北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

このブログは旧「北風と太陽 OCN版」の保存のみです。更新記事はniftyブログ「北風と太陽 」をご利用ください。

説得を準備されるご家族へ    価値観をきちんとすることが大切  まずはご相談を

2009-12-24 13:42:52 | カルト

今までブログで「人間の理性まで、教義の天秤にかけて否定していくのがカルトの本質」という表現を使ってきたが、実は私自身,哲学者デカルトに大きく影響されている。

 

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デカルトという哲学者、聞くだけでも難しそうな話の臭い。

またkokoroはわけのわからない話をするのかと思われても仕方がない。

  

  

入信した対象者への説得とは、対象者の本当の自分を浮き出させてあげることだと思う。

  

以前、ブログにも書いたのだが、TV番組で木村拓哉演ずる脳科学者が、ふるえる手で拳銃を自分に向ける犯人に「貴方の味方は貴方の脳の中にいる。指を震わせている脳こそがあなたの味方なのです」といって犯人を説得する場面を見たとき、デカルトと重なる部分を感じた。

  

Web上で知り合った自主カルト脱会者の大半が、相談窓口を震える手でクイックされている。

おかしいと思い決別を決断しながら、反対側にSOSすることの心境は、凄まじいものがあると思う。

  

  

デカルトを振り返るにあたって、私の体験と照らし合わせてみたい。

私は小学生のときに肉親の一人を亡くした。

「夢であってくれたらいいのになぁー」と幼い心の中で思った。

でも翌日起きたら葬儀の日であった。ほっぺをつまんだら、痛かった。

もう二度と会うことができないと思うと、涙が止まらなかった。

  

  

しかし、私の脳裏にはもう一つの疑問があった。

ほっぺをつまんでも痛いという現実世界も、ひょっとして夢なのかも・・・・。

  

  

6年生の時の壁新聞に「夢から覚めたら、まだ夢だった。もう一度起きてみたら本当に目が覚めた」と書いたら、ホームルームの時に、学友が「オネショして起きて、シマッタと思っても、もう一度寝て起きれば、オネショが消えているっていうこと?」と聞かれ、教室に爆笑の声が響いたことが今でも記憶に残っている。

  

  

高校生になって、デカルトの「方法序説」を読んだ。読んだというよりは、夏休みの宿題で読まざるを得なかった。

初めて読む哲学書なので、大切と思われるところをメモにしながら読んだ記憶がある。

整理した時、私の小学生のときの、総てがひょっとして夢なのかもという疑念が「我思う故に我あり」の言葉で解けた。

  

  

ミッションスクールではあったが、哲学を学ぶ機会を与えてくれた先生方に感謝している。

デカルトの「我思う故に我あり」は有名な言葉だが、「思う」という言葉を「疑う」という言葉に置き換えて考える中で、デカルトはこの世のすべてを疑い、自分自身の存在まで疑った。

  

  

そこから導き出されたデカルトの結論は「疑っている自分自身の存在は疑えない」といことである。

  

「なぜ自分の存在があるのかを考える自分」を否定することはできない。

  

これこそが自分の存在の証明。この言葉は今の私の中に深く刻み込まれている。

大学に入って、哲学上の系譜を学ぶことができた。やはりデカルトの「方法序説」が哲学史上に遺したものの大きさに驚いた。「自我」を獲得した哲学者、「理性」を確立した哲学者であった。

  

さらに言うならば、デカルトの疑ったのは教会のドグマを含めてあらゆる非合理なものを、理性の天秤にかけて疑ったのだ。

  

  

彼にとって、疑うということは、私の小学校のときの「もしかしたら夢」とか、カルト教団の科学的真理や人間、人間社会の進歩に対する懐疑主義とはちがって、「理性の絶対的確実性と真理性の証明」と結びついていた。

  

  

そのような考え方は、デカルトは慣性の法則の定式化という功績を物理学史上に残すこととなった。彼は哲学者であり、一級の科学者でもあった。

  

  

