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6: 南海・野村克也~横浜、大洋の歴史

2022-04-23 22:48:38 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 51~60件目 (teacup.com)/

/野村克也 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 58 (teacup.com)/

 

野村克也  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時43分2秒 返信・引用 編集済
  野村克也 2007/ 3/ 8 9:44 [ No.36 / 433 ]
野村克也・追加 2007/ 3/ 8 14:23 [ No.38 / 433 ]

1970年
「巨人の星・屈辱の“夢の球宴”~ある座談会」
南海の選手権監督にまった野村は後楽園でのオールスターで星飛雄馬の消える魔球を「帽子落とし作戦」で打つ。
野村とアルトマンは左門と花形のハッスルプレーで本塁アウト。
大阪では野村、アルトマン、張本が大LB3号を三振。
野村は明らかに最後まで立腹していたが、あとの座談会で「最後の1球は気を沈め、これは絶好球と見極めたが三振」とコメントしていた。

1973年
アニメ「侍G」
野村は「つぶやき作戦」で番場蛮を動揺させた。

1974年
野村は番場の「ハラキリ・シュート」の弱点をつく。

1974~76年?
「一球さん」
巨人学園(監督は元阪神の岩風で74年まで現役)の相手チームに全員南海ファンのチームがあり、捕手は「野村」を名乗っていた。

1976年
「野球狂の詩」
東京メッツで水原勇気登板。
ドリームボールについて野村が考える。
「捕手の岩田がわしのような『つぶやき作戦』をしているのか?」

1977年
「新巨人の星」
元阪神の花形がヤクルトに入団して球界復帰。
野村が花形に話しかけるが、効果なし。

1994年
「ドカベン・プロ野球編」
ドラフトで野村監督のヤクルトなど10球団が山田を指名。
野村いわく「ノムサン、いや、ナムサン」。
最終的に山田は東尾監督の西武に入団。

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山田太と岩鬼正美の生年、年齢  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時44分14秒 返信・引用 編集済
  山田太と岩鬼正美の生年、年齢I 2007/ 3/ 7 2:07 [ No.31 / 433 ]
山田太と岩鬼正美の生年、年齢II 2007/ 3/ 7 4:15 [ No.33 / 433 ]

1973年、白新高校は甲子園の決勝で敗れ、星飛雄馬が臨時コーチを務めた宮崎・日向三高も甲子園に出場した。
番場蛮は川上GV9の胴上げ投手となり、アニメ版「侍G」では縱分身魔球まで開發し、ミラクルボールで大リーガーのジャックスを打ち取っている。

TO砲こと唐部と丘、北の狼こと火浦健は73年にメッツに入団し、翌74年から現役開始であった。

1973年のドラフトでメッツは唐部と丘を指名し、ドラフトとは別の入団テストで火浦を獲得。

火浦健の弟・南の虎こと王島大介は九州で育って73年に阪神に入ったが、学友だった投手の方は地元「太平洋ライオンズ」に入団した。

1973年ごろに白新高校から国立玉一郎も東京メッツに入団した。

山田太と岩鬼正美が明訓高校に入学、野球部に入り、最初に甲子園に出場したのは1974年であった。

長嶋茂雄現役最後の年で、阪神の藤村甲子園が長嶋と対決。
長嶋のいた巨人では番場蛮が分身魔球で活躍するも、無理がたたって急死、巨人の連覇がストップして中日が優勝した。
ただ、「北の狼・南の虎」ではメッツがセ・リーグで優勝したことになっている。

1974年、TO砲の人気が上がって、メッツの親会社の「TOヌードル」(当時から3年前の1971年に日清から出たカップヌードルに似ている)が賣れたとき、岩田はオーナーに「次は堂々と江川を指名できる」と語っていたが、それは実行されなかったようだ。
74年のドラフトでメッツは早稲田大学の日下部了を指名した。

