精神世界(アセンションについて)

このブログの内容は、色々なところから集めたもので、わたくしのメモであって、何度も読み返して見る為のものです。

3 ・11   小野道 作

2011年03月19日 | Weblog
『3 ・11』

待ちわびた早春の陽差し陸奥の昼下り

動くことなど忘れていた大地が突然に

波の如くに揺れ震え割れ裂け唸りをあげ

人も草木も建物も橋も車も総ての物に

立っていることさえも許さず倒し崩す


生きる糧であり拠り所であったはずの青い海

瞬く間に巨塊となり怒涛と化し陸を町を呑む

全てを舐め尽くし押し流し薙ぎ倒し続けて

愛しい人も掛け替えの無い物もその目の前で

容赦もなく奪いとり押し潰し攫い去ってゆく


何処の団欒も一瞬にして消え時間は止まる

電気も水も暖も食料も何もかもが途絶え

助けもない真っ暗な町々には紅蓮の炎と煙

苦しみ悲しみ不安と痛み呻きが今そこにある

これ程までに残酷な現実を誰も想像しなかった


  あまりにも辛く重く長い闇夜が一つ明けて

  昨日までの町々は見紛うばかりに姿を変えた

  無数の物が歪んで転覆した車や船と綯い混ざり

  道も区画も川や海との境もなくなった町一面を覆う

  ここの瓦礫は昨日まで必ず誰かの大事な蔵の財


  両手を口元に我が子の名を呼び惨場を歩く人

  我が家があったはずの場所に立ち尽くす人

  あのとき隣人を救えなかったと嗚咽する人

  「もう海はいらない」と一言話して涙する人

  嗚呼・・・この大きな悲哀は今まだ始まったばかり


  2011・3・11 未曾有の災害 「東北関東大震災」・・・

  奪われた命の数さえ分からず瓦礫に息する人も探せず

  何もかも無くし逃れた人々は余震に怯え光さえもない

  心と体をほんの少しでも温めるため人は静かに寄り添う

  一人一人のドラマは違えどもこの惨劇は総てを変えた


  この国に暮らして見守った数多の人々は即座に

  この星で共に生きる多くの国々の人々も忽ちに

  現実の阿鼻叫喚に驚愕し被災した人々を憂えながら

  支援と激励と応援を高らかに声にして無事を祈る

  然しまだ思いは届かず災地をまた辛い寒気が襲う・・


  幾日も大切な人の行方を尋ねる方も無事を報せる途もなく

  命が絶えた家族の亡き骸を抱きしめることも許されず

  生きているも満身創痍の我が身を労わる術もなく

  寒さと空腹に耐えて待つしかない途方もなく長い時間

  ふと心を覆う絶望という名の闇と必死にたたかいながら


  なんと 自然とは残忍なものなのか苛酷なものか
  
  それでもなんと 人間は温かく健気なものか

  そしてなんと 人は強くあれるものなのか

  我が家を流されても尚 他人を気遣い思いやる

  気丈に「またガンバルさ」と涙乾かぬ顔をあげる


我が師の言葉は勇む 「『心の財』だけは絶対に壊れない」

「いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練」なのだと

あまりにもあまりにも悲しいできごとに遭遇したとき

男も女も人は誰もが涙の堪え方を忘れてしまう

でもそれが人それこそが人そして人は人と伴に生きる


涙枯れても震えながらも懸命に生き抜こうとする人たち

その為にはどれほどの勇気と力を必要とすることか

その勇気をもらい希望を見出す命の波動が人に伝わる

それは今日を今を生きることをけして諦めない大偉業

祈りは勇気と希望の源そして人にこそ許された特権


だからこそこの星に住む人間の一人として心深く祈る

どうか 一人でも多くの命を繋いで戴けますように!

どうか 少しでも不安と苦痛がなくなりますように!

どうか かならず元気と希望がとり戻せますように!

春よ早く 一日でも早く苦しんだ人みんなの処に来い!

被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~

2011年03月19日 | Weblog
阪神大震災の時、高校生で被災地に応援に行った方の経験談がありました。
結果はどうであれ、役にたちたいと行動された事に胸が熱くなり、頭がさがります。
以下、転載させていただきました。

http://chodo.posterous.com/45938410

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『~被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~』

阪神大震災が起きたとき、僕は高校3年生で、しかもセンター試験の翌日だった。
遠くから沢山のトラックが走ってくるような、不気味な音が夢うつつに聞こえ、気がつくと家全体が揺れていた。
父親にたたき起こされて玄関を開け、ガスを閉めてTVをつけると、阪神高速が崩壊していた。
家が揺れた恐怖と、テレビの実感の無さと、街中の静けさが記憶に残っている。

その日は登校してセンター試験の自己採点を行い、二次試験のための面談をしなければならなかった。
僕は迷ったが、結局自転車で出発した。
大阪城の堀から水が溢れ出していた。

