Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
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究極の愛

2019年07月07日 23時59分12秒 | 日記
おはようございます。

今日は7月7日。

小暑・浴衣の日・ポニーテールの日……etc

色々とありますが

何と言っても

今日は「七夕」。

「笹の節供」、「織女祭」、「星祭り」などとも言われますが

本来は”旧暦の”7月7日の事なんです。

意外と知られてませんが。

まぁ、現在は陽暦で祝うのが慣例なので

批判する気は一切ありません。

歴史を辿ってみると

中国伝来の行事+日本古来の伝承+盆行事の一環としての行事

などなど、様々な要素が入り混じって出来上がった今日の七夕故に

詳細を事細かに知っている方なんて専門家くらいじゃないでしょうか。

私も一応文化を専攻している身ですから

事細かに研究しようと思えばしても良いのですが

ここで語るのは何かと面倒なほどこの行事は複雑に様々な要素が組み合わさっています。

何はともあれ

皆さんも民衆に伝わる大まかな話はご存知でしょう。

天の川の両岸にある「ひこぼし」(アルタイル)と「おりひめ」(ベガ)が

年に一度相会する話です。

地上で愛し合いすぎて、仕事を疎かにした二人の仲を

快く思わぬ神が二人を引き裂き

年に一度しか逢えぬようにしてしまった的な下りだった気がします。

こんな結ばれぬ二人の関係から連想した作品があります。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

原作は七月隆文。

2016年に福士蒼汰、小松菜奈主演で実写映画化されました。

作者の苗字からも連想させてくれますね。

個人的には名前自体に縁を感じる次第ですが

それはどうでも良い事。

ざっとあらすじを述べると

生きる時の流れが相反していて、5年に一度、30日しか会えぬ

20歳の男女の恋愛模様を描いた話です。

ざっと過ぎて分からない人・気になる人は原作読むか映画観てください。

(以下分かりやすい映画版を基に綴ります。)

重要なのは『5年に一度、30日しか会えぬ』ところです。

二人はそれぞれ5歳の時に35歳の互いに命を助けられ

彼は10歳で30歳の彼女に再会し

彼女は15歳で25歳の彼に再会しています。

二人は誰の目から見ても相思相愛な訳ですが

35と5だったり、10と30は、これもう犯罪です。

だから(なのか)手は出していません。

節度を守った付き合いをしている二人です。

15と25はギリな所ありますが

作中ではしっかりと正しい距離感で描かれています。

つまり!

相思相愛の二人が再会しても

恋愛出来るのは互いが20歳の頃だけ。

しかもたった30日のみ。

絶対に家族になれぬ二人。

互いに愛し合っているのに。

私はかつてある作家に『究極の愛』を問われた事がある。

当時、中学生だった私。

恋愛経験はゼロだった。

誰かを愛したこともなかったし

誰からの愛も感じていなかった。

(反抗期故悪しからず。両親ゴメンよぉ!)

そんな私はこの問いの答えが分からなかった。

知らぬ概念を人は認識すら出来ない。

私は『究極の愛』を「きゅうきょくのあい」としか考えられなかった。

それから数年の月日が過ぎた。

年ばかり取って経験は皆無だが

一つの答えを得ることが出来た。

全ての出来事が帰結する答えを。

『究極の愛』とは「叶わぬもの」なのだ。

叶った愛はそれにどれほどの価値があろうと

決して究極には成り得ない。

故に『究極の愛』とは死よりも残酷なものなのである。

私には『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』以外に好きな恋愛小説がある。

『君の膵臓をたべたい』

原作は住野よる。

あらすじは述べるまでもないだろう。

Eureka.

我思う。

七夕の伝説と

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

そして

『君の膵臓をたべたい』

これらに『究極の愛』を見た。

見えているのに届かない。

触れることは決して出来ない。

現実世界に生きながら

次元をひとつ欠如してしまった私の

この虚しさはどこへぶつければ良い。

生きて形ある限り、この苦しみからは逃れられないのであろう。

苦しみからの逃避の思いを込めた短冊。

曇天を突き抜け、果たして届いたのだろうか。

七夕の夜はもうすぐ終わります。

              それでは bye! Konemy

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