一握りの少数者の知力と道義心に頼り、任せている限り、日本の前途は極めて危ういものとなると言わざるをえない」と書いている。
 警鐘は原発事故だけではなく、今の政治にも当てはまる。 (福島駐在編集委員)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/fukushima_report/list/CK2014061702000188.html

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