北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

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統一教会は3.25徳野指導基準に基づき、今までの献金すべて返金せよ

2009-03-29 22:24:07 | 統一協会

3月25日「 教会員の献金奨励・勧誘活動及びビデオ受講施設等における教育活動等に対する指導について」という指導要綱が、統一教会会長徳野英治の名前で発表された。

  

3月12日に発表された「信者らの活動に関する事件報道について教会指導者に対する注意と指導-」に続くもので、統一教会のこれまでの違法勧誘、霊感商法に対する民事裁判での敗訴、示談で多額の損害賠償に応ずるなどの出来事を背景としているが、決定的なのは渋谷の「新世」の捜査に警視庁公安が入ったことだ。

  

有田氏によれば、警視庁公安は、オームの後は「統一教会」とターゲットを定めていたようだ。

  

全文はhttp://www.uc-japan.org/messe.aspxを参照してほしい。

  

教会員の献金奨励・勧誘行為、及び教会員が自主的に設立・運営するビデオ受講施設における統一原理を用いた教育活動について、

  

あくまでも教会員が自主的にやってきたという言い方だが、全国津々浦々にビデオセンターが点在している状況を考えると、開設、運営する資金が組織的に統一教会から出ていることは明らかだ。個々の信者が自然発生的にやったとするならば、いろいろな形態が存在するはずだからだ。

  

このように今までの裁判でもそうだが信者が自主的にやったことで、統一教会は組織的に関係ないと言い張っていたことが、通用しなくなったことを認めた文章だ。関係ないなら、ずーとその正当性を言い張ればいいのだ。

  

その結果、裁判で教会の使用者責任が問われたという言い方で、しかたなく、下記の指導基準を設けたというものだ。

  

第1   教会員の献金奨励・勧誘活動についての指導基準

1.    

献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。また、霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない。

2.    

教会員への献金の奨励・勧誘行為はあくまでも教会員本人の信仰に基づく自主性及び自由意思を尊重し、教会員の経済状態に比して過度な献金とならないよう配慮する。

3.    

献金は、統一原理を学んだ者から,献金先が統一教会であることを明示して受け取る。

4.     上記1,2,3について教会指導者(地区長、教区長、教域長、教会長)が責任を持ち、教会員の献金奨励・勧誘行為において、教会員等による社会的な批判を受けるような行為が行われないよう指導・監督する。

  

第2   教会員が自主運営するビデオ受講施設等における教育活動等についての指導基準

1.    

勧誘目的の開示 教会員が自主的に運営するビデオ受講施設等における教育内容に統一原理を用いる場合、勧誘の当初からその旨明示するように指導して下さい。また、宗教との関連性や統一教会との関連性を聞かれた際には、ビデオ受講施設等の運営形態に応じた的確な説明ができるよう、ご指導下さい。

2.     法令遵守(コンプライアンス) 特定商取引法をはじめとする法令違反との批判を受けないよう配慮して下さい。例えば、教会員が自主的に運営するビデオ受講施設等で受講料を徴収する場合には最初からその旨明示し、受講契約書等必要書類を交付しなければなりません。また、勧誘に際しては、「威迫・困惑させた」「不実を告知した」と誤解されるような行為がないよう、注意して下さい。

  

  

    こんな文章でごまかされるものではない。これで過去の霊感商法、違法勧誘が許されるものではない。ましてや違法勧誘が無くなるとは思えない。

  

「手相占い勉強」「意識調査」が無くなったのだろうか。しばらく街頭に立って彼らの活動ぶりを見てみたい。「統一教会ですけど」と誘いかけるとか、統一教会のゼッケンをつけてやられているか、調査をしてみたい。そして指導基準から外れていれば、彼らに教えてあげようと思う。「統一教会とわかるようにやってくださいと」。

  

それと、第1の1、献金と先祖因縁話はしない 2、献金の配慮・・・・はこの間過度の献金を先祖因縁話で強要してきたことを認めた文章だ。返してもらいましょう。全部返してもらいましょう。

  

返す意思がなければ、この基準は嘘だ。年末から献金要請のあった180K(180万円)も過度の献金だ。信者たちが、家族、親類縁者に頼ろうとした全国的な情報を、弁連、家族の会は持っているはず。

  

自助グループの相談でも、信者の母から頼まれたが断ったという話が相次いでいる。乾いたぞうきんを更に絞るようなやりかただ。家族、親類関係はさらに悪化。これが宗教なのだろうか。

  

多くのキリスト教を収入の10分の1献金が通常のようである。詳しくは知らないが聖書に書かれているようだ。なぜ10分の1献金と言えないのか。

  

統一教会にとって、最終目的はお金、お金、お金なのだ。共産主義を物質主義だと非難しながら、自らの目的がお金という物質なのだ。非難されるべきは統一教会のお金至上主義であることに食口の人に気付いてほしい。

  


カルト化するキリスト教会 沖縄キリスト福音センター美浜教会

2009-03-28 17:39:05 | カルト

最近ブログ記事を通して、沖縄の女性からメールを頂いた。

  