不知火守は山田らと同期で1974年に白新高校に入学しているが、藤娘・国立玉一郎の母校と同じ学校だとすると、不知火は国立とは入れ替わりであろう。

普通に考えると山田、里中、岩鬼、殿馬、微笑、およびライバルたちの高校生活は74年から77年まで。
山田が打撃練習しているところを阪神の田淵と掛布が見学し、「俺でもめったにあそこまで飛ばんぞ」、「今すぐにでもプロに通用します」とコメントしていたと想う。
また、山田ら高2の夏、明訓は弁慶高校に敗れ、監督の土井垣が日本ハムに入団。ファイターズでは当時、大澤親分が監督を務めていた。

山田は5月生まれで、岩鬼の誕生日は4月1日らしい。
すると、山田は1958年生まれ、岩鬼は1959年生まれになる。
これは長嶋茂雄と王貞治が相次いで巨人に入団した時期であり、1958年は原辰徳が生まれた年だ。

ところが山田たちの高校3年の夏を描いた「大甲子園」では舞台が高2(75年)から10年後の1985年ごろにとんでいる。
明訓と対戦した室戸学習塾のナインが殿馬のリズムを狂わせるために唱った歌の中で、「南国土佐をあとにして」のほか、80年代のアイドルである松田聖子のヒット曲「瞳はダイアモンド」と、同じく80年代のアイドル・小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」(いずれも1983年のヒット曲)がある。
殿馬は対青田戦で「秘打・夏の扉松田聖子」を披露したが、「夏の扉」じゃ1981年リリース。
また、岩鬼は対青田戦で幾つかのプロ選手の「昭和60年当時」の姿を真似していた。
この当時、山田太は25歳、岩鬼正美は26歳の年長高校球児で、「マカロニほうれ荘」の膝方歳三25歳に匹敵する高齢高校生である。

さらに「ドカベン・プロ野球編」では1994年のドラフトで山田が東尾・西部ライオンズに入団し、岩鬼は長嶋Gと王ダイエーから指名されてくじ引きでダイエー入りが決まった。微笑三太郎はジャイアンツに入り、松井とチームメート。殿馬はオリックスに入り、イチローがまだ在籍していた。

このとき、公称では山田は18歳、岩鬼は17歳だったが、実際は山田は36歳、岩鬼正美は35歳であった。

山田たちは高校生活20年である。

白新高校の不知火守は日ハムに入団し、土井垣とバッテリーを組んでノーヒットノーランを記録する。当時、土井垣は38歳前後。
2006年末から2007年初めまでの時点で38歳と言えば桑田真澄である。
2007年で土井垣は50~51歳くらい、山田太は49歳になる。

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梶原&水島野球漫画年表  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時55分58秒 返信・引用 編集済
  梶原&水島野球漫画年表  2007/ 3/21 12:37 [ No.61 / 433 ]

1957~58年 水原勇気誕生
1958年 5/5山田太郎誕生
長島茂雄G入団。星飛雄馬が花形満、王貞治と初対決

1959年 4/1岩鬼正美誕生

昭和42=1967年 夏の甲子園で花形率いる神奈川代表紅洋高校が優勝
準優勝投手の左腕・星飛雄馬が青雲高校を中退しG入団

昭和45=1970年 星飛雄馬完全試合達成後失踪。番場蛮G入団

昭和46=1971年 北海道白大雪高校1年火浦健(当時16歳)が野球部を退部
健の育ての父親・政が北道組に殺され、健は復讐として組長の腕を切り服役2年(「野球狂の詩」)

昭和48=1973年 星飛雄馬が宮崎の日向三高野球部を臨時コーチ
日向三高は夏の甲子園で準決勝に進出
(1973年頃)夏の甲子園で王島大介率いる熊本代表阿蘇高校が優勝
→地元太平洋ライオンズ入団が希望された王島大介は阪神に入団。火浦健は東京メッツに入団
番場蛮の分身魔球がウルフ・チーフとジャックスに打たれる
→番場はミラクルボールでジャックスを打ち取る(アニメ「侍G」)
川上巨人V9
東京メッツが唐部大樹・丘知将を指名。阪急は江川卓を指名

