我が国の官僚が、選挙結果に左右されることなくその地位をほぼ保障されるようになったのは、
1932年の斎藤内閣における文官分限令の改正以降だ。
同年「国維会」が設立され、
中村隆秀氏の「昭和史」によると、
「官僚たちには、天皇の官吏としての特有の正義感があった」
そうだ。
ならば戦後、「日本国憲法」のもとで官僚たちはその「正義感」の基準をどこに置いているか。
今わたしが一番関心のあるところだ。
官僚たちは、
日本国憲法をその「正義感」の根拠としているのか、
旧態然の「国体」なのか、
あるいはアメリカ国の「力」に全面降伏しているのか。
矢部宏治氏は『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、
アメリカ国の「力」を示唆している。
わたしもそこは飲み込めるのだが、
しかし、従面腹背のプロである有能な日本の官僚だ。 実は・・・。
そう思い込むと「官僚性善説」になってしまうが、私はまだその希望を捨てられない。
気骨のある官僚がナンバー2以降に、意外と少なからず棲息しているのではないかとほのかな期待をしている次第だ。
「官僚性善説」と言う訳ではないのだが・・・。
1932年の斎藤内閣における文官分限令の改正以降だ。
同年「国維会」が設立され、
中村隆秀氏の「昭和史」によると、
「官僚たちには、天皇の官吏としての特有の正義感があった」
そうだ。
ならば戦後、「日本国憲法」のもとで官僚たちはその「正義感」の基準をどこに置いているか。
今わたしが一番関心のあるところだ。
官僚たちは、
日本国憲法をその「正義感」の根拠としているのか、
旧態然の「国体」なのか、
あるいはアメリカ国の「力」に全面降伏しているのか。
矢部宏治氏は『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、
アメリカ国の「力」を示唆している。
わたしもそこは飲み込めるのだが、
しかし、従面腹背のプロである有能な日本の官僚だ。 実は・・・。
そう思い込むと「官僚性善説」になってしまうが、私はまだその希望を捨てられない。
気骨のある官僚がナンバー2以降に、意外と少なからず棲息しているのではないかとほのかな期待をしている次第だ。
「官僚性善説」と言う訳ではないのだが・・・。