学校に着くと全てがいつもどおりで、来ていない生徒もいたが、先生は特に何も言わなかった。
粛々と自己採点し、粛々と面談が行われた。
僕達の仲間で三宮と西宮に住んでいる友人がいたのだが、さすがに登校はしていなかった。
昼休みに仲間3人で、二次試験が終わったらボランティアに行こうと話をしていた。

下校時刻になって、担任の物理教師がおもむろに話しだした。
「今回の震災で我校の教師や生徒も被災者となり、登校できない人がいます。
センター試験が終わり、受験生としての役目を終えた人もいると思います。
あなた方の中には、正義感や義侠心に駆られて現地に乗り込む人もいるでしょう。
それは間違ったことではありませんが、正直に言えば、あなた方が役に立つことはありません。
それでも何かの役に立ちたいという人は、これから言う事をよく聞いてください。

まず食料は持って行き、無くなったら帰ってくること。
被災地の食料に手を出してはいけません。
寝袋・テントを持っていくこと。
乾いた床は被災者のものです。
あなたがたが寝てはいけません。
作業員として登録したら、仕事の内容がどうであれ拒否してはいけません。
集団作業において途中離脱ほど邪魔なものはないからです。
以上の事が守れるのであれば、君たちはなんの技術もありませんが、若く、優秀で力があります。
少しでも役に立つことがあるかもしれない。

ただ私としては、今は現地に行かず受験に集中し、大学で専門的な知識や技術を身につけて、
10年後20年後の災害を防ぐ人材になって欲しいと思っています。」

言葉の端々は忘れてしまったが、教師が言いたかったことは今でもはっきり憶えている。

結局僕たちは、物理教師の言ったとおり、なんの役にも立たなかった。
配給のパンを配って回ったり、お年寄りの移動に付き添ったり、
避難所の周りを掃除したり、雑用をさせてもらったが、持っていった食料は5日で尽きた。
風呂には入らなかったが、寝るところは防犯上困ると言われて避難所の中で寝た。
生活のインフラ整備や瓦礫除去作業は、消防や自衛隊があ然とするくらい力強く、迅速に問題を解決していった。
僕達の存在は宙に浮き、遊び半分で来たボランティアごっこのガキ扱いをされていた。
実際手ぶらで現地に入って、汚い仕事を嫌がるような若者はたくさんいたし、
そういうグループと僕達が、能力的に大きな差があったかというと、とてもそうとは言えなかった。
僕達が現地で強く学んだことは、「何かして欲しい人」がいて「何かしてあげたい人」がいても、
事態は何も前進しないということだった。
人が動くためには、「人を動かす人」が必ず必要になる。
社会人なら常識として知っている事さえ、僕たちは知らなかった。

僕達は現実に打ちひしがれて現地を離れ、浪人を経て京都の大学生になった。
そして被災地への情熱も無くなっていった。
結果的に僕達の正義感は、ハリボテだったのだ。
正直に告白し、反省する。
僕たちは、神戸への気持ちを、たった一年間も持続させる事さえできなかった。

今回の震災で、被災した人の役に立ちたい、被災地のために何かをしたい、と感じている若い人達がたくさんいると思う。
でも慌てないで欲しい。
今、あなた方が現地で出来ることは、何一つ無い。
現地に存在すること自体が邪魔なのだ。
今は、募金と献血くらいしか無いだろう。
それでも立派な貢献だ。
胸を張って活動して欲しい。
そして、是非その気持を、一年間、持ち続けて欲しい。
もしも一年経って、あなたにまだその情熱が残っているなら、活躍できるチャンスが見えてくるはずだ。
仮設住宅でのケアや被災者の心の病、生活の手助けなど、震災直後よりも深刻な問題がたくさん出てくる。
そういった問題を解決するために、NPOなどが立ち上がるだろう。
その時に初めて、被災地は「何も出来ないけど何かの役に立ちたいと思っている、心優しいあなた」を必要とするのだ。
もしかするとそれが、あなたの一生を変える大きなきっかけになるかもしれない。

結局僕は紆余曲折を経てGISの技術者になり、
専門分野は違っても、多少なりとも防災の分野に寄与できる立場に辿り着いた。
あの頃よりも、少しは人の役に立てるようになったんじゃないかなと考えている。


2011/3/15 追記

沢山の反響ありがとうございました。
同じような経験をされた方もたくさんおられたようで、あの時感じた孤独感が今頃癒されております。

僕は上記のエントリーで一年は待ってみようと書きましたが、そんなに待たなくてもいいようです。
すでにNGOなどの支援団体が、ボランティア受け入れに向けて動き出しているみたいですね。
もちろん募集など具体的に動き出すのはまだ先になるでしょうが。

時間と体と情熱のある人は、そういった「人を動かす人」としっかり協力して、自分の能力を最大限に発揮して欲しいです。
もちろん1年、2年、5年、10年スパンで細く長く復興を援助する気持ちもとても大切だと思います。