1974年 山田太郎、岩鬼正美、殿馬一人、里中智が明訓高校に入学。監督は徳川。夏の甲子園で優勝
東京メッツに長島太郎が入団、引退。中日Vでメッツ最下位(「野球狂の詩・おれは長島だ」)
火浦20勝。国立はホームラン王。東京メッツ優勝→実際は中日セV(「野球狂の詩・北の狼南の虎」)
メッツが日下部了を指名(「ガッツ10番」)
阪神の藤村甲子園が長嶋茂雄と対決
番場蛮が試合後急死(原作「侍G」)
長嶋茂雄引退。川上監督が勇退し、後任は長嶋
1974~76年 藤村甲子園の相棒・岩風(元阪神)が巨人学園監督に
対戦高校にホークスファンのチームがいて、選手がみな当時の南海の名で登録→捕手は「野村」(野村克也にあやかった)。
後に真田一球が選手兼監督に。甲子園で南波高校に敗れる
山田太郎の打撃練習を当時阪神の田淵と掛布が見学

1975年 山田、岩鬼ら高2。土井垣が監督。甲子園春V.夏は弁慶高校に敗れる
土井垣日ハム入団。明訓監督は大平
長嶋G最下位。星飛雄馬が伴宙太と再会し、G復帰目指し特訓
東京メッツが水原勇気を指名

1976年 東京メッツの水原勇気が対阪神戦で初登板
山田、岩鬼ら高3。春の甲子園で優勝。母の入院を理由に里中が中退と退部を希望(「ドカベン」)→実際は休学
右腕・飛雄馬がG復帰
1976~94年 里中が明訓野球部に復帰。東京メッツの岩田と五利が明訓・白新戦を観戦(「大甲子園」)

1977年頃 岩田鉄五郎と水原勇気が引退

1979年 江川卓G入団。飛雄馬がG二軍コーチに。水木炎G入団

1982~85年
山田、岩鬼ら高3。甲子園夏の準決勝で明訓と青田高校が対戦
青田の中西球道が9者連続三振(「1926年以来57年ぶり新」)と1試合26奪三振(「1958年以来24年ぶり新」)を記録(「大甲子園」)
↓追加
「大甲子園」の準決勝再試合で明訓高校の先発投手である岩鬼が「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球し、昭和60年=1985年当時に阪神に在籍していたゲイル投手、バース選手らの物真似をしている(Wikipedia「大甲子園」より)

1991年頃 藤田Gで番場蛮の甥が登板

1994年 山田、岩鬼高3。明訓甲子園春夏連覇
12球団のドラフトに東京メッツは無し。長嶋巨人と王ダイエーが岩鬼を指名。岩鬼はダイエーに
山田は東尾監督の西武、殿馬はオリックス(当時イチロー在籍)、
里中は千葉ロッテ、微笑は巨人(当時松井秀喜在籍)に入団(「ドカベン・プロ野球編」)

1997年 岩田と水原が現役復帰、登板し、東京メッツ身うり話は撤回
1998年 岩田鉄五郎、選手兼任監督として現役復帰。国立玉一郎のむすめ・珠美がメッツ入団
1999年 オープン戦で珠美がデビュー
1999~2000年頃 メッツは大阪ガメッツに三連勝。火浦がガメッツの監督に
2000年頃 リトルリーグのエース・花形満が中学入学(「新約巨人の星花形」)
2000~2001年頃 東京メッツが札幌華生堂メッツに。岩田鉄五郎が巨人の長嶋監督と会い、円山大地がメッツ入団
2001年 長嶋茂雄が巨人監督を勇退

2004年 山田らが東京スーパースターズに入団
2005年 日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツ。スーパースターズが日本一(「ドカベン」)
→真田一球と呉九郎は楽天に、中西球道は千葉ロッテに入団

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1969年9/14中日・アトムズ戦 2007/ 3/22 16:19 [ No.65 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時01分8秒 返信・引用 編集済
  「新巨人の星」のアニメの回想場面では、某年8月10日、左門が炎天下の球場で阪神・中日戦を視察し、星野仙(一)投手はサイン交換のときに球種の癖が出ると書いています。

