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7:阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加~星飛雄馬と中村紀洋

2022-04-23 23:27:36 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 61~70件目 (teacup.com)/

/阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 68 (teacup.com)/

阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時37分50秒 返信・引用 編集済
  阪急、近鉄、オリックス、楽天  2007/ 3/26 9:53 [ No.71 / 433 ]

球団名変遷と監督の名前、在任期間などはWikipediaから。

阪急ブレーブス(1947年~1988年)
近鉄バファローズ(1962年~1998年)

1963年~1973年 阪急、西本幸雄監督
1968年~1970年 近鉄、三原脩監督

1968年
日本シリーズ、巨人・阪急戦
スペンサーが擬似花形打法で星飛雄馬の大LB1号をファウルにするが、次にグリップエンドに当てる新型大LB1号に敗れる。
スペンサーは勝負の途中、飛雄馬に"Come on, baby.",終わってから "Little Giant."と言った。

1969年
星一徹が「西鉄の中西(太)監督に止めをさし、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・三原(脩)監督」との談。
オールスター、セ・リーグの攻撃で近鉄のエース鈴木から花形満(阪神)がヒット、一塁打。続く代打・左門(大洋)の犠牲バントで花形は二塁に進塁。

1970年
三原脩監督の近鉄バファローズに仰木彬がコーチとして就任。
巨人対近鉄(オープン戦)で星飛雄馬が太田幸司と投げ合う。土井正博から奪三振。

巨人対阪急(オープン戦)で石井晶が星飛雄馬の消える魔球に対し、左門の「土煙なぎ拂い」打法を試してボールの変化を見るが打てずに三振。

1973年秋
阪急が江川卓を指名。
東京メッツは唐部と丘を指名(TO砲)。

1974年~1978年 阪急、上田利治監督

1975年日本シリーズ
伴が長嶋邸に向かう車のラヂオで「阪急が廣島に勝って日本一」の放送。アナウンサーまたは解説者が「上田監督以下の阪急勢にしてみれば、やはり、宿敵巨人を倒して日本一の美酒に酔いたかっただろう」という主旨の評。

1976年
長嶋Gリーグ優勝。前年最下位から復活。
日本シリーズで、星のノーコンへの報復として阪急打線がピッチャー返し。
飛雄馬はスクリュースピン・スライディングで防ぎ、敢闘賞。
日本一は阪急。
「巨人は前年最下位なので今年日本一になったら行きすぎ」と言われたが、長嶋は「勝負に行きすぎはない、日本一を逃したのは無念」と述べ、飛雄馬に制球力改善の命じる。

1977年日本シリーズ
阪急相手に打者・飛雄馬が本塁打。

1976年と'77年は長嶋巨人がセ・リーグで連覇するものの、日本一は連続して阪急に阻まれ、飛雄馬は大LB右1号開發を目指す。

1988年~1992年 近鉄、仰木彬監督

1989年 阪急がオリックス・ブレーブスに(~1990年)。

1990年~1994年 野茂英雄、近鉄に在籍、背番号11。
1991年 オリックスの球団名がブルーウェーブに(~2004年)。
1992年~2000年、イチロー、オリックスに在籍。

1994年~2001年 オリックス、仰木彬監督

1994年秋ドラフト~'95年春開幕
通天閣高校の坂田三吉が近鉄に入団。
明訓高校の殿馬一人がオリックスに入団、イチロー在籍。
オリックス・ロッテ戦で殿馬が伊良部から2塁打。
名づけて「秘打美しき青きブルーウェーブ」。

1999年
近鉄が大阪近鉄バファローズに(~2004年)。

2004年
東京スーパースターズと四国アイアンドッグスが成立。
→殿馬はスーパースターズに、坂田はアイアンドッグスに入団。

2005年
オリックスが近鉄と合併してオリックス・バファローズに。
仰木彬氏が再び監督に就任するが健康上の理由で1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任、12月15日没。
東北楽天ゴールデンイーグルス誕生。近鉄とオリックスから選手を多数獲得。
2005年シーズン終了で、楽天の田尾監督解任。

2006年
元西武、元巨人の清原がオリックスに移籍し、この年から現役。
楽天監督に野村克也が就任。
9月25日に行われたドラフト会議(高校生の部)で夏の甲子園大会準優勝・駒大苫小牧の田中将大投手を1巡目指名(Wikipediaより)。

71←Yahoo!掲示板
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近鉄と大洋、追加(1970年の流れ)  2007/ 3/30 19:33 [ No.84 / 433 ]

1970年
左門と花形が飛雄馬と後楽園球場で非公式に対決。左門はバットで土煙をなぎ拂い、ボールの変化を明らかにするが、伴が打撃妨害。伴は後頭部を負傷、出血するがすぐ完治。

三原脩監督の近鉄バファローズに仰木彬がコーチとして就任。
巨人対近鉄(オープン戦)で星飛雄馬が太田幸司と投げ合う。土井正博から奪三振。

左門は新宿で京子と遭遇。

巨人対阪急(オープン戦)で石井晶が星飛雄馬の消える魔球に対し、左門の「土煙なぎ拂い」打法を試してボールの変化を見るが打てずに三振。

後楽園のオールスターで太田幸司が王貞治と対戦。

オールスターで左門と花形が友情の三重殺、飛雄馬の危機を救う。

大洋は大LB3号と初対戦で長田(通称「ポパイ」)など連続三振。左門三塁ゴロ。
別当監督の指示で近藤昭仁(1993年-1995年、横浜監督)が大LB3号に対し耐球作戦を試みるがカウント2-3の後、ストライクで三振。
唯一のヒットは投手・平松。最終打者左門が三振して試合終了。

