今までブログで「人間の理性まで、教義の天秤にかけて否定していくのがカルトの本質」という表現を使ってきたが、実は私自身,哲学者デカルトに大きく影響されている。
デカルトという哲学者、聞くだけでも難しそうな話の臭い。
またkokoroはわけのわからない話をするのかと思われても仕方がない。
入信した対象者への説得とは、対象者の本当の自分を浮き出させてあげることだと思う。
以前、ブログにも書いたのだが、TV番組で木村拓哉演ずる脳科学者が、ふるえる手で拳銃を自分に向ける犯人に「貴方の味方は貴方の脳の中にいる。指を震わせている脳こそがあなたの味方なのです」といって犯人を説得する場面を見たとき、デカルトと重なる部分を感じた。
Web上で知り合った自主カルト脱会者の大半が、相談窓口を震える手でクイックされている。
おかしいと思い決別を決断しながら、反対側にSOSすることの心境は、凄まじいものがあると思う。
デカルトを振り返るにあたって、私の体験と照らし合わせてみたい。
私は小学生のときに肉親の一人を亡くした。
「夢であってくれたらいいのになぁー」と幼い心の中で思った。
でも翌日起きたら葬儀の日であった。ほっぺをつまんだら、痛かった。
もう二度と会うことができないと思うと、涙が止まらなかった。
しかし、私の脳裏にはもう一つの疑問があった。
ほっぺをつまんでも痛いという現実世界も、ひょっとして夢なのかも・・・・。
6年生の時の壁新聞に「夢から覚めたら、まだ夢だった。もう一度起きてみたら本当に目が覚めた」と書いたら、ホームルームの時に、学友が「オネショして起きて、シマッタと思っても、もう一度寝て起きれば、オネショが消えているっていうこと?」と聞かれ、教室に爆笑の声が響いたことが今でも記憶に残っている。
高校生になって、デカルトの「方法序説」を読んだ。読んだというよりは、夏休みの宿題で読まざるを得なかった。
初めて読む哲学書なので、大切と思われるところをメモにしながら読んだ記憶がある。
整理した時、私の小学生のときの、総てがひょっとして夢なのかもという疑念が「我思う故に我あり」の言葉で解けた。
ミッションスクールではあったが、哲学を学ぶ機会を与えてくれた先生方に感謝している。
デカルトの「我思う故に我あり」は有名な言葉だが、「思う」という言葉を「疑う」という言葉に置き換えて考える中で、デカルトはこの世のすべてを疑い、自分自身の存在まで疑った。
そこから導き出されたデカルトの結論は「疑っている自分自身の存在は疑えない」といことである。
「なぜ自分の存在があるのかを考える自分」を否定することはできない。
これこそが自分の存在の証明。この言葉は今の私の中に深く刻み込まれている。
大学に入って、哲学上の系譜を学ぶことができた。やはりデカルトの「方法序説」が哲学史上に遺したものの大きさに驚いた。「自我」を獲得した哲学者、「理性」を確立した哲学者であった。
さらに言うならば、デカルトの疑ったのは教会のドグマを含めてあらゆる非合理なものを、理性の天秤にかけて疑ったのだ。
彼にとって、疑うということは、私の小学校のときの「もしかしたら夢」とか、カルト教団の科学的真理や人間、人間社会の進歩に対する懐疑主義とはちがって、「理性の絶対的確実性と真理性の証明」と結びついていた。
そのような考え方は、デカルトは慣性の法則の定式化という功績を物理学史上に残すこととなった。彼は哲学者であり、一級の科学者でもあった。
現代のカルト教団の教義は「科学的な真理」を疑っている。
統一教会の場合、「科学と宗教の統一」という言葉によって、科学的な真理、科学的なものの見方を疑っている。しかし、出てきたのは、脱会すると地獄に堕ちるといったとんでもない教義だ。
私の中学校時代に、世に言う不幸の手紙をもらった。3日以内に同じ文面で5人に手紙を送らないと家族に不幸が起きるというものであった。父に相談したら、いたずらだと言われ、ださなかったが、3年間のあいだ、本当に不幸が起こらないか心配だった。
統一教会やカルト教団に家族を奪われ、説得の準備をされているご家族に、是非とも言いたいのは、不幸の手紙もそうであるが、何かを人間がしないと不幸が起きるとか、歴史は繰り返すという言葉を宿命的に教え込むなど、検証できない世界をあたかも真理を知ったかのごとく解説するのがカルト教団の教義、それに巻き込まれない価値観を持つことが大切だということ。
これも以前に放映されたNHK「ためしてがってん 振り込め詐欺にご注意」の番組で、騙される人間の脳の働きについて分析があった。それによれば、人間は、尋常ではないことを聞くと、聞かなければよかったと思う反面、理性的判断ができなくなり、そのことにはまりこんでしまう傾向があるようだ。
私は大丈夫と思っている人が一番危ないようだ。
日頃からの、自らの価値観をすぎとましていくことが大切かと。
科学は人間を無視しているとか、社会は腐敗だらけ、人間も矛盾だらけといった言葉に同調しやすい人が多い。
カルトの狙いは、人間を非科学的な自虐的世界に追い込むことであり、価値観をきちんとしていないと、ミイラ取りがミイラになりかねない。
この言葉、きつかったかもしれないが、カルトにハマったご家族の救出は、専門家のアドバイスを絶対受けてほしいと願う。
まとまらない記事になってしまったが、悩めるご家族のことを思い記事となった。
私は救出するための専門的なカウンセラーではない。
ただ救出を準備されるご家族が、何の準備もなく、今持たれている価値観を対象者にぶつけても、かみ合うわけがない。むしろ事態は最悪の道をたどり、
「そんなことがわからないなら、お前なんか出ていけ」となりかねないからだ。
絶対言ってはいけない言葉、カルトの思うつぼなのだ。フーテンの寅さんではないが、
「それを言っちゃーおしまいよー」
カルトに立ち向かう価値観の問題については、今日の記事とこのブログの今年度9月4日から9月9日までの記事を参考にしていただければ幸い。
来年は寅年。フーテンの寅さんにカルト退治をしてもらいましょう。
ご相談は、
日本基督教団 中部教区事務所 052-971-8497?
日本基督教団 統一原理問題東京地区連絡会 03-3203-4270
日本基督教団 大阪教区事務所 06-6761-8562
全国統一教会被害者家族の会