現代のカルト教団の教義は「科学的な真理」を疑っている。

統一教会の場合、「科学と宗教の統一」という言葉によって、科学的な真理、科学的なものの見方を疑っている。しかし、出てきたのは、脱会すると地獄に堕ちるといったとんでもない教義だ。

  

  

私の中学校時代に、世に言う不幸の手紙をもらった。3日以内に同じ文面で5人に手紙を送らないと家族に不幸が起きるというものであった。父に相談したら、いたずらだと言われ、ださなかったが、3年間のあいだ、本当に不幸が起こらないか心配だった。

  

  

統一教会やカルト教団に家族を奪われ、説得の準備をされているご家族に、是非とも言いたいのは、不幸の手紙もそうであるが、何かを人間がしないと不幸が起きるとか、歴史は繰り返すという言葉を宿命的に教え込むなど、検証できない世界をあたかも真理を知ったかのごとく解説するのがカルト教団の教義、それに巻き込まれない価値観を持つことが大切だということ。

  

  

これも以前に放映されたNHK「ためしてがってん 振り込め詐欺にご注意」の番組で、騙される人間の脳の働きについて分析があった。それによれば、人間は、尋常ではないことを聞くと、聞かなければよかったと思う反面、理性的判断ができなくなり、そのことにはまりこんでしまう傾向があるようだ。

  

  

私は大丈夫と思っている人が一番危ないようだ。

日頃からの、自らの価値観をすぎとましていくことが大切かと。

  

  

科学は人間を無視しているとか、社会は腐敗だらけ、人間も矛盾だらけといった言葉に同調しやすい人が多い。

カルトの狙いは、人間を非科学的な自虐的世界に追い込むことであり、価値観をきちんとしていないと、ミイラ取りがミイラになりかねない。 

この言葉、きつかったかもしれないが、カルトにハマったご家族の救出は、専門家のアドバイスを絶対受けてほしいと願う。                         2009

  

まとまらない記事になってしまったが、悩めるご家族のことを思い記事となった。

私は救出するための専門的なカウンセラーではない。

ただ救出を準備されるご家族が、何の準備もなく、今持たれている価値観を対象者にぶつけても、かみ合うわけがない。むしろ事態は最悪の道をたどり、

  

「そんなことがわからないなら、お前なんか出ていけ」となりかねないからだ。

  

絶対言ってはいけない言葉、カルトの思うつぼなのだ。フーテンの寅さんではないが、

「それを言っちゃーおしまいよー」

  

カルトに立ち向かう価値観の問題については、今日の記事とこのブログの今年度9月4日から9月9日までの記事を参考にしていただければ幸い。

来年は寅年。フーテンの寅さんにカルト退治をしてもらいましょう。

  

ご相談は、

  

  

日本基督教団 中部教区事務所  052-971-8497?

日本基督教団  統一原理問題東京地区連絡会 03-3203-4270 

日本基督教団 大阪教区事務所 06-6761-8562 

全国統一教会被害者家族の会


統一教会 脱会者のリハビリの必要性について

2009-12-16 17:14:04 | カルト

国内で統一教会に入会し、脱会された人はおそらく何十万人といるだろう。

 

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そのうちのほとんどは自主脱会者である。アベルと喧嘩したこと、過酷な責任分担、トウゲンを果たすための尋常ではない収奪に耐えられなくなったことなどが脱会のきっかけとなった人が多いようである。

 

今年初めに、ある「自主脱会者」の方とweb上で知り合った。彼女の入信歴は1年である。20年以上も前に脱会されている。

 

彼女もマイクロで過酷な珍味売りの体験者だった。珍味売りをしながら母親が、実家の様子をこと細かく連絡してきたそうだ。家族への思いが募る中で、ある日こっそりと抜け出してきた。母親は何も言わずに迎え入れてくれた。

たった1年の入信歴・・その後の彼女に大きな影響を与えたようだ。

彼女の脳裏に沈んでいたものを、今年初めにメールで受け取った。

 

