戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

宇都宮大空襲 2話   6/26

2010-06-26 11:48:18 | Weblog
昨日は宇都宮大空襲を思い出してブログに投稿したが、うちに帰ってからテレビを見たら見慣れない画面が写り、これも田舎くさい男性の顔で宇都宮大空襲の話をしていた。ふだんは見ないケーブルテレビを間違って出してしまったらしい。釘付けのようになって見ていたら、誰かの描いた絵入りで体験者らしく、警報もならないうちに大きな爆音で外に出ると右の家も左の家も真っ赤に燃え上がり、それから逃げる様子が語られていた。いつでも思い出す事が出来る。いつでも語る事も出来る。いつ何時でも書く事が出来る。小学校5年生で、父親が大曽に疎開先を見つけ、横穴防空壕を掘り、あのような戦火の中を逃げ惑う事はしないで済んだ。入っていた横穴防空壕の上にも焼夷弾が落ちて住んでいる家の屋根も少々焼けたが、消す事も出来、それなりの被害を受けたと思ってはいたが、私の知っている宇都宮大空襲とはそんな生易しいものではなかった。はるかに燃え上がる宇都宮市内を、大曽の山の上から眺めただけだった。それは恐ろしいというより、敵機も去り、爆撃の音も聞こえない、初めて見る空襲での火災の遠景、それは子供の私には綺麗に燃え上がるオーロラ(話に聞いたりテレビで見るだけだが)のように美しいものとしか写らなかった。その後、学校に戻ってから何十年と、誰とも空襲の話をした事はない。1度もないとはどういう事であろうか・・・そういえば家族と空襲の話をした事も無かった。私がそれに目覚めたのは記憶にある私の人生を文字にし始めてからである。3歳になるかならない幼い頃から、私の記憶は殆ど鮮明に近いほどなのに、大事件であるべき大空襲を良く知らないというのは罪悪に近いと思い、それらを知らない世代の人達に語り継ぐ必要があると思った。沖縄の姫ゆり部隊の話を見、聞きするうちに私が死ぬ前に少しでも残しておきたいと書き始めた。
同級生や姉達からも情報は寄せられてきた。父親が早く手を打っておいてくれたお陰で誰ひとり、猛火の中を逃げずに済んだ。それを子供のうちのひとりとしても感謝の言葉をかけた子はいない。親不孝な娘らではある。今更ながら”お父さん ごめんなさい”