K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

シャレースイスミニその5

2007年2月26日


朝食はシャレー スイス ミニで買ったパン


さて、昨日の続きを書きます。
夫「ここ(シャレースイスミニのオーナーはスイスのフランス語圏の出身なんだよ。この2階は語学学校になっているんだ」
妻「ここで勉強できればいいけど、チョット通うのに遠いわね」
夫「これから谷中の墓地を通って、根津の駅に出ようと思ったけど、谷中銀座に戻って本郷三丁目まで歩かないか」
妻「そうね、小泉八雲だったら、お墓を通りたいでしょうが・・・」
夫「桜の季節なら谷中の墓地もいいだろうが」

谷中銀座を抜けて忍ばす通りを少し南に歩いて、団子坂を上ったあたりに文京区立本郷図書館がありました。私どもは図書館の反対側の舗道から眺めたので、近づきませんでしたが、図書館の看板には鴎外記念館と書かれていました。どうやら、図書館の地は鴎外の住居跡だったようです。帰宅後に調べました。森鴎外は東京文京区に1892年に住居を建設し「観潮楼」と名づけたようです。観潮とは、2階から東京湾が見えたようです。また、この家を建築中には、近くの借家に1890年10月から1892年1月まで住んでいたようです。その借家には1903年にイギリス留学から帰国した漱石も1903年3月3日から1906年12月まで住んだようです。
漱石の三四郎に団子坂が出てきますので、引用します。
ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。こういう空の下に生きていると思うだけでも頭ははっきりする。そのうえ、野へ出れば申し分はない。気がのびのびして魂が大空ほどの大きさになる。それでいてからだ総体がしまってくる。だらしのない春ののどかさとは違う。三四郎は左右の生垣をながめながら、生まれてはじめての東京の秋をかぎつつやって来た。(夏目漱石『三四郎』四

すこし歩くと天保元年創業のおそばやさんがありました。
水野忠邦は「おそばを食べなさい」と言ったのかしらと冗談を言いながら通り過ぎました。

次の看板は、おや、『青鞜社』発祥の地 文京区千駄木5-3-11(以下看板の文です)
青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥1886~1971)の首唱で木内錠子・物集(もずめ)和子・保持研子(よしこ)・中野初子ら二十代の女性5人が発起人となり、1911年(明治44年)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。
月刊「青鞜」の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は太陽であつた」は有名で、女性たちの指針になった。表紙は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。
「青鞜」は初め詩歌が中心の女流文学集団であったが、後に伊藤野枝が中心になると婦人解放運動に発展していった。事務所はその後4ケ所移り、「青鞜」は1916年(大正5年)に廃刊となった。
文京区教育委員会平成8年3月


進んでいくと樹齢300年の蓬莱梅がある光源寺の境内が右手に広がっていました。寺の説明書きによると、この寺は1945年5月25日の空襲で寺の観音堂と梅の古木が焼失してしまったとのことでした。観音堂再建にあたり代替の梅を榛名山の麓から移植し、旧住所表示の駒込蓬莱町に因んで蓬莱梅と命名したとありました。さらに。明治の末年まで駒込付近は梅や桜の花木の産地だったということです。再建は1993年のようです。
今でも、このあたりは梅の木がたくさんありました。

このあとも名所が続きましたが・・・今日はこのあたりにしておきます。

ようやく本郷通りにでました。その通りにいかにも由緒ありげな手焼き煎餅の梅月堂がありましたので、娘に胡麻せんべいをお土産に買って、東大の赤門まで歩いて(結構距離がありましたよ)本郷三丁目で地下鉄に乗りました。

今日は国立大の2次試験でしたので東大の各門は閉ざされ、学生証明書のないものは入れませんでした。門の外は寒いのにママやパパが待ってましたよ


東大構内には向ヶ岡貝塚があり第一号の弥生土器が発見されたところがあるわけなので、再度歩いてみようと思ってい
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