K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

北陸その3

2006年10月31日 北陸その3

午後3時をまわってしまったので、小浜の発心寺をめざし、縄文ロマンパーク

をあとにしました。福井県の山々は優しくなだらかでした。しかし、気になるこ

とがありました。



もしや、 立ち枯れかしら この答えは分かりません。今後の課題となりまし

た。




小浜駅の近くに位置する曹洞宗の発心寺に午後4時ごろ到着しました。この寺

では12月に臘人の接心という修行が1週間おこなわれています。この修行は

雪の降る小浜の風物詩となっているようです。この恒例の修行に夫の父が大

学時代に何回も参加しました。夫の父は僧籍には属しておりませんが、生涯、

佛教関係の勉強をしておりました。夫の父の遺稿集『耕心』の一部を引用しま

す。『  』内が引用文です

『・・・はたち前後のころから、いろいろの事情で、自分なりにひとり悩むことが

多くなり、「けっきょく自分はどうなるのか。どうあるべきなのか。」と言

ったような問題がだんだん内攻してきた。そこで自己とか自我とか自

叙とか、ともかく自という字のついた書籍などを手当たり次第あさって

参考に読んでみるようになったが、畢竟「他はこれ我れに非ず」、他の

種々相を知ることによって、かえってますます自分がわからなくなって、

その悩みはひろまるばかりであった。もっと人間そのものの根底にたっ

た決定的な解決の道はないものかと思って、自然哲学的傾向の書物

を求めるようになったが、いずれの哲学書も、何か冷たい理屈っぽい感

じがして、これだけは、到底自分は救われそうもないと思い、情味のあ

る宗教的なものに心をひかれるようになった。あるときは、学資の一端

を補うために、外人牧師の家に寄宿して仕事を手伝い給料を貰ったこと

もあったが、それが縁で、牧師の親切な人柄や、周囲のひとびとの、奉

仕的やさしい雰囲気に、なんとなく感化されるところもあって、教会へも

しばしば出入りして説教もきき、讃美歌も歌い、進んでバイブルも読んだ

が、これまたどこかに偏執と臭味を感じ、どうしても肌に合わないところが

あるので、入信する気にもなれなかった。

  ○

その矢先、たまたま高楠順次博士の佛教講演を聞く機会があった。その

ときのお話の内容が、どんなものであったか、今は全く忘れてしまったが、

ただ、佛教が自覚の宗教であるという一言だけは、印象深く残っている。

そして同博士の朗々とした、歯切れのいい、澄みきった音声に乗って、た

くまずしみじみと流れ出る見識、風格、人柄と言ったものにひどく魅力を感

じ、最後まで固唾を呑んで謹聴したことだけが、今なおはっきり記憶に残っ

ている。その後もしばしば経験して気のついたことですが、頭の中で智識

的に詰め込んだこと、考えたことは、とかく消え易く変わり易く、また忘れ

勝ちで、けっきょく身につきませんでしたが、感覚的に目で耳でとらえたこ

と、或いは手で足でおぼえたこと、要するに生身で経験したことは、いつま

でも忘れずに身に残るものだということです。

   ○

 ともあれ、この講演が、佛教なるものに強い関心をもち始めた第一の導火

線になったかと思う。それから仏教というものを、ひとつ身を入れてやってみ

ようかという気になったが、さてどこからどう手をつけていいやら、皆目見当が

つかない。周囲に適当な助言者もいなかった。今にして考えれば、へたに一

宗一派に偏した指導者や助言者がいなかったことが、むしり自分に幸いした

と思う。そこでやむを得ず、何か手引きになる解説書でも探してみようと思っ

て図書館へ行って、あれこれと索引をめくってみた。するといつぞやお話を聞

いた高楠順次博士と、木村泰賢というひとの共著になる『インド哲学宗教史」

という書名を発見した。あの先生の本ならと思って、とりあえずこれを借り出し

て読んでみることにした。すると開巻第一に自分の心を強くとらえた言葉が出

てきた。それは、「インドの宗教は哲学であり、インドの哲学は宗教である」 と

いう一言でした。・・・・』
その後、昭和2年にインド哲学科に進学、

『・・・大学で、仏教の勉強をはじめたか『ただ一人の釈迦が説きだした佛教が、

どうして八宗十宗とと分かれて、夫々が各宗宗旨を固執するようになったかと

いうことである。次にはそれ等の宗義を研究し比較し解明し記憶したところで、

果たして自分自身の始末がつくのかつかないのか。

 私は何か失望に似たものを感じ始めたのである。・・・略・・』
そのご、禅宗の

曹洞宗出身の同級生が「正法眼蔵」(道元著)を贈ってくれた。その本のを読ん

『・・・「現成公案」という巻きのところに、「佛道をならうというのは、自己をなら

うなり、自己をならうというは、自己をわするるなり・・・・云々」という文句を発見

し、ハッとした。佛教に対する年来の期待が、ここへきて初めて的中したような

思いがしたからである。

 それにしても、こういうことをはっきり言う道元禅師とはどういう人物か、また

禅とはどのような法門宗旨か、これが自分には頗る興味深い問題として、改

めて登場してきた。』
。(続きは発心寺の写真の下の続きを読むをクリックして

ください)

 


発心寺


坐禅のお堂

裏山の墓地

帰宅後、発心寺を調べると山川登美子の墓があったようです。


墓地の一角に菜園がありました。

帰宅後のネット情報ですが、このお寺の僧侶は自給自足に近い生活との事で

した。
『そのころ自分は大学一年生で、佛教青年会の寄宿舎に舎生として住み、

かつ同会の一事業である日曜講演部の仕事を手伝っていた。・・・福井市

の通安寺の住職今成覚禅の講演会を企画、講演後の座談で『・・・今成

覚禅は「是非一度接心にご出席なさい。すると禅が如何なるものかわか

る」と言う意味のことを言った。・・』
その後、原田祖岳老師を招いて

日曜講演会を開いた。そのあとの坐談で『・・・老師は「一度接心に来ると

いい。その時なら詳しい身のある話もしみじみできるだろう」と言われた。

・・・略・・・・・・・「よし行って見よう」・・』
このような次第夫の父は老師が

住職を務める小浜発心寺の接心に参加したました。

昭和3年12月のことでした。その修行はすさまじく厳しかったようで

『・・何の因果でこんなにたたきのめされるのか。うらめしいやら、

くやしいやら情けないやらでボロボロ涙が出た。さりとて逃げ出すわけにも、

文句をつけるわけにもいかない。唯々忍従甘受あるのみ。しまいには覚悟を

決め「なにくそ、こんな事でへこたれてたまるものか」と奮然気をとり直し、坐り

直して頑張り通すようにもなった。・・・』

コメント一覧

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お世話になります。とても良い記事ですね。
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