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《少女像》はどのようにつくられたのか? 〜作家キム・ソギョン、キム・ウンソンの思い
日本では保守メディアが「反日」の象徴として攻撃のターゲットにしている《少女像》(正式名称「平和の碑」)。
2015年1月、その《少女像》が初めて日本にやってきました。制作した彫刻家のキム・ソギョンさん、キム・ウンソンさんが語った《平和の少女像》にこめた思いとともに、日本でどのような出会いがあったのかを報告します。
「一番大切にしたこと。それは人々と意思疎通できるものにすることでした。だから、小さく低い等身大の像をつくった」 と、キム・ソギョンさんは語りました。その言葉どおり、2015年1月、《平和の少女像》(作家はこう呼ぶ。以下、《少女像》)は初めての日本で、約2700名の人と触れ合いました(*1)。このとき展示された《少女像》は、ソウルの日本大使館前に建てられた像と同じ大きさの、FRPにアクリル絵具で彩色された実物大の作品です。
制作者のキム・ソギョンさん、キム・ウンソンさん(*2)は、美術大学在学中、民主化闘争に参加、その過程で出会って結婚。その後ずっと「民衆美術」の彫刻家として、社会が直面する問題に何ができるかを追究してきました。作品群には、米軍装甲車にひかれ死亡した中学生を追悼する作品(*3)や朝鮮半島の統一を願う作品などがあります。
2011年3月、韓国挺身隊問題対策協議会は、水曜デモ(*4)1000回を記念して「平和の碑」を建てようと、募金を呼びかけました。一時、ソウルを離れていたキム夫妻は、ソウルに戻ってきたばかりで、水曜デモが20年も続いている現実を前に、自らの反省をこめ、自分たちに何かできないかと挺対協を訪れました。これが「少女像」誕生のきっかけです。
《少女像》の細部に宿るもの
キム夫妻は、碑文を刻んだ石碑を建てるだけでは「平和の碑」に込めようとしている意味が十分には伝わらないのではないかと考えました。そこで、「慰安婦」被害者として名乗り出て、この場で平和を訴え続けたハルモニたちが、若い頃に「慰安所」に連れて行かれたことを少女の像で表現しようと提案しました。 《少女像》の細部にはさまざまな意味がこめられています。それらは最初から意図されたものではなく、キム・ソギョンさんが「もし私だったら」「私の娘だったら」と想像しながら土をこねる創作過程で試行錯誤しながら生まれたと言います。細かく見ていきましょう。
《少女像》には長い影㈰があります。長い時間が流れ、少女がハルモニ(おばあさん)になった影です。ハルモニたちの憤りとが積み重なった時間の影。胸にとまった白い蝶は、亡くなったハルモニが生き返り、ともに居ることを表しています。
踵がすり切れたはだしの足㈪は、険しかった人生を表し、地面を踏めず少し浮いた踵は、彼女たちを放置した韓国政府の無責任さ、韓国社会の偏見を問うています。
当時、朝鮮の少女は三つ編みが一般的だったそうですが、作家は思案のあげく、あえて乱暴にむしり取られた短い髪㈫にしました。ギザギザの毛先は、家族や故郷から無理矢理引き離されたことを意味しています。
肩の上の小鳥㈬は、平和と自由の象徴であり、亡くなったハルモニたちと現在のハルモニたち、そして私たちをつなぐ霊媒の役割をもっています。
膝の上の手㈭は、最初はただ重ねられていました。ところが、謝罪どころか像の設置を妨害する日本政府の姿を前に、解決を願い、ぎゅっと握りしめられたと言います。
そして、《少女像》の隣にある空っぽの椅子㈮は亡くなったハルモニの不在を表します。誰もが座って、ハルモニ/少女の心を想像し、共感してもらいたいという願いも込められているのです。さらに、「慰安婦」問題をいまだ解決できない日韓の私たちの宿題を問いかける椅子なのだ、とキム・ソギョンさんは語りました。
《少女像》の隣りに座ってみると
東京の展覧会会場では、ソウルの日本大使館前と同じように、《少女像》の隣に椅子を並べて置きました。作家の希望で、その椅子に座ることができるようにしたところ、毎日たくさんの人が少女の横に座ったり写真を撮ったり、寒い日にはマフラーをかけたり、涙ぐむ姿も見られました。
じつは、こうした展示方法については、初日の朝、《少女像》への攻撃を心配する意見が出され議論になったのですが、その場にいたキム夫妻から「少女像は傷つくのは避けたいが、だからといって、観る人とのコミュニケーションを疎外したくない」という思いを聞き、作品に直接ふれあうような展示にしたのでした。ハルモニの影は写真で壁に貼りました。
会場アンケート三一七通のうち、《少女像》に触れたものがもっとも多く、20代の人からの感想が目立ったのは特筆すべきことです。
「少女像の隣の空席に座りました。緊張しましたが、突然、会いたい人々が浮かびました。少女も会いたかった友だちも家族もいたでしょうね」(20代)
「実際に横に座ってみたら心に響いた。慰安婦だった少女と私、韓国人と私……違うように見えるけど同じ人間で、同じ目線になって考えてほしいという思いがぐんと伝わってきた。慰安婦は遠い存在ではなく、私と同じひとりの少女であると気づかされた」(20代)
「肩を並べて座ってみると、とても不思議な感覚を味わいました。自分の娘とも言っていいような少女が抱えこまされた過酷な苦しみ。その目で何を見ているのかと横顔を至近距離で見ているうちに肩を抱きかかえたい衝動にかられて驚きました」(40代)
「少女がまるで息をしているようで魂を感じました。私たちを凝視しているようで、自分の生き方をただされているような気がしました。トークイベントのときもじっと耳を澄ませているように……」(60代)
《少女像》を「慰安婦」像を一面的なものにしたと批判する人もいます(FFJブックレット3 Q6参照)。しかし《少女像》が連れて行かれた若い頃の姿だけでなく、ハルモニになった影によりその生涯を描いていることも注目してほしいと思います。
《少女像》は「反日」の象徴なのか?