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ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時00分44秒 返信・引用 編集済
  ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ  2007/ 3/26 18:33 [ No.75 / 434 ]

球団名、本据地変遷と監督名はWikipediaより。

毎日オリオンズ(1950年~1957年)

1950年~1962年 - 後楽園球場

→毎日大映(大毎)オリオンズ(1958年~1963年)

1962年~1972年 - 東京スタジアム

→東京オリオンズ(1964年~1968年)

→ロッテオリオンズ(1969年~1991年)

1970年
東京でのオールスターでロッテのアルトマンが水まき作戦で星飛雄馬の消える魔球を強打。
次の大阪でのオールスターではアルトマンが星飛雄馬の大LB3号を三振。

1973年~1977年 - 県営宮城球場(現フルキャストスタジアム宮城)

1973年~1979年 - 金田正一(第1次)

1973年
春の巨人対ロッテのオープン戦で、番場蛮が「大回転魔球」で4連続奪三振。

1974年
「野球狂の詩」→「おれは長島だ」では中日セV.
「〃」→「北の狼南の虎」ではメッツセV→「白球七五三」の日本シリーズでメッツはロッテと対戦。

1978年~1991年 - 川崎球場

1990年~1991年 - 金田正一(第2次)

1990年
千葉マリンスタジアム竣工。

1992年~ - 千葉マリンスタジアム

1992年
千葉マリンスタジアムが本据地に。

→千葉ロッテマリーンズ(1992年~)

1994年秋~1995年開幕以降~
千葉ロッテが明訓高校の里中智を指名。翌年から現役開始。里中はロッテの COOLMINT ガムのCMも器用された。
ロッテの伊良部がオリックスの殿馬(明訓高校OB)と対戦。
オールスターで里中が西武の山田とバッテリーを組む。

1995年 - ボビー・バレンタイン(第1次)

2004年~ - ボビー・バレンタイン(第2次)

2005年
千葉ロッテ日本一。
水島漫画では、2005年日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツの対戦。

75←Yahoo!掲示板
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ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズII  2007/ 4/22 20:39 [ No.122 / 434 ]

球団名、本据地変遷と監督名はWikipediaより。

毎日オリオンズ(1950年~1957年)

1950年~1962年 - 後楽園球場

→毎日大映(大毎)オリオンズ(1958年~1963年)

1962年~1972年 - 東京スタジアム

→東京オリオンズ(1964年~1968年)

→ロッテオリオンズ(1969年~1991年)

1970年
東京でのオールスターでロッテのアルトマンが水まき作戦で星飛雄馬の消える魔球を強打。
次の大阪でのオールスターではアルトマンが星飛雄馬の大LB3号を三振。

1973年~1977年 - 県営宮城球場(現フルキャストスタジアム宮城)

1973年~1979年 - 金田正一(第1次)

1973年
春の巨人対ロッテのオープン戦で、番場蛮が「大回転魔球」で4連続奪三振。

1974年
「野球狂の詩」→「おれは長島だ」では中日セV.
「〃」→「北の狼南の虎」ではメッツセV→「白球七五三」の日本シリーズでメッツはロッテと対戦。

1978年~1991年 - 川崎球場

1982年
落合博満が初の三冠王。

1990年~1991年 - 金田正一(第2次)

1990年
千葉マリンスタジアム竣工。

1992年~ - 千葉マリンスタジアム

1992年
千葉マリンスタジアムが本据地に。

→千葉ロッテマリーンズ(1992年~)

1994年秋~1995年開幕以降~
千葉ロッテが明訓高校の里中智を指名。翌年から現役開始。里中はロッテの COOLMINT ガムのCMも器用された。
ロッテの伊良部がオリックスの殿馬(明訓高校OB)と対戦。
オールスターで里中が西武の山田とバッテリーを組む。

1995年 - ボビー・バレンタイン(第1次)

2004年~ - ボビー・バレンタイン(第2次)

2005年
千葉ロッテ日本一。
水島漫画では、2005年日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツの対戦。

122←Yahoo!掲示板  


東映フライヤーズ、日本ハムファイターズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時02分58秒 返信・引用 編集済
  東映フライヤーズ、日本ハムファイターズ  2007/ 3/26 10:05 [ No.73 / 434 ]

→東映フライヤーズ(1954年~1972年)
本据地;東京都(1952年~2003年)

球団名と本据地の変遷、監督在任期間はWikipediaより。

1967年終盤
巨人と東映フライヤーズの二軍戦で星飛雄馬が登板。東映の二軍監督は元阪神の藤村富美男。
前半は三振と内野への凡打だけで、8回で東映初ヒット、その後外野フライが続いた。結果は星の準完全試合。

1970年
オールスターで日ハムの張本が大LB3号を三振。
張本は3号を「バットをよける球」と見抜く。

→日拓ホームフライヤーズ(1973年)
→日本ハムファイターズ(1974年~2003年)

1974年ごろ
日ハムが明訓高校の土井垣を指名。
大澤監督は忍びで明訓を訪れ、部員に指導。

1975年
明訓が弁慶に負けて土井垣が日ハム入団。

1975~76年?
土井垣はプロ入り初打席で初本塁打。

監督;大澤啓二(1976年-1983年【第1次】)