これは'75年、大洋が川崎球場で巨人に勝って長嶋Gの最下位が決定した日の晩が舞台でした。

左門が研究したのは1969年辺りから1975年までの間でしょう。

さかのぼって'69年、中秋の名月が見えたらしい9月14日は、まず、中日球場で中日・アトムズ戦。
オズマが27号(おそらくこの年、日本プロ球界での通算)本塁打を放って中日は四年ぶり10連勝。

アナウンサーは「ホームラン・ダービーでトップを行く王とは10本の差があるとはいえ、アトムズのロバーツとともに猛進撃をかけるオズマ」。

同じころ、東京・後楽園球場(おそらく巨人・大洋戦)で「勝利投手・渡辺、敗戦投手・平松、2対1で巨人の勝利」とアナウンスされて客が去っていきました。

廣島○―●阪神(時間は昼か夜か、場所は廣島か甲子園か不明)
中日○―●アトムズ(夜間で、場所は中日球場)
巨人○―●大洋(夜間、投手は勝・渡辺←→敗・平松、後楽園球場)

ベンチに戻る巨人軍選手が川上に「監督!きょう二位の阪神さんが広島さんに負けてくれたので、これで六ゲーム差、どうやら独走態勢ですな」。
これに対し川上監督は「いやいや、まだなんともいえん、勝つには勝っても、きょうのゲームにせよ内容がよくない」。

飛雄馬は一箇月前、監督からの登板命令にさからって二軍落ちしたあと、この日の晩に「姉ちゃんが家出をした」という私的な理由でベンチに押しかけ(両眼に包帯をした伴も同伴)、大LB2号を披露しました。

ONのことばによると、当時、アトムズの監督は別所氏だったようです。
アトムズはのちに'70年以降、眉月光を迎え、ヤクルトSとして'77年に花形満を迎えます。

飛雄馬は通勤時間を自分で勝手に変えるフリー・アルバイターのような選手で、それも「栄光の巨人軍」だから、飛雄馬のサボり癖も余り影響しなかったのでしょう。

球団側は左腕時代の飛雄馬をいつ一軍で使えるのか予測できず、ローテーションの面で苦労したと想われます。
右腕時代の飛雄馬はその点、相当、改善されています。

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中日ドラゴンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時02分57秒 返信・引用 編集済
  中日ドラゴンズ(訂正)  2007/ 3/24 11:05 [ No.66 / 433 ]
中日ドラゴンズ(追加)  2007/ 4/ 4 9:19 [ No.103 / 433 ]
中日ドラゴンズII  2007/ 4/22 20:36 [ No.121 / 433 ]

1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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梶原・水原野球漫画における中日D  2007/ 3/20 9:43 [ No.851 / 851 ]

851前後一覧
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1969年9/14中日・アトムズ戦

1969年中日ドラゴンズ

中日ドラゴンズ(追加)

中日ドラゴンズII

星飛雄馬と中村紀洋
  
1969年中日ドラゴンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時18分4秒 返信・引用 編集済
  1969年中日ドラゴンズ  2007/ 4/ 7 18:16 [ No.2798 / 2798 ]

「巨人の星」文庫版8巻前半(元の単行本では13巻)の「見えないスイング」と「あやうし! 大リーグボール」より。
いずれも対巨人戦での中日のメンバーで、両方とも中日の勝利。

監督は水原茂。

(1)A・オズマ日本移籍後、巨×中戦に初出場した試合(後楽園球場)

星飛雄馬と番宙太は客席で観戦。

星一徹がノックした当時の中日守備陣
(打順とは関係なし)

島谷(内野、背番号30)
一枝(内野)
高木(内野、背番号1)
フォックス(内野、1塁のように見える)
江藤(外野)
中(外野)
オズマ(外野、ライト、背番号130)
木俣(捕手)

