信者が自分の所属していた教会を訴える。教会の違法行為とマインドコントロールの関係が問われていると言われている。地裁では被害者の病気と教会との因果関係の立証責任が原告側に問われ敗訴となっているのだが・・・・。
今回の高裁の内容もおそらくそんな点にあるのだろか。内容がネットで見れないで深くはコメントできないのだが。ただ今あるものから私の思いを綴ってみたい。
私は労働組合の運動に25年かかわってきた。職場でのセクハラとか、パワハラという問題は当初、訴えても、訴えた本人の服装や仕事での失敗をとりあげられ泣き寝入りする人が多かった。
会社との交渉でも本人への精神的虐待発言が会社から出てくるようなことが多く、耐えられなくて自立神経失調症に陥る人が多かった。それでも組合はセクハラ、パワハラを放置する企業責任を追及してきた。
その結果、今日においては、大きな社会問題として取り上げられるようになった。
「過労死」という言葉もそうである。今から20年前の監督署の基準と今の基準では雲泥の差がある。これも労働組合が全国的に手をたづさえて頑張って聞きた成果である。この言葉は私の記憶ちがいでなければ、「カロウシ」として世界標準語?になっているはずである。
過労死の場合は、立証責任は企業側にあるとされているのが、今日の判例である。
さて今回の宗教裁判、11月26日福岡高裁那覇支部の結果は、10年単位の裁判の流れの中で評価されるべきものだと思う。
統一教会の「青春を返せ裁判」は、1987年、札幌から始まり名古屋、岡山と元信者が統一教会を訴えた。敗訴もあったが、1997年日本で初めて宗教法人の勧誘、教化行為の違法性が広島高裁でだされ、2001年最高裁で確定した。
沖縄キリスト福音センターの場合、一審で「立証責任」が問われ敗訴になった時、準備不足だとか内部で動揺が起きるのは当然。
しかし、仲間を責めるよりは、この問題の社会性を追求し、全国的な広がりを持たせていくことの方が、今までの経緯からみて大切なのではないか。
参考までに、福音派教会の問題点について、以前ヨシュアさんからコメントしていたものをアップしておきます。
内容のない繰り返し、聖書を鸚鵡返しに連呼する大声、感情的なあおりを目的とする恣意的・主観的な思い込みの強化、倫理観をいつしかあいまいにさせてゆく単なる主観を神の意志と僭称する傲慢さ、時間をダラダラと長くかければ信仰的であるかのような「祈り」のプレゼン、これらはわたしが感じている「福音派」の姿です。
これらがあるから、いけないとわたしは判断している訳ではありません。こういう印象があるから嫌だという訳でもありません。
嫌だなと思うのは、こうでなければ信仰的でないといいはなつ人々の根っこにある傲慢さに救いのなさを視てしまうからです。
だれにでも性欲はあるでしょう。たぶん性欲があるからエロジジイなのではなく、性欲を感じてはいけないという場面をわきまえているのが社会人としてのルールであるのに、神を御名を利用して己の欲望を果たそうとするところに、究極の原罪があるのだと思います。
なんじ姦淫するなかれだけではなく、神の御名をみだりに唱えてはならないという意味が、セクハラ、パワハラを平気でする「福音派」と呼ばれる人々のなかに、充分に理解されているとは思えないということが、わたしが感じてしまう最大の問題があります。
敬虔さを装う宗教の罪です。
宗教こそ、人間の最奥の罪だと言えましょう。
だからこそ、宗教批判なき、信仰はむなしいのです。主イエスは、その『存在』そのものが宗教批判者でした。その主イエスこそが、宗教の原罪性をするどく暴いていまあう。聖書はそのような宗教批判の事実で充満しているのに。彼らは視るには視るが悟らず、聞くには聞くが聴いてはいないのでしょう。
(カルト化する沖縄キリスト教会 のヨシュアさんのコメントより)