1976年
日本ハムから張本勲が巨人に移籍。
宮崎キャンプでテスト生・星飛雄馬と遭遇。

1994年
白新高校の不知火守が日ハムに入り、土井垣とバッテリーを組んで、対近鉄戦でノーヒットノーラン。

→北海道日本ハムファイターズ(2004年~)
→北海道(2004年~)

73←Yahoo!掲示板
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東映フライヤーズ、日本ハムファイターズII  2007/ 4/22 23:57 [ No.123 / 434 ]

→東映フライヤーズ(1954年~1972年)
本据地;東京都(1952年~2003年)

球団名と本据地の変遷、監督在任期間はWikipediaより。

1967年終盤
巨人と東映フライヤーズの二軍戦で星飛雄馬が登板。東映の二軍監督は元阪神の藤村富美男。
前半は三振と内野への凡打だけで、8回で東映初ヒット、その後外野フライが続いた。結果は星の準完全試合。

1970年
オールスターで東映の張本が大LB3号を三振。
張本は3号を「バットをよける球」と見抜く。

→日拓ホームフライヤーズ(1973年)
→日本ハムファイターズ(1974年~2003年)

1974年ごろ
日ハムが明訓高校の土井垣を指名。
大澤監督は忍びで明訓を訪れ、部員に指導。

1975年
明訓が弁慶に負けて土井垣が日ハム入団。

1975~76年?
土井垣はプロ入り初打席で初本塁打。

監督;大澤啓二(1976年-1983年【第1次】)

1976年
日本ハムから張本勲が巨人に移籍。
宮崎キャンプでテスト生・星飛雄馬と遭遇。

1994年
白新高校の不知火守が日ハムに入り、土井垣とバッテリーを組んで、対近鉄戦でノーヒットノーラン。

→北海道日本ハムファイターズ(2004年~)
→北海道(2004年~)

123←Yahoo!掲示板
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ヤクルト、アトムズ、スワローズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時06分46秒 返信・引用 編集済
  ヤクルト、アトムズ、スワローズ  2007/ 3/25 21:10 [ No.68 / 434 ]

球団名の変遷はWikipediaより。

国鉄スワローズ(1950年~1965年)

1958年
国鉄スワローズの金田正一が巨人の新人・長嶋茂雄と対戦。4打席連続三振。王も四球の他は三振が続いた。

→サンケイスワローズ(1965年途中)
→サンケイアトムズ(1966年~1968年)

1967年末
一徹が「(飛雄馬の缺点に気付くのは)中日の江藤か、大洋のスチュアートか、近藤(和)か、阪神の山内か、あるいは自分が速球投手だった産経の新監督・別所か?それともまた黄金のルーキー・花形満か、努力の鬼・左門豊作か?」と語る。
「産経」はサンケイアトムズのこと。

1968年~1970年 :監督→別所毅彦

→アトムズ(1969年)

1969年
サンケイアトムズが、ただのアトムズに。
飛雄馬、アトムズとの二軍戦で大LB1号復活。相手チームは「運が悪いね、我等アトムズ二軍」。

9月14日
「巨人の星」ではこの日、セ・リーグはこういう試合。

廣島○―●阪神(時間は昼か夜か、場所は廣島か甲子園か不明)
中日○―●アトムズ(夜間で、場所は中日球場)
巨人○―●大洋(夜間、投手は勝・渡辺←→敗・平松、後楽園球場)

中日がアトムズに勝利。本塁打数では巨人の王、アトムズのロバーツ、中日のA・オズマが猛進撃。

星が川上監督を相手に大LB2号を初披露し、ベンチで星の投球フォームを見た長嶋と王が「もともと星の足はアトムズ別所監督(巨人OB)の現役時代と同じくらい高く上がったが、ますます高くなってフォームが変わっている」と批評。
飛雄馬は「中秋の名月」を見上げ、自分の魔球をアポロ月着陸に喩えた。

→ヤクルトアトムズ(1970年~1973年)

1970年秋
眉月光がヤクルトアトムズに入団。

1971年~1973年 :監督→三原脩

1972年
番場蛮が「ハイジャンプ魔球」で眉月を三振に打ち取る。

1973年
アニメ「侍G」で眉月が「大回転魔球」を打倒。

→ヤクルトスワローズ(1974年~2005年)

1974年
ヤクルトがアトムズからスワローズに。

1975年
大洋の左門豊作が伴宙太に貸した「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場のシュート。
阪神・古沢のスライダー。
ヤクルト・松岡のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年~1979年 :監督→広岡達朗

1977年
花形満が広岡監督(前年から)のヤクルトスワローズに入団。
不振の飛雄馬からマニエルと花形が本塁打。
巨・ヤ戦で王貞治が756号本塁打。不振で落ち込む飛雄馬を花形が見つめていた。

1978年
花形が蜃気楼の魔球を本塁打。
原作では巨人が中日、廣島に勝つことでヤクルトの順位が浮上。
アニメ「新巨II」では花形が途中で引退し、巨人Vという設定。

1994年
新聞記事で「ヤクルト・古田のような不動の正捕手がいる球団も明訓の山田太を指名する可能性が高い」との分析。
ドラフトではこの予想どおり、ヤクルトが明訓・山田を指名。
記者は「捕手出身の野村監督は山田の良さを分かっているから当然だろうな」。結局、山田は東尾監督のライオンズに入団。