沖縄ではキリスト教がカルト化し、信者が虐待を受けているという内容だ。

  

統一教会、御国教会以外で国内のキリスト教の教会の中で、人権を奪うような虐待が行われている事実に、統一教会だけに目が向いている自分の視野の狭さを知った。

   

問題となっているのは昨年、朝日新聞の雑誌、アエラで教会不祥事が特集された際にも記事になった沖縄キリスト福音センター美浜教会。

  

信者への虐待、いろんな名目で献金をせまる。

統一教会問題に詳しい京都のM牧師が、虐待された信者の相談にのっておられるとのこと。

  

被害者たちは美浜教会の牧師たちに損害賠償を求めたが、1月の那覇地裁では 原告側の請求は棄却され敗訴。原告はこの判決を不服とし控訴手続をとったとのこと。

  

  

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51836967.html#comments

  

関連する記事をネットで検索していると、教会の在り方に失望した信者が何百人といるにもかかわらず、沖縄県北・中・南部牧師会はM牧師を誹謗中傷する態度をとっておられる

ようで、教会の体質が、今の民主党と同じだ。企業献金の違法性を認めながら、逆らえない。なんてことだ。

  

http://blogs.yahoo.co.jp/digged_wellwater/11234233.html

  

さて、私としては問題となっている教会内でどんなカルト説教がされているかということに関心がいくのだが。

幸いかな「被害者の会」のブログに牧師の説教を詳細に記録したものがあった。

  

http://blogs.yahoo.co.jp/digged_wellwater/archive/2009/2

  

驚いた。「悪霊をはらえ」「悪霊との闘い」そんな説教ばかりだ。

信者の中には現代の治療を拒否され手遅れで失明された方もおられるようだ。

那覇地裁では敗訴だったようだが、ぜひ高裁では勝利してほしい。

  

カルトに勝利はないことを、世論でつくりあげていく。その一助になればと思い今日の記事となった。

  

メールを頂いた女性の方に感謝。

 


統一教会化する韓国キリスト教会

2009-03-20 00:28:51 | カルト

御国(みくに)教会

  

私にとっては聞きなれない教会名だ。わかりやすくするために韓国系キリスト教の一派という案内にしたい。

  

韓国ではクリスチャンの人口が10%から15%ぐらいだと聞いている。外国からの支配が続く中で、人類の平等をうったえるキリスト教は、朝鮮半島に人々にとっては、救世主的役割があったのだと思う。

  

在日のクリスチャンの人々は、日本の既存のキリスト教会に通う人もいれば、韓国から渡ってきた伝道師たちによって作られた韓国系の教会に通われる人もいるということのようだ。

  

さて、御国教会のことだが、ネット検索すると今まさに、牧師のセクハラ、献金流用、信者間のペアー交換、牧師絶対主義のような体制が存在し機能しているという記事にでくわす。裁判まで起きているようだ。キリスト教の看板をかかげたカルト集団だ。

  

既存のキリスト教会の牧師による信者への虐待について、警鐘をならしているパスカル.ズィビー氏も御国教会の研修会「トレスディアス」について、批判されているようだ。

詳細については、脱会された方の下記のブログを参照されたい。

  

http://maglog.jp/protestagainstmikuni/index.php?module=PB

  

  

私にとっては「本当の三位一体の信仰とは」という宗教上の教義の論争は、信者ではないから、専門家にお任せしたい。

  

  

ただ、御国教会のことではっきりしていることは、統一教会と全く同じ事象が起きていることだ。

家族を否定、牧師を絶対化、「自分で判断するな」ということが日常的にいわれている。献身者を強く求める。日本がサタンに汚されていると言っている。

  

研修会「トレスディアス」は御国教会ばかりでなく、下記の教会も参加しているとのこと。

  

  

カナン福音教会
日本バプテスト四日市教会
コミティッドジャパン浜松
浜松汀キリスト教会
単立聖都福音教会
グレイスチャペル安曇野
栄光聖書教会
鈴鹿キリスト福音教会 
緑の牧場グレースクリスチャンフェローシップ
愛知新生キリスト教会

  

  

もし、該当する教会の信者の方がこのブログで疑問に思われたら是非、5月GWに予定されている「トレスディアス」について検証する体制を教会内で作っていただきたい。

  

自分たちの教会が統一教会化してよいのかどうか。

  


大槻教授 スピリチュアルを断罪

2009-03-19 20:51:44 | 霊感商法

霊感商法 に関する Google ウェブ アラート

大槻義彦のページ ―大槻義彦公式ブログ― powered by ココログ: 霊感 ...

 

 
2009317... 『霊能力・霊治療・霊視相談などは直接霊感商法とは関係ないではないか。実際には霊感 商法の被害の大部分は統一教会 ... 統一教会の霊感商法に騙される多くの人々は、 テレビ・週刊誌などでの霊能力キャンペーンによって霊的世界の存在を ...