《少女像》は、キム夫妻の資料によると、韓国内一九カ所、米国二カ所に設置されています(2015年10月時点。(FFJブックレット3 裏見返しに「平和の少女像」マップ掲載)。各地の市民や団体らが寄付を集め話し合いをとおして制作されたものだそうです。だからこそ、《少女像》は各地域で多彩な姿を見せています。
たとえば、巨済島(コジェド)の《少女像》は、日本の改憲の動きや韓国の教科書での「慰安婦」記述改悪などを前に座っていられない! と立ち上がり、高陽(コヤン)市では金学順(キム・ハクスン)さんがモデルで、逆に影が少女像になっています。梨花女子大前の通りの《少女像》は、「平和の蝶(ナビ)」という学生サークルが寄付を集め、学生たちの希望で蝶の羽がつきました。
《少女像》は日本では保守メディアが「反日」の象徴として攻撃のターゲットにしています。しかし、本当にそうでしょうか? 細部を知れば知るほど、日本政府だけでななく、韓国政府・社会、そして観る者のありようまで問いかける作品だと感じます。実際、今回日本の展覧会場での反応はそれを示していると言えるでしょう。
「日本大使館前にあるから《少女像》が不快だと言う人は、なぜ″不快”なのか、それを考えてみてほしい」というキム・ウンソンさんの指摘は心に残ります。
一方、「慰安婦」被害女性たちのなかには「自分の分身」のように考えている人もいます。2013年7月、米カリフォルニア州グレンデールの除幕式に出席した金福童(キムポットン)ハルモニが韓国に戻ってから次のように語ったそうです(*5)。
「少女像と別れるとき、自分の分身を置いて帰るような気持ちになって、悲しくてしかたなかった。身を引きちぎられるようで、なんとも言えない気持ち。海外に出るのはしんどくて大変だけど、平和の碑が建てられるなら、いつでも飛んでいきたい」
この言葉は、被害者であるハルモニの思いにかなうものだったことを伝えてくれます。観る者との意思疎通、被害者女性たちの癒しのためにつくったというこの作品が日本に暮らす人々と交流できたのは、小さいけれども意味ある一歩だと思います。
*1 2015年1月18日から2月1日、東京・練馬のギャラリー古藤で、「表現の不自由展〜消されたものたち」を開催した。https://www.facebook.com/hyogennofujiyu/
2012年東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」で美術館側によって撤去された《少女像》など、表現の自由が侵害された作品を集めた。『表現の不自由展〜消されたものたち』図録(同展実行委員会編集・発行、2015年)http://ira.tokyo/item/book/771/など参照。
*2 キム夫妻については、北原恵氏や古川美佳氏などの論考がある。キム夫妻は、展覧会初日18日(ギャラリー古藤)と翌19日(池袋・豊島区民センター)に来日記念トークを行なった。本稿はそれをもとにさらに筆者が作家に取材して執筆した。
*3 2002年、米軍装甲車にひかれて亡くなった女子中学生ミソンさんとヒョスさん九回忌に追悼のために制作された。
*4 水曜デモについては、尹美香『20年間の水曜日—日本軍「慰安婦」ハルモニが叫ぶゆるぎない希望』梁澄子訳、東方出版、2011年参照。
*5 日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表・梁澄子氏の聞き取り。
【2016年1月10日更新】