1995年
江川学院の中二美夫(あたるふみお)がヤクルトに入団。2004年に四国アイアンドッグスに移籍。

→東京ヤクルトスワローズ(2006年~)
本据地は一貫して東京都。

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赤ヘル軍団・廣島カープの歩み  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時11分30秒 返信・引用 編集済
  赤ヘル軍団・廣島カープの歩み  2007/ 3/26 9:35 [ No.70 / 434 ]

1950年(球団成立年)
「廣島カープ」設立。
「はだしのゲン」で近藤隆太がカープを熱烈に応援。

1968年
球団名が「廣島東洋カープ」に。

1970年
中日球場の中日・廣島戦で伴宙太が代打本塁打。

1974年
10/14、後楽園で中日が巨人に勝ってセV.
同じ日、国分寺球場で最下位のメッツが廣島を相手に最終戦。
この年入団した長島太が3打席目で初本塁打。そのまま引退を表明。

1974年ごろ?
廣島の衣笠祥雄がメッツの投手・立花薫(当時15歳)の球を打つが、観客から「どうして打つんだ、可哀そうじゃないか」と批判される。

監督;古葉竹識(1975年~1985年)

1975年
アニメ「新巨」で飛雄馬が入った料理店で巨人・廣島戦を中継。堀内恒夫の球を衣笠祥雄、山本浩二が打ち、外木場義郎が王貞治を凡打に打ち取る。
(原作では巨人・阪神戦で、新浦が猛虎打線によって連打されていた)
廣島セV.日本シリーズでは阪急に敗れる。

1975年
大洋の左門豊作が伴宙太に貸した「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場のシュート。
阪神・古沢のスライダー。
ヤクルト・松岡のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年
オールスターでセ・リーグ古葉監督が飛雄馬を外野に起用。
武藤兵吉が廣島に入団し、メッツの水原勇気のドリームボールを打つ。

監督;山本浩二(1989年~1993年)

1989年
童夢くんのライバルに廣島のアンディとカルロス。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1995年
土佐丸高校の犬神が廣島に入団。2004年から四国アイアンドッグス。

監督;山本浩二(2001年~2005年、第2期)
監督;マーティ・ブラウン(2006年~)

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南海、ダイエー、ソフトバンクホークス  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時13分22秒 返信・引用 編集済
  南海、ダイエー、ソフトバンクホークス  2007/ 3/26 9:57 [ No.72 / 434 ]

球団変遷と監督の在職期間はWikipediaから。

→南海ホークス(1947年途中-1988年)

1970年 - 1977年 監督;野村克也

1970年
東京のオールスターで南海の野村が「帽子落とし作戦」を使い、星飛雄馬の消える魔球をヒット。
大阪のオールスターで野村は星の大LB3号を三振。野村は終始、腹を立て、三振後、バットをグラウンドに叩きつけた。
野村、張本、アルトマンが新聞社の企画で料亭で座談会。野村は「最後の一球ではわしも気を沈め、これは絶好球と見極めたが、狐につままれたように結果は三振だった」と怪しいコメント。張本が「大LB3号はバットをよける魔球だ」との見解を示し、野村とアルトマンも同意。

1973年
景浦安武が南海ホークスに入団。
アニメ「侍G」で野村は番場蛮に「ささやき戦術」を仕掛ける。

1974年
オールスターで野村が番場蛮の「ハラキリ・シュート」の弱点をつく。

1974~76年
巨人学園の対戦高校の一つが全員南海ファンで、捕手は「野村」を名乗っていた。

1975年
土井垣が日ハムに入ったのを受け、犬飼小次郎が南海ホークスに入団。

1977年
元阪神・花形がヤクルトに入団して球界復帰。野村が「ささやき戦術」を仕掛けるが効果なし。

1980年
景浦安武が桂木サチ子と結婚。

→福岡ダイエーホークス(1989年-2004年)

1988~89年
ダイエーの中内功が球団を買収。
南海ホークスが福岡ダイエーホークスに。
コサキンのラヂオで「かわいそうな人はナニワの南海ファンと『あぶさん』」という投稿があった。

1994年
ダイエー監督就任予定の王貞治が明訓の岩鬼を指名、くじ引きで獲得。
元南海の野村はヤクルトの監督として明訓の山田を指名するが、10球団で取り合いとなり、くじ引きの結果、山田は東尾監督の西武ライオンズに入団。

1995年 - 監督;王貞治(2006年シーズン途中の7月6日から2006年シーズンオフまで手術のため休養。森脇浩司が代行)

1995年
王貞治がダイエー監督に。

→福岡ソフトバンクホークス(2005年-)

2005年
親会社が変わり、ソフトバンクホークスに。
この年9月19日、ダイエー創業者・中内功没。

2006年
楽天監督に野村克也が就任。
王監督が入院、森脇浩司が代行。

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ライオンズ、レオ軍団の足跡  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時14分29秒 返信・引用 編集済
  ライオンズ、レオ軍団の足跡  2007/ 3/26 17:15 [ No.74 / 434 ]

(球団名変遷と過去の監督はWikipediaより。監督名は取り上げた出来事に関するもののみ引用)

→西鉄ライオンズ(1951年-1972年)

中西太(1962年~1969年)