ずっと「脱会して現実世界に生きていても自分は悪魔、サタンに堕ちた敗者」であるとの感覚が拭えなかった。ただインターネットの情報化時代の中で、「自分が騙された」ことを知るなかで、人生をリセットしたいと言われた。

 

私の周りの知人やネットで知り合えた方の協力で、彼女は3カ月ほど前に、統一教会問題に詳しい牧師に会うことができた。

彼女一人では整理できなかった問題、たとえば今まで気にはしていなかったことも、統一教会の影響だったことを知らされ、牧師と出会えてすっきりできたようで、私自身もうれしかった。

 

脱会された方をそれほどたくさん知っているわけではないが、彼女の体験を通して、脱会後は専門家によるリハビリが必要だと思った。

 

Web上でも脱会された方が、リハビリに取り組んでおられる記事を最近よくみかける。

フラッシュバックとの闘いで大変な苦労をされている人もおられるようで、脱会すれば、家族は安心してしまうところごあるが、実は本人は大きな問題を抱えていることを家族は知ることとなる。私の娘の場合も例外ではなかった。

 

「現代のエスプリ」2008年5月号にはカルトの問題が心理臨床の視点から特集されている。黒田文月先生が「脱会後のカウンセリング」というテーマで書かれている。

 

カルトから離れることは強烈な体験からはなれることであり、脱会することは、入信することよりもはるかに困難・・何年も信じてきたこと、また命をかけて多くの人々に伝えてきたことを否定するのは並大抵のことではない。・・と述べられている。

 

カルト脱会者の支援は始まったばかり。放置された自主脱会者の中には、強烈な怒りや感情の吹き出しに苛まれる人が少なくないようだ。

自分の症状をカルトからの影響であることを自覚することは少ない。カルトの犠牲者であることの認識ができてない。勇気を出して医療機関に行っても薬漬けで根本的な治療とはかけ離れてしまうことが少なくないようである。

 

カルト脱会者の支援、リハビリの必要性を社会的に啓蒙していくことは、誤った治療を選択することを防ぐという意味で意義あることだと思う。

今リハビリ中の人には、人間としての人生を回復するための苦しくても越えなくてはいけない問題であり、頑張ってほしいと思う。

 

私も娘に中途半端になっていることがある。

親子でリハビリという問題について、もっと真剣に考えなくてはと思う今日この頃である。

 

今日本では、カルト脱会者のリハビリはカルト問題を専門的に扱っている臨床心理士の方にお願いする道が開かれている。

 

まだ数は多くはないが、大学で教鞭をとりながら、大学に相談窓口を設けられている臨床心理士の先生方の存在は大きい。

 

 

また長野小諸市には、リハビリステーションとして「いのちの家」がある。

私ども家族にとっては希望の灯である。 

また、全国的な組織として、日本脱カルト協会がある。

 

この輪がもっともっと広がり、一人でも多くのカルト脱会者の人生が回復されることを願いたい。

 

 

写真は「現代のエスプリ」2008年5月号


21年前の尾鷲マイクロ事故・・・慰霊の旅

2009-12-07 12:13:45 | 統一協会

12月4日のブログのつづきである。12月5、6日と彼女と知人数人で尾鷲に行ってきた。

  

2009_0050

  

尾鷲市街を抜けたらすぐ事故現場に着いた。目印は採石場と橋であった。

写真は尾鷲側から撮影したもので、事故を起こした車は熊野側から走ってきて写真の橋の向こうにある落石防止のネットに激突したと思われる。

  

ダンプや大型車が行きかう合間をぬって、彼女は花束を持って道路を渡った。

小雨の降る中で彼女は事故現場に花束を手向けた。

  

今から21年前若くして亡くなった二人の友へ思いを花束に託したようだ。

  

これで、心に引っかかっていたものが取り払われたような気がすると彼女は言った。

  

そして、彼女の希望で、亡くなった友人たちが最後の夜を過ごした熊野に向かった。

マイクロ部隊が事故の前日に仮眠した熊野駅前に行った。

  