投手は小野。

A・オズマはカーディナルスで背番号13だったが、移籍当時の中日に背番号13の小川健太郎投手がおり、オズマの背番号は10倍の130になった。
--------------------------------------
(2)オズマが星飛雄馬の大LB1号を本塁打した試合(中日球場)

巨×中3連戦の初日らしい。

中日のスターティングメンバー
(数字は守備位置)

6一枝
4高木
9オズマ
(以下不明)

投手は星野仙一(完投したか否か不明)。

のちに大洋の左門が星野仙一のフォーム、球種を研究して「左門メモ」に記入。

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1969年「巨人の星」巨人×中日戦2つ  2007/ 4/ 6 12:46 [ No.106 / 106 ]

「巨人の星」
文庫版8巻(元の単行本で13巻)
「見えないスイング」

1969年
巨人×中日戦
(A・オズマ中日移籍後一軍デビュー戦)

両軍監督
G 川上哲治
D 水原茂

場所
後楽園球場、観客5万

↓星一徹がノックした当時の中日守備陣(打順とは無関係)
島谷(内野、背番号30)
一枝(内野)
高木(内野、背番号1?)
フォックス(内野、1塁?)
江藤(外野)
中(外野)
オズマ(外野、ライト、背番号130)
木俣(捕手)

龍打線の打順では4番江藤、5番オズマ。

投手(名前が分かっている者のみ)
G 城之内→高橋一三
D 小野(→完投?)
当時、中日には他に小川健太郎投手がいて背番号13だったので、A・オズマの背番号はカーディナルス時代の13から130になった。

結果
○中日020020000 計4
●巨人000001010 計2
2回表、D4番江藤が城之内から三遊間を破って1塁打。5番オズマの打球がライトスタンドの一観客の顔面を直撃。
5回表、オズマは驚異の選球眼でカウント0S-1Bとし、2球目を場外へ。
その後、城之内は降板し、救援・高橋一三はオズマを2打席敬遠。
--------------------------------------------------------
1969年
巨人×中日戦
(A・オズマが星の大LB1号をホームランした試合)
「あやうし! 大リーグボール」の後半

巨人×中日3連戦の初日。
中日は2位。

監督
G 川上
D 水原

場所
中日球場

投手
G 堀内→金田→田中→星(対オズマのみ)→?
D 星野仙一(→完投?)

飛雄馬が川上監督に「俺の名を書かんでください」と言って先發辞退。

巨人(左の数字は守備位置)
7 高田
6 黒江
3 王
5 長嶋
8 柴田
9 国松
2 森
4 土井
1 堀内

中日
6 一枝
4 高木
9 オズマ
(以下不明)
中日は星の先發を予想してオズマを3番に上げていた。

結果
●巨人0・・・
○中日・・・・
1回表、巨人3者凡退。
1回裏、一枝と高木守道が凡退し、2死でオズマが堀内からカウント0S-2Bの後、3球目(堀内の帽子が横を向いた)を強打。流星ライナーが左中間突破、外野フェンス直撃でクッションボールを柴田と高田が捕れず、長嶋の指示でショートの黒江が処理し、結果は三塁打。
4回裏、オズマが金田の下手投げの遅球を場外へ。
6回裏、6-1で中日リード、二死満塁でオズマの打席に救援・星→カウント0S-3B→オズマが4球目を本塁打。星降板。

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中日ドラゴンズ(追加) 2007/ 4/ 4 9:19 [ No.103 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時24分51秒 返信・引用 編集済
  1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。落合博満が初の三冠王。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。

http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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中日ドラゴンズII  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時26分15秒 返信・引用 編集済
  中日ドラゴンズII  2007/ 4/22 20:36 [ No.121 / 433 ]

1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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星飛雄馬と中村紀洋 2007/ 3/30 19:39 [ No.86 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時31分21秒 返信・引用 編集済
  星飛雄馬は甲子園の準優勝投手なのに川上ジャイアンツの一般公募テストを受けて巨人に入団し、1968年から70年まで3年間、エース級の投手として活躍しながら、5年の空白のあとで76年に長嶋巨人に復帰したときは、背番号のないテスト生として宮崎キャンプに参加させられました。