1969年
中日コーチ・星一徹のことばで「西鉄の中西(太)監督に止めをさし、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・三原(脩)監督」が出る。

稲尾和久(1970年~1974年)

(球団名変遷)
→太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)

1973年ごろ
夏の甲子園で中九州代表・阿蘇高校が優勝し、王島大介は地元の人から「プロなら地元太平洋ライオンズに入ってくれ」と言われる。しかし、王島は阪神から指名され、入団。記者いわく「稲尾さん('73~'74太平洋L監督)、かわいそう」。その代わり、優勝投手の山川が地元九州の太平洋ライオンズに入団。

1975年
星一徹が花形満に「レオ・ドローチャーを監督に迎えがった酔狂な球団もある時世…」と言って、"ビッグ"ビル・サンダーをプロ球団に紹介して星飛雄馬から引き離すよう要請。

レオ・ドローチャー(1976年)
→病気のため指揮をとることなく退団。

鬼頭政一(1976年~1977年)

(球団名変遷)
→クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)

1977年
ドラフトでクラウンライターライオンズが江川卓を指名。

根本陸夫(1978年~1981年)

1978年初め
星飛雄馬がハワイで江川と間違えられる。伴が「星はクラウンライターライオンズの指名を断ってアメリカに行った江川と間違えられているぞ」。

(球団名変遷)
→西武ライオンズ(1979年-)

1979年
元阪神・田淵が西武ライオンズに入団。

1979~80年
「がんばれ!! タブチくん!!」
→扱っている時代は'77年から。

広岡達朗(1982年~1985年)

東尾修(1995年~2001年)

1994年
明訓の山田が東尾監督の西武ライオンズに入団。当時、清原在籍。山田は2004年から東京スーパースターズに移籍。

1998年
室戸学習塾OBの犬飼知三郎が西武入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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梶原&水島漫画の高校野球史 I  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時37分11秒 返信・引用 編集済
  梶原&水島漫画の高校野球史 I  2007/ 3/26 21:13 [ No.76 / 434 ]

藝能面の資料:Wikipediaより。

1937年(昭和12年)
ラヂオで熊本工業と中京商業の中等野球大會(今の甲子園大会)の決勝戦を中継。熊本工業の投手は川上。若き星一徹がラヂオを聴きながら川上を応援(アニメ版「巨人の星」)。

1938年(昭和13年)
「鉄五郎のバラード」

1940年(昭和15年)
18歳の岩田鉄五郎が第26回全國中等學校體育競技總力大會で優勝。

1958年
第40回大会で徳島商の板東英二が1試合25奪三振を記録。
早稲田実業高校時代の王貞治が星飛雄馬と対戦(「巨人の星」)。

1959年
徳島商から板東英二が中日に入団。
早稲田実業高校から王貞治が巨人に入団。この年から現役。

1959~1960年
麻丘めぐみ(1955年10月11日~)が4歳で子役として藝能界デビュー。

1965~1966年
甲子園で尾張高校優勝(「巨人の星」)。

1966~67年
夏の甲子園で太刀川投手の尾張高校、敗退。
左門豊作の熊本農林高校は準決勝で敗退。
神奈川代表・紅洋高校が優勝。
準優勝は青雲高校(「巨人の星」)。

1970年
高知予選で番場蛮の土佐嵐高校が敗れる(「侍ジャイアンツ」)。

1970~1971年? 春
北海道の火浦健と九州の王島大介が高校入学?

1971年2月
北海道の高校野球投手・火浦健が退部後、傷害事件を起こして服役2年。

1971~1972年? 春
王島大介が高校2年に進学?

1972年
麻丘めぐみが「芽ばえ」でデビュー。
桜田淳子が『スター誕生!』で優勝。

1972~1973年? 春
王島大介が高校3年に進学?

1972~1973年ごろ
3年生の名三塁手・国立玉一郎の白新高校は甲子園に出場するも決勝で敗れ、準優勝。ドラフトでメッツが国立を指名し獲得、阪神が山井を指名するも山井は拒否(「熱球白虎隊」)。
王島大介の阿蘇高校が優勝(「北の狼南の虎」)。
富樫平八郎と日下部了の新潟西高校野球部で麻丘めぐみと桜田淳子が人気。
甲子園で日下部了の新潟西高校が優勝(ウォッス10番」と「ガッツ10番」の間)。

1973年
桜田淳子が『天使も夢見る』で歌手デビュー。
麻丘めぐみの「わたしの彼は左きき」が大ヒット。

1973年
宮崎代表・日高三高が甲子園で準決勝に進出(「巨人の星外伝・それからの飛雄馬」)。
1973年ドラフト
メッツが唐部と丘と1位、2位で指名。阪急が江川を指名。

ドラフトで南海が日下部を1位で、メッツが富樫平八郎を3位で指名。日下部は早稲田大学に入学(「ガッツ10番」)。

梶原&水島漫画の高校野球史 II  2007/ 3/26 21:14 [ No.77 / 434 ]

1974年?
富樫はメッツに入団。丘から背番号10番を継承(「ガッツ10番」)。

1974年
(唐部と丘がメッツ一軍デビュー。)
山田太、里中智、岩鬼正美、殿馬一人が明訓高校入学。
甲子園で優勝。
高知代表は土佐丸、大阪代表は通天閣。千葉代表はクリーンハイスクール。
ドラフトで東京メッツが早稲田大学の日下部了を指名(作中では大学4年という設定)。