駅前ロータリーには小雨に打たれながら少女の像がたっていたのが印象的だった。

  

仮眠をしたと思われる場所はタクシー専用の駐車場であった。そして、事故を起こした車と同じコースをたどりながら再度事故現場に向かった。

  

矢ノ川トンネルを抜けても曲がりくねった峠道が続いたが一瞬まっすぐに視野が広がった。

事故現場手前の直線コースだ。直線の先は緩やかな右カーブ・・・ここで事故が起きた。

  

私なりに当時を再現してみた。

  

1988年12月12日早朝といっても日が昇る2時間も前に熊野駅前から出発する1台のマイクロバスがあった。この地方は日本一雨量の多い地域であるがその日は晴れていたようだ。

早朝の闇の中を車はあっという間に熊野市街から、山間の道に入った。

  

闇の中を街路灯と、時おり、すれ違う対向車の灯りをたよりに曲がりくねった山間を走る。

リーダーで運転手のSさんは人一倍責任感が強い。午前2時ごろまで珍味売りの集計をしていた。

眠気に襲われながらの運転である。

  

熊野から尾鷲まで車で約40分。日の出までには尾鷲について、早朝の珍味売りをして、少しでも売り上げを伸ばそうと思っていたのであろうか。

しかし、その思いとは裏腹に寝不足からくる睡魔、曲がりくねった道の連続、ハンドルを握りながら、睡魔との闘いであったであろう。

  

彼女の話によれば、運転中は車の後部では6名の食口たちがお互い向き合うようにすわっていたはず。すわりながら居眠りをしていた人もいたかもしれない。

  

トンネル(矢ノ川トンネル)を抜けても曲がりくねった道は続いた。一瞬まっすぐな道が運転手のSさんの目に飛び込んできた。もうすぐ尾鷲だと思った瞬間・・・・車は右カーブを曲がり切れず落石防止の金網を支えるコンクリート壁に激突した。

  

死者2名重軽傷者5名。運転手のSさんはおそらく後に残る大きな障害を負われたようだ。

川崎経子著「統一教会の素顔」には違法改造されたマイクロに横たわる食口たちの絵がある。

  

タコ部屋という言葉がある。今でも外国人労働者を雇う際、小さな部屋に5人から10人ほど押し込ませている会社がある。日本社会ではタコ部屋は違法とされている。

マイクロは移動式タコ部屋だったのだ。

  

この事故で、統一教会の珍味売りマイクロ部隊の過酷な販売方法が明らかになった。

その後マイクロの珍味売りは、規制がかかったようだが、形を変えたもの売りは今でも続いている。

  

彼女は帰る車の中で言った、

「誘われたときに、こんなマイクロ部隊に入って珍味売りをやらなければならないことを聞かされていたら、きっと入らなかっただろう」と・・・・。

  

おそらく、亡くなった二人も同じであったであろう・・・・誘う時にきちんと説明されていれば、こんなことで命を落とすことは無かった。

  

帰りに、事故後相談にのられた方にお会いすることができた。

川崎先生の本には載ってないことを聞かされた。

  

統一教会は遺族に入った保険金まで霊感商法ですべて奪い取っていったそうだ。


21年前の惨劇  尾鷲マイクロ事故で2名死亡 ある脱会者の亡くなった友への思い 

2009-12-04 22:00:09 | 統一協会

 

ある自主脱会者を知ることとなった。彼女の入信歴は長い。財政的にも、精神的にもぼろぼろになりながら自主脱会された。

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彼女は、1988年12月12日尾鷲の事故で亡くなられた食口の一人と仲がよかった。

時期は外れるが彼女もマイクロの体験があった。

 

マイクロ部隊は日訪販中部の珍味売りということのようであるが、実際は珍味をどれだけ売ったかで信仰の責任分担を果たすということで統一教会の組織的販売活動である。

 

事故当日、統一教会の名古屋のすべて予定が変更となった。

あとで事故を知り、友人が亡くなったことを知った。

 