川上哲治も長嶋茂雄も星飛雄馬の実力をわかっていましたが、中村紀洋を見ているとこれは漫画ならではの話とは言えず、現実味を帯びてきます。

飛雄馬は2度とも故障経験者としてテストを受けており、特に左腕時代は、勝手な失踪や契約更改拒否の前歴がありました。

星飛雄馬は66年または67年の高校時代、甲子園の準決勝で利き手の親指を負傷し、ほとんど全力投球できない状態で決勝に登板しており、川上監督は飛雄馬の指が治ったかどうか入団テストで確認する必要がありました。

また、76年に右腕投手として復帰する前の飛雄馬は言うまでもなく、70年秋の対中日戦で左腕を破壊して、しかも勝手に失踪したあとで、飛雄馬の腕は治っていませんでした。

実力があっても負傷を経ている場合、球団としては実力をためす必要があります。

また星飛雄馬は左腕時代、契約更改拒否、さらに度重なる勝手な失踪や登板拒否の前例があり、監督の命令を無視するなどの前科がありました。
これでは選手の自己管理や協調性に問題があるとみなすのは当然でしょう。
右腕投手として復活したあとの飛雄馬はそのあたり、かなり改善されていました。

「巨人の星」の結末。
江川卓を迎えた79年のシーズン中、長嶋監督は飛雄馬に「コーチ就任要請」という形で内々に戦力外通告をしました。

同年夏、飛雄馬は大リーグボール養成ギプスを水木炎に譲り、彼の時代は終わりました。

翌80年、長嶋監督が辞めて王貞治が引退。原辰徳が入団して翌年から現役。
2年後の82年に落合博満が初の三冠王になりました。

落合監督も中村紀洋を拾う温情を見せながら、内容次第では冷酷に斬る可能性もあります。

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横浜、大洋の歴史 2007/ 3/25 20:45 [ No.67 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時34分11秒 返信・引用 編集済
  球団名、監督の在任期間はWikipediaから。

→大洋ホエールズ(1955年~1977年)

監督;別当薫(1968年-1972年【第1次】)

1967年秋ごろ
別当監督の大洋が左門豊作を獲得。背番号は「99」。

1968年
開幕時に左門が星飛雄馬の速球を本塁打。
その後大LB1号に倒れる。

1969年
オールスターで代打・左門が送りバントで花形を2塁に進める。
9月14日、後楽園巨人・大洋戦で巨人の勝ち。勝利投手は渡辺、敗戦投手は平松。
おそらくその次の巨人・大洋戦で左門が大LB2号と初対戦。左門は空振り、轉倒し交代。代打で背番号「66」ボーク事件。左門と花形は「消える魔球は水に弱い」と見抜く。

1970年
左門と花形が飛雄馬と後楽園球場で非公式に対決。左門はバットで土煙をなぎ拂い、ボールの変化を明らかにするが、伴が打撃妨害。伴は後頭部を負傷、出血するがすぐ完治。
左門は新宿で京子と遭遇。
オールスターで左門と花形が友情の三重殺、飛雄馬の危機を救う。
大洋は大LB3号と初対戦で長田(通称「ポパイ」)など連続三振。左門三塁ゴロ。唯一のヒットは投手・平松。最終打者左門が三振して試合終了。

おそらく1972年(アニメ版「侍G」)
秋ごろ、大洋のスカウトが土佐嵐高校時代の番場蛮の試合を視察するが、投手・番場はノーコンの押し出しで敗れる。

1971年初め
左門と京子が結婚。

1973年
メッツの岩田鉄五郎と「よれよれ大リーガー」の「ジョン・カスター」が対大洋戦で同点と逆轉の連続ホームインをし、メッツが勝利。それまでメッツは12連敗の後、さらに15連敗。