1974~1976年?
甲子園で大阪代表・南波高校が巨人学園と対戦して勝利。

1975年
(日下部と富樫が一軍デビュー。)
甲子園で明訓が弁慶高校に敗れる。通天閣高校が優勝。

1976~1985年?
夏の甲子園の高知代表は室戸学習塾。
室戸ナインが試合中に松田聖子の「瞳はダイアモンド」(1983年10月28日)や小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」(1983年11月1日)などを唱う。

/小泉今日子 - 知誕Wiki (tisen.jp)/

大阪代表は藤村球二、球三兄弟の南波高校で、東京の光高校に敗れる。

千葉代表は青田高校。
青田・明訓戦で青田の中西球道が9者連続奪三振。1926年第12回大会より57年ぶりと言われた。

同じく中西球道が1試合26奪三振。これは1958年の第40回大会から24年ぶりとされた(「大甲子園」←豊福きこう「水原勇気0勝3敗11S」辰巳出版1992より)。

明訓対青田の準決勝再試合で明訓高校の先発投手である岩鬼が「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球、昭和60年当時に阪神タイガースに在籍していたゲイル投手、バース選手らの物真似(Wikipedia「大甲子園」より)。

1994年
明訓高校が春夏連覇(「ドカベンプロ野球編」)。
山田、里中、殿馬、岩鬼、微笑がドラフトで指名される。

2006年
第88回全国高校野球選手権大会で、早稲田実業の斎藤佑樹投手が78奪三振(7試合、69回)をマーク。夏の大会では1958年の第40回大会で板東英二投手(徳島商)が奪った83三振(6試合、62回)に次ぐ記録(「時事通信」および「デイリースポーツ」より)。

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「巨人の星」と「ドラえもん」の1970年  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時45分8秒 返信・引用 編集済
  「巨人の星」と「ドラえもん」の1970年前半  2007/ 3/30 9:28 [ No.82 / 434 ]

「獅子の時代」で描かれた巴里(Paris)万博が開催された1867年から103年後。
1970年(昭和45年)。大阪万国博覧会が開かれた年。

この年の初め、東京讀賣巨人軍の星飛雄馬投手は大リーグボール2号・消える魔球で世間の話題をさらっており、新年早々、中日の外国人選手・アームストロング・オズマが帰国。中日の星一徹コーチは前年末に決定していた巨人・伴宙太捕手のトレードを発表。
1970年初、阪神の一塁手・花形満は村山実監督の自宅に新年の挨拶に行った際、監督の言葉から消える魔球の正体を察知し、火鉢で実験を披露する。
一方、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の右翼手・左門豊作は妹・弟たちとの団欒から消える魔球打倒のヒントである「100-80=20」を考え付く。
当の飛雄馬はマンションの自室で伴宙太を迎え入れ、ファンや姉・明子からの年賀状を見せ、川上監督から伴トレード拒否の電話を受ける。

同じく1970正月、東京都内の会社員・野比のび助の長男・のび太(小学生)の部屋に22世紀から猫型ロボット・ドラえもんと野比のび太の孫の孫・セワシがタイムマシンで来訪した。
ドラえもんとセワシが持ってきたアルバムによると、のび太は1970年2月6日ダンプカーにはねられ、1979年に大学を受けるも落第(ここからのび太は70年当時9~10歳の小4、從って野田聖子や吉森こずえ氏と同じく1960年頃生まれ、2006年時点で46歳程度と思われる)、1988年、自分で会社を設立し、翌89年に剛田武の妹・ジャイ子と結婚、93年に会社が火災に遭い、95年に会社が倒産することになっていた。
後に野比のび太の生年は植木等主演の「日本一のホラ吹き男」が上映され、東京五輪が開催された「1964年」と設定され、のび太は向井亜紀と同年生まれとなった。

ドラえもんとセワシの働きで、交通事故は免れ、のび太は玩具のミニカーを額に受けるだけで済んだ。

一方、1970年のシーズン開幕前、飛雄馬は伴を打者として鍛えようと打撃練習投手を勤めるが時既に遅く、花形は六甲山で雪玉に仕込んだボールを打つ特訓をし、左門は九十九里浜で蝋燭と波頭を相手に素振りの特訓。それを星一徹から聴いた外遊中の川上哲治は急遽、伴トレード承諾を決定して帰国。到着した空港に一徹が待ち受け、その場でトレードが成立した。
飛雄馬と伴は青雲高校の学友だった漫画家・牧場春彦の招きで後楽園球場での座談会に出席するが、そこで花形と左門からの挑戦を受け、消える魔球の敗北を痛感する。
伴は打撃妨害をし、左門のバットを後頭部にうけて出血するもすぐに完治。
伴は街で再会した星明子から「中日へ行って飛雄馬と戦うべきです」と言われ、中日移籍を決意。

明子は前年から飛雄馬が勝負に徹するように家を出るなど、男たちを勝負に駆り立てながら、飛雄馬がこの年の終わりに失踪して5年後に巨人復帰を目指すと、明子は「飛雄馬はどうして戻ってこないの、もう野球はやめて」などと泣いており、結構、自分勝手である。

