gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「邪馬台国はなかった」説

2011-10-07 13:36:00 | ドラマ、時代劇、歴史
>先日、『卑弥呼はいない。関係のある話は全て作り話だ』と豪語する人に出会いました。

komasaram

西尾幹二が「国民の歴史」で「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と書いています。

あと、渡部昇一と谷沢永一が「こんな歴史に誰がした」で「邪馬台国論争は、なぜ無意味なのか」と書いています。

谷沢氏は「戦後の歴史学界では『古事記』と『日本書紀』が無視され、考古学とシナの文献が偏重された」「その最たるものが邪馬台国論争。邪馬台国のことが記されているのはシナの『魏志倭人伝』だけだが、これを最初から真実と決め付け、そこから延々と邪馬台国論争が今でも繰り広げられている」としており、渡部氏も「伝統的なシナの世界観から見れば日本人は蛮族。軽蔑すべき蛮族のことを彼らが正確に書くわけがない。『魏志倭人伝』に書いてあることが客観的事実であるはずがありません」。

谷沢氏によると東洋史学者の岡田英弘氏がこう分析しているそうです。
『魏志』が書かれた目的は、歴史の客観的記述でなく、魏の全権を掌握し、晋建国の礎を築いた司馬仲達を称えるために書かれただけで、これを書いたのは晋の役人の陳寿だが、彼は宮廷から命じられて書いただけ。司馬仲達の功績は朝鮮の公孫淵を倒し朝鮮を三分の二ほど支配したこと。司馬仲達の功績を称えるには、その威光が倭国にも及んだと書けばいい。『魏志』はそのための書で、だから当てにならないのだそうです。また『魏志』では倭国の位置を意図的にずらした可能性があります。司馬仲達に対抗していたのは呉の国。そこで倭国の位置を実際の日本より南にずらして呉の近くまで仲達の威光が及んだことになる。『魏志』を素直に読むと邪馬台国が福建省の辺りにあるとしか思えないのはそのためだそうです。

ちなみに呉は長江下流、上海や江蘇省、浙江省の辺りでしょう。

なお私は邪馬台国は、昔の中国人が日本のことをよく知らず、九州の小国と近畿の小国をごっちゃにして書いた結果だと思います。
鎌倉時代の日本の首都は京都か鎌倉か、江戸時代の日本の首都は京都か江戸か論争するようなものにも見えます。

ジョナサンスイフトの「ガリバー旅行記」(刊行は1726年、吉宗の時代)では1709年(綱吉から家宣の時代)の江戸に皇帝がいたことになっていて、京都も江戸も一緒になっています。

映画「ラストサムライ」では主人公が神奈川沖の船から見た富士山は静岡辺りで見るように大きく、横浜に上陸して少し歩くとすぐ皇居。明治時代の神奈川も静岡も東京もごっちゃになっています。外国人が描く日本などその程度の物でしょう。

歴史学の弱点は史料にないことを正しいと判断できないことで、逆に史料に書いてあれば盲従してしまう危険性があります。
大河ドラマなどに対し「こんなことは史料にない」という突っ込みがありますが、史料にないことを描くのがドラマであり、歴史小説です。
「正史」などというのは「建前はこういうことにしておこう」ということで記された歴史で、その裏をかくのがドラマです。

回答日時:2011/10/6 22:21:17
編集日時:2011/10/6 22:34:36
----------------------------------
BLOG内検索 邪馬台国

最新の画像もっと見る

コメントを投稿