彼女は事故後精神的なショックで活動をやめた。

亡くなった友人の情報を知ろうと思っても情報が入らなくなった。

 

でも亡くなった友のへの思いを消え去ることはできなかった。

今から思えば、その思いが彼女を脱会へと導いたのではないだろうか。

 

脱会された今、彼女は一度、尾鷲の事故現場に行って、亡くなった友人のために花を手向けたい、と言われた。

 

一度、亡くなられた方の慰霊のため行ってみようと思う。

  

地図は尾鷲市南部の事故現場


12/6名古屋 文鮮明自叙伝出版記念パーティー   問われる歴史との整合性 

2009-12-03 13:00:35 | 戦時下の文鮮明

来る6日に名古屋、日本ガイシホールで文鮮明自叙伝出版記念パーティーが開催されるという情報をいただいた。

 

去る10月18日には、愛知県フォートメッセ名古屋イベントフォールで在日韓国人同胞を対象とした、文鮮明自叙伝の出版記念大会が開催された。

この在日を対象としたイベントは、名古屋に始まり、東京、広島、大阪で開催されたようだ。

  

ネット情報での10月18日の名古屋での列席者に二人の政治家の名前があった。

青山タカシ前衆議院議員。自らも食口であるという噂のある人物、議員時代は統一教会から無償で派遣された食口を秘書を使用していたという人物である。

もうひとり天野マサシ市議とあるがネット検索にかからないので、ご存じの方がおられれば教えていただきたい。

 

今度の日本ガイシホールにも青山タカシはおそらく来るであろう。自民党の大村秀章衆議院議員や食口の碧南市長禰宜田(ねぎた)政信ぐらいからは祝電がくるかもしれない。

 

ところで、この自叙伝、目新しいことでは、日本留学時にボクシングを習っていたことが書かれてある。

 

ボクシングは当時の留学生、勤労朝鮮人にとって、拷問を受けた時の体力維持のめに習う人が多かったようである。朝鮮人とみられれば、特高の標的であり手当たり次第に拷問を受けたようである。文鮮明もその一人だったのであろうか。

 

文鮮明の口から解放運動の指導者金九と連絡をとりあっていたというが、独りよがりで証人がいるわけでもない。

終戦後1945年秋に政治犯が釈放されたとき、数千人の朝鮮人釈放があったというが、彼がその時釈放された人の一人ならば証明はできるのだが。

 

文鮮明の歩んだ道は、検証するための証拠、証人に乏しいことが節目節目のところで明らかとなる。

 

歴史との非整合性についても、しかりである。

 

1943年9月、戦局悪化により、急きょ留学生は繰り上げ卒業(日本人大学生にたいする学徒出陣という時代背景)するのであるが、彼の口からは、自分は理系(早稲田高等工学校電気学科)だったので、徴兵を免除されて半島に戻り鹿島に就職したというのである.

 

しかし理系で免除されたのは、日本人学徒であって、朝鮮人学徒の現実は理系、文系の区別なく強制的に全員が徴兵の対象であり、逃亡を防ぐために、郷里の実家まで警察の手が及んでいたのである。

  

彼がいみじくも鹿島に「就職」という言葉を使ったが、当時朝鮮人学徒である文鮮明のおかれている条件のもとで就職はなかったはずである。

  

ただ唯一、朝鮮人学徒が、会社に入って仕事をする条件があった。

徴兵からの逃亡が失敗し捕まってしまったあと「応徴」として、厳しい監視下のもとの労働である。まさしく当時の鹿島は「応徴」を採用していたのだ。

  

彼の口から出た言葉と、歴史とのズレをどう理解すればよいのか。

  

  

この時代の文鮮明を、同時代の朝鮮人学徒が歩んだ道を通してもうすこし考えてみたい。

  

  

尚、この時代への、朝鮮人差別に対する配慮について行きとどかない文章になっていることについて、文意を理解していただいて、お許し願いたい。