1970年シーズン開幕。巨人VS中日戦で、解説は前年引退した金田正一。巨人の先発・高橋一三は就任2年目の水原監督率いる龍打線の猛攻に遭い1死満塁のピンチ。飛雄馬は川上監督から大リーグボール1号による併殺を期待されて救援。伴は補缺ながら高木守道の代打として起用される。これには金田も驚いていた。
伴は逆方向の背面スイングで1号をことごとくバックネットに飛ばしてファウルにし、何度も本塁上に倒れる。元柔道選手の伴は受身も上手かった。川上は外角に外れた消える魔球を投げるよう飛雄馬に命令。しかし、伴の轉倒で地面が固められ、ボールは消えなかった。一徹は飛雄馬の投げる姿を見て泣いてしまい、涙をぬぐう仕草が「打て」のサインに酷似していたため、伴は外角低めの球を打ってしまい、結果は投飛併殺。しかし、もしサインがなくても伴は打った可能性があり、見送っていたら巨人ベンチからタイムがかかり、捕手・森が土を足でかき鳴らしてボールが消えるようにした可能性がある。つまり、一徹は川上の策を読みきっていたものの、結果は川上監督の作戦勝ちであった。(続く)

「巨人の星」における1970年後半  2007/ 3/30 9:29 [ No.83 / 434 ]

巨人VS阪神戦。場所は甲子園であろう。
花形は三塁走者・田淵幸一の協力による本塁附近の土煙封じで2号を打つが、柴田が捕ってアウト。次にヘルメット落としで打つが、今度は長嶋の美技でアウト。
長嶋は開幕前、「体重地固め、走者協力、帽子落としの3つに気づいていた」と言っていたが、伴と花形が実行するまで気づかず、「伴が何度も倒れたのは大LB1号封じプラス土煙封じの一石二鳥だったか」などと驚いていた。また、田淵が不自然な三盗をした時点でも長嶋は気づかなかった。長嶋は「これら3つの策はルールにもかない、防ぐことは不可能」と言っていたが、三塁で走者を監視して牽制球を誘えば本盗は防げた。

最後は花形が一本足打法で飛雄馬の投球フォームを崩し、マウンドの方の土を防いで魔球を打った。飛雄馬はその直後、ベンチから何の命令もないのに勝手にマウンドを降りて新幹線に乗って東京に帰ってしまった。
ちなみに、花形は前年1969年、消える魔球と初対戦の際、魔球が縱変化の魔送球だと気づき打倒策まで準備していたが、左門豊作からの電話でこれが100%でないとわかり、自信を失って交代してしまった。もし、この時点で彼の策が走者協力や帽子落としであったら、実行しておけばよかった。

帰京後、飛雄馬は夜の街に出る。左門も消える魔球打倒で花形に先を越された悔しさで同じ街に出る。映画館で2人は不良少女・京子らと遭遇。京子は飛雄馬に恋をしてしまい、それがもとでヤクザから責められ、小指を負傷(飛雄馬はこの時期、ヤクザとの喧嘩や飲酒などをしていた)。
飛雄馬は後楽園のオールスターに登板するも、消える魔球を野村、アルトマンに打たれ、花形と左門の助けで危機を脱する。大阪に向かう新幹線車中、飛雄馬は指を負傷した京子の投げた林檎を左門が取り落とすのを見て大リーグボール3号のヒントを掴む。左門と花形もこれには敗れた。

原作「巨人の星」では最後の巨人VS中日戦は中日球場。飛雄馬は3号で完全試合目前。球がバットの風圧で逃げることに気づいた一徹は試合途中から伴に長時間逆立ちを強要。飛雄馬は最後の1投で左腕の肘と手首の間の筋肉が切れ、指を動かせなくなってマウンドに倒れる。伴が打った打球はライトのフェンスを直撃するが、なぜか 1塁への送球は遠回りの2塁経由だった。それでも伴は体力を奪われて走れず、1塁に触れたのは王貞治が捕球したのと同時。塁審は最初に「アウト」を宣告するが伴から抗議されて動轉し、「セーフ」と言いなおし、今度は王から抗議される。水原は代走を宣言するが、川上は完全試合達成と見なし、一徹も負けを認めた。その日以来、飛雄馬は謎の行方不明をとげる。

アニメ「巨人の星」では最後の試合が後楽園球場で、試合途中から明子が球場の客席に駆けつけ、花形のそばで観戦。明子はチェンジでベンチに戻る飛雄馬が嬉しそうでないのを不審に思う。最後に飛雄馬は左腕が破壊され、伴の打球は左中間を抜けてバウンド。しかし伴は走れず1塁はアウト。観客と共に明子もグラウンドに降り、一徹は飛雄馬を背負って周囲からの拍手の中、球場を後にした。

アニメ「新巨人の星」の「果てなき野球地獄」で1975年夏に飛雄馬を自宅に迎えた明子の回想シーンでは、この70年の試合で伴が代打で登場したとき、まだ明子は球場についておらず、東京行きの新幹線の中。試合終了の瞬間、飛雄馬は「左肩」を壊し、明子は後楽園へ向かうタクシーの中。明子が球場の客席に入ると飛雄馬は担架で球場外に運ばれる最中で、明子はグラウンドに降りてはいない。飛雄馬は長嶋、一徹、花形が同伴する救急車で病院に運ばれ、病室で明子は「もう飛雄馬に野球なんかさせない」と泣いていた。明子と花形の服の色も「巨人の星(終)」と「新」の回想シーンでは違っていた。
どれが本当の「史実」だ?

