今日の記事は、1月31日アップした「半島では宗教弾圧の嵐が吹く中で、不可解なメシア留学時代・・・」から続けて読んでいただけるとありがたい。
私は1941年から43年にかけての時代が、朝鮮人留学生にとってどういう苦難があったか調べてみた。
その一つとして、たまたま昨年の11月23日24日の赤旗に日韓の心つなぐ詩人・尹東柱(ユンドンジュ)と題して連載記事があった。
尹東柱は韓国では誰もがその名を知っている国民的詩人、京都の同志社大学在学中の1943年7月、治安維持法違反で逮捕され、45年2月、27歳の若さで獄死したと紹介されていた。
NHKで95年3月「空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と死」して放送されたようだ。
赤旗の記事の一部を掲載する。(作家 多胡吉郎氏がインタビューに応えた記事)
(略)尹東柱の代表作「序詞」には彼の純真さと人間の魂の美しさを感じました。
「死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥なきことを・・・そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば」(伊吹郷訳)
「序詩」は日本植民地時代の41年に書かれたものです。日本に協力する朝鮮人もいたでしょう。せめて私(尹東柱)だけは「恥」に積極的に手を染めない、そう自分自身に誓った詩だと思います。
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尹東柱は同志社大学に入る前、立教大学で半年間学んでいます。その時代に「たやすく書かれた詩」(42年6月)を残しています。日本植民地時代の朝鮮人青年の心の痛みが本当によく分かります。
「窓辺に夜の雨がささやき/六畳部屋は他人(ひと)の国…かえりみれば、幼友達を/ひとり、ふたり、とみな失い…人生は生きがたいものなのに/詩がこう たやすく書けるのは/恥ずかしいことだ」(伊吹郷訳)
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「失い」の中には姓の「尹」も含まれているはずです。彼は、日本に来るために「平沼東柱」と創氏しています。
日本語が強制される時代、尹東柱は民族の文化を守りたいと、ハングルで詩を書き続けていました。それが朝鮮独立運動に関与したとされ、京都の下鴨警察に逮捕され、福岡刑務所で獄死しました。
尹東柱はこぶしを振り上げて「日本帝国主義打倒!」と叫ぶ詩人ではありません。詩が純真で美しいがゆえ、あの時代の隣国人の痛みが、日本人の心にも入ってきます。
私の下手なコメントより、多胡氏のコメントの方が、植民地時代を生きた留学生
尹東柱の純粋な気持ちが伝わってくる。 文鮮明も同じ時期東京で早稲田高等工学校(今で言う高等専門学校で、当初彼は早稲田大学と言ったが嘘だとばれた)で1941年4月から1943年9月まで留学生として在籍していた。 当時を振り返って文鮮明師がどのように言っているのか。「信仰と生活 第4集 先生の歩まれた道」から引用する。 http://tm1800.hp.infoseek.co.jp/sinkoutoseikatu_4_1_txt.html
「拷問を受ける」
戦時下、同じ時期を一人は京都で、もう一人は東京で朝鮮人留学生として学んでいた。
この二人を対比してみると、 尹東柱はその純粋さがゆえに投獄され、獄死した。 文鮮明は生き残り、戦後教祖となり日本で学生を前に、拷問の自慢話としか思えないような発言。
文鮮明がもっと純真な人物であれば、その体験はトラウマとなっていたのではないだろうか。
尹東柱の名は、知人の韓国人の方も知っていた。
韓国では、日本帝国主義に屈しなかった英雄として広く知られている人物のようだ。
日本で同じ時期を過ごした尹東柱を文鮮明が知らないはずはない。
獄死した同胞への配慮に欠けた文鮮明の発言に彼の品格を疑う。
月に一度戸塚署へ呼び出され調書に、手が痛くなるほど何を書く必要があったのだろう。
尹東柱はおそらく総てを拒否したがゆえに、獄中で殺された。
二人を比較すると、文鮮明の不可解な人物像が浮き出てくると思うのは私だけではないだろう。
新聞は昨年11月23日、24日の赤旗
今まで、まあこういうことやりながら拷問も沢山された。本当はね、韓国は日本に三十六年か四十年支配されたでしょう。その時先生はね、日本の警官らに随分拷問されたよ。それを思えば、本当に昔は国を愛し得ない者が天を愛し得ないんだね。まあ、こういうことを言ったらちょっと何だけどね、地下工作をしたんだ。それが分からない。そして「日本に何十年後に世界情勢はどういう風になる。」と。そして黙々とやる。そして頭ふって良い所見物に行ったり、今日みたいに見物に行ったりしなかったよ。富士山にも行かないし、熱海にも行かないし、箱根へも行かない。日光へも行かなかった。神が願う見たい所の基準を神が見て喜んでから「ああ、君行ってみな。良いから」それから行く。それが先生の主義だよ。だから絶対行かなかった。その時友達は先生を連れて行ったらいいからね。何を言われてもよくやるからね、それは気分が悪かったよ。「よせよ、私にはやることがあるから」と。 1965年10月8日 早成寮にて語られたみ言
「牢屋」
だから韓国に行って日本の政権下時代、牢屋に何回も行ったことがあるよ。その牢屋の中に何回も引っ張り出された。東京に行っておる時もね。警視庁に一ヶ月に一回呼ばれたね。高田馬場の通りのね、早稲田の方から右の方にあるんだね。(現在の新宿区戸塚警察署)先生が韓国に帰るというと連絡が来るんだね。「誰それが韓国に帰る」と。要注意人物だ、学生だけどね。先生は普通の人は分からない。
1965年10月8日 早成寮にて語られたみ言
「刑事」
昔、先生も刑事なんか調書なんか作る時も、ずーっとあまり沢山の調書があるもんだから、手が痛くて、刑事さんの顔つきはこうでこうですね。あんたの父母はいないですね。結局話し合うというと、惚れてしまうんだよ。そして談話する。イエス様の聖書に現われる実体より以上の実体として話すんだよ。