1974年ごろ?
大洋に海王神人が入団、松原の代打で阪神・江夏から満塁本塁打。大洋は最下位から浮上。メッツの岩田清志、千藤光も打たれ、岩田鉄五郎も海王から本塁打を3本打たれるが、4打席目で三振に打ち取る。
その後、海王の神がかり的な猛打は消え、3割を目指す普通の打者になったらしい。

対メッツ戦でメッツの立花(当時15歳)が江藤を相手にしながら夜8時で降板し、救援の火浦が打たれて、大洋が勝利。

1975年
左門の打撃で長島G最下位決定。伴が左門から「左門メモ」を借り受ける。
「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場(義郎)のシュート。
阪神・古沢(憲司?)のスライダー。
ヤクルト・松岡(弘?)のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年
飛雄馬、打者として復帰。平松の球を打つが、左門の美技に阻まれる。
その後右腕投手となった星が左門と対決。

1977年
左門が飛雄馬の投球フォームの癖を見抜き、1人、飛雄馬を連打して勝利。左門と打力が近い田代(通称「オバQ」)は三振。
飛雄馬は二軍でフォームを改善し、左門をも打ち取って雪辱を果たす。

→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)

1978年
大洋が横浜大洋になり、本据地が川崎球場から横浜球場になる。
左門が星飛雄馬の「蜃気楼の魔球」を強打、王貞治の美技に阻まれ、試合は横浜大洋が敗れる。

1989年ごろ
童夢くんのライバルで横浜大洋ホエールズのドードが登場。

→横浜ベイスターズ(1993年~)

1993年
球団名が「横浜ベイスターズ」に。

1995年
横浜学院の土門剛介が横浜ベイスターズに入団。2003年まで在籍。
→オールスターで土門が巨人の微笑三太郎とバッテリーを組む。土門いわく「やっと二年越しの夢がかなった」。しかし、実際は20年余りたっている。

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横浜、大洋の歴史II  2007/ 4/10 22:38 [ No.111 / 433 ]




→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)

1978年
大洋が横浜大洋になり、本据地が川崎球場から横浜球場になる。
左門が星飛雄馬の「蜃気楼の魔球」を強打、王貞治の美技に阻まれ、試合は横浜大洋が敗れる。

1989年ごろ
童夢くんのライバルで横浜大洋ホエールズのドードが登場。

→横浜ベイスターズ(1993年~)

1993年
球団名が「横浜ベイスターズ」に。

1994年~
「ドカベンプロ編」で大魔神・佐々木主浩登場。

1995年
横浜学院の土門剛介が横浜ベイスターズに入団。2003年まで在籍。
→オールスターで土門が巨人の微笑三太郎とバッテリーを組む。土門いわく「やっと二年越しの夢がかなった」。しかし、実際は20年余りたっている。

2005年
佐々木主浩引退。

111
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横浜、大洋の歴史III  2007/ 4/14 0:36 [ No.112 / 433 ]



1973年
メッツの岩田鉄五郎と「よれよれ大リーガー」の「ジョン・カスター」が対大洋戦で同点と逆轉の連続ホームインをし、メッツが勝利。それまでメッツは12連敗の後、さらに15連敗。

秋のドラフトで東京メッツがTO砲を指名、阪急は江川卓を、大洋は山下大輔を指名。

1974年
大洋のルーキーが山下(大輔)。
大洋に海王神人が入団、松原の代打で阪神・江夏から満塁本塁打。
阪神の監督は金田正泰(在任期間73~74年)。
大洋は最下位から浮上。
メッツの岩田清志、千藤光も打たれ、岩田鉄五郎も海王から本塁打を3本打たれるが、4打席目で三振に打ち取る。
その後、海王の神がかり的な猛打は消え、3割を目指す普通の打者になったらしい。

1974年ごろ?
対メッツ戦でメッツの立花(当時15歳)が江藤を相手にしながら夜8時で降板し、救援の火浦が打たれて、大洋が勝利。
TO砲の唐部がメッツに在籍。
阪神の監督は金田正泰(在任期間73~74年)。


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近鉄と大洋、追加(1970年の流れ


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