1970年ドラえもん→巨人の星→侍G  2007/ 3/30 19:35 [ No.85 / 434 ]

「あっとおどろくタメゴロー」は1969年末から1970年正月にかけて、伴宙太のトレードが持ち上がった時期の「巨人の星」に出てくる。

ドラえもんが22世紀から野比家に来訪した1970年初め、帰国したオズマは、本場大リーグでも見えないスイングで活躍。三冠王となるが、仲間の黒人たちが「オズマは白人に黒人の魂を賣った」と嫉妬する。オズマは戦意高揚のため、ヴェトナム戦争に借り出され、そこで爆弾の破片を背中に受けて負傷する。

オズマ帰国当時、飛雄馬は「日米野球の悲願、日米ワールドシリーズで対戦しよう」と言っていたが、1970年にオズマに代わって伴が中日に移籍したあと、飛雄馬が日米野球で対戦したアメリカ代表はSFジャイアンツで、オズマのカーディナルスではなかった。また、対戦したアメリカの野球選手たちはオズマから消える魔球の情報を聞いていなかったのか、知っていても現場で見てやはり驚いたのか、見たところ「予備知識零でなすすべなし」だった。

アニメ「巨人の星」では夏のオールスターで星飛雄馬が大LB3号を開発した後(夏~秋)にオズマが3度目の来日。
飛雄馬と非公式に対戦するがオズマの傷が痛み、再度対戦を約束してオズマはアメリカに戻る。
しかし、オズマは背中の傷に蝕身球を受け、車椅子の生活になってしまい、生まれた貧民街の実家で死んでいく。

星飛雄馬が大LB3号で時代の寵児となっていたとき、吉沢京子が飛雄馬のファンで某マスコミが対談を要請、別の某媒体は魔球と魔術の関連性からか、引田天功を飛雄馬と対談させる企画を提案。
これが実現したか不明だが、飛雄馬はTVCMに出ており、左門兄弟姉妹の生活のために左門豊作を共演者として推薦している。

「巨人の星」最終回で、1970年秋の巨人VS中日戦、飛雄馬は左腕の屈筋と伸筋が切れ、指を動かせなくなるが、「新巨人の星」では肩を壊したことになっている。
飛雄馬は失踪する。最後の試合が完全試合か否か、巨人軍はコミッショナーに提訴した。
「新」では完全試合達成という設定になっているので認められたのだろう。

この1970年、川上巨人はV6を達成するが、優勝目前で川上は「サムライが欲しい」とつぶやく。
巨人には荒々しいサムライの血が欠けており、このままでは巨人軍の未来はない。
川上と長嶋茂雄は、当時、巨人にいた八幡太郎平の案内で、八幡の母校である高知の土佐嵐高校を尋ねる。
土佐嵐高校野球部1年の番場蛮はこの年の秋の高知県地方予選で、自ら放った本塁打をふいにする押し出し四球で負け、退部、退学する。
巨人の川上はドラフトで番場を指名。巨人嫌いの番場蛮は、一度は拒否するが、父親が鯨の腹を破って勝ったことを知り、巨人を中から倒そうと入団。しかしながら具体的にどう倒そうとしたかは不明。

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星飛雄馬と中村紀洋 投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時52分36秒 返信・引用 編集済
星飛雄馬と中村紀洋  2007/ 3/30 19:39 [ No.86 / 434 ]

星飛雄馬は甲子園の準優勝投手なのに川上ジャイアンツの一般公募テストを受けて巨人に入団し、1968年から70年まで3年間、エース級の投手として活躍しながら、5年の空白のあとで76年に長嶋巨人に復帰したときは、背番号のないテスト生として宮崎キャンプに参加させられました。

川上哲治も長嶋茂雄も星飛雄馬の実力をわかっていましたが、中村紀洋を見ているとこれは漫画ならではの話とは言えず、現実味を帯びてきます。

飛雄馬は2度とも故障経験者としてテストを受けており、特に左腕時代は、勝手な失踪や契約更改拒否の前歴がありました。

星飛雄馬は66年または67年の高校時代、甲子園の準決勝で利き手の親指を負傷し、ほとんど全力投球できない状態で決勝に登板しており、川上監督は飛雄馬の指が治ったかどうか入団テストで確認する必要がありました。

また、76年に右腕投手として復帰する前の飛雄馬は言うまでもなく、70年秋の対中日戦で左腕を破壊して、しかも勝手に失踪したあとで、飛雄馬の腕は治っていませんでした。

実力があっても負傷を経ている場合、球団としては実力をためす必要があります。

また星飛雄馬は左腕時代、契約更改拒否、さらに度重なる勝手な失踪や登板拒否の前例があり、監督の命令を無視するなどの前科がありました。
これでは選手の自己管理や協調性に問題があるとみなすのは当然でしょう。
右腕投手として復活したあとの飛雄馬はそのあたり、かなり改善されていました。

「巨人の星」の結末。
江川卓を迎えた79年のシーズン中、長嶋監督は飛雄馬に「コーチ就任要請」という形で内々に戦力外通告をしました。

同年夏、飛雄馬は大リーグボール養成ギプスを水木炎に譲り、彼の時代は終わりました。

翌80年、長嶋監督が辞めて王貞治が引退。原辰徳が入団して翌年から現役。
2年後の82年に落合博満が初の三冠王になりました。

落合監督も中村紀洋を拾う温情を見せながら、内容次第では冷酷に斬る可能性もあります。

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