 

http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0cb1.html

  

  

kokoroのコメント

霊能師ブームというか霊的なものに対するガードが甘くなってきている世相のなかで、大槻教授のこの記事は、マスメディアに対し警鐘をならしている。

  

私の妹も、カルト信者の夫の霊的治療の犠牲者の一人。末期癌が霊的治療で治ったという人がいるならば、末期癌であったことの医師の診断書と末期癌が完治したという医師の診断書をそえて、週刊新潮編集部にその事実を明らかにしてほしい。ここでいう医師とは、日本国の医師免許をもっている医師であって、医学博士は含まれない。


原理講論「総序」は理性否定

2009-03-14 00:15:50 | 原理講論批判

今だからわかるカルト的思考回路

  

私の人生を振り返って考えると、高校時代(1960年代後半)はベトナム反戦、靖国問題で大学生のみならず高校生がデモに参加した時代であった。学校はミッションスクールで、ベトナム戦争、天皇制の批判と紀元節と建国記念日の問題が授業の合間に話された。

  

紀元節が建国記念日と制定され、2月11日は祝日となったが、私の通っていた学校は休校とはならず、抗議のための出校日となったのである。

  

当時、私自身は学校の影響で人間が作り出した社会の矛盾について考えることが多くなった。無力感に苛まれるときがあった。こうしている間にも、ベトナムでは多くの人が米軍の無差別爆撃で亡くなっているのに、何もできない自分がいると・・・・・。

  

当時、ボブデュランの「BLOWIN IN THE WIND」という反戦歌がラジオの深夜放送から流れていた。内容は、どれだけ多くの人が亡くなったら戦争は止むのだろうというもので、わかりやすい英語の歌で当時の若者のこころを引き付けた。

  

NHKの番組で「高校生時代」「われら高校生」というのがあり、高校生の自由討論の場があった。そこでも出場した高校生たちが反戦平和の問題を自主的に発言し始めた。その時だった。突然番組が「中学生群像」「中学生日記」と変えられていった。

  

学校の関係でプロテスタントの教会へも行った。教会には高校生会があり、そこでも先輩や同級生たちがいろいろと議論していた。議論の先頭に立っていた先輩たちは大学進学後、全共闘運動へとなだれ込んでいった。

  

私自身も大学進学後、バリケード封鎖に直面し自分がどういう道を選ぶべきか悩み続けた大学時代であった。私が選んだ道は、「大学解体」に象徴される全共闘の道ではなかった。

当時全共闘が配っていたガリ版刷りの「全共闘自己否定論」と題した論文がいまだに我が家の納戸の中に眠っている。

  

つい先日、全共闘と三島由紀夫が東大で論争しているフィルムを見た。論争している学生の顔には人間らしい生気がなく、排他的であると感じた。カルトの顔だ。

カルトは宗教だけの問題かと思っていたが、今振り返ると左翼カルトも存在していたと思った。

  

全共闘自己否定論」を読んでみると、帝国主義的支配という人間社会の矛盾の中で、闘う自分の存在意義について、自分自身も完全ではないし、矛盾を受け入れざるを得ない生活をしている。帝国主義的支配に対して闘うためには、社会の全面否定と自己否定なしには、闘う自己は存在しない、というものである。そこから「大学解体」のスローガンが出てくるのであろう。

  

私は全共闘運動すべてを否定するつもりはない。当時の社会的問題を全面に押し出し、大衆的な支持をうけたのも事実だからだ。ただその排他的性格から、内紛、分裂をくりかえし、「大学解体」というスローガンで、最後は一般学生から支持を失って先鋭化していった。

  

彼らの自己否定に至る部分は、統一教会の原理講論の「総序」の部分によく似ている。

以下「原理講論 総序」よりコピー

  

とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・1011)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・2224)と慨嘆したのであった。ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。

  

  

原理講論の堕落論の基本となる部分である。詳細な批判は機会を新たにしたいが、人間を「堕落」という言葉におきかえ、人間本来の理性的思考の埋没を意図して書かれていることに注目してほしい。

  

「堕落」を認めさせることにより「救い」が必要な世界に誘導し、そのためには違法勧誘、高額献金、霊感商法なんでもありの信者となっていく過程の「総序」の部分である。

  

全共闘は闘うために自己否定という観念的儀式が必要だった。自己否定するものとしない者との選別化がある。

矛盾した社会、矛盾した人間の姿を一面的に極大化し、自己否定すれば何でもできるような論理こそ、人間の本質的部分である理性の天秤を狂わせるものではないだろうか。

行くつく先は、全共闘にあっては、浅間山荘事件、よど号事件であった。

  

全共闘と統一教会の一致するところは、理性を失った「人間喪失」の世界。

違うところは、統一教会の場合は、頂点に「メシア」の仮面をかぶった詐欺師がいることだ。そして脱会すると、先祖の霊は未来永劫救われないし、自分や家族に不幸がおきるという呪縛の世界。

  

全共闘の脱会するということは、今まで散々他者に対して日和見主義批判をしていた自分に対して、日和見主義というレッテルを貼ることだが、これもまたマインドコントロールからの脱出であり大変な精神的苦渋をともなうはず。しかし40年前の時代の申し子的感慨から、「おれは昔全共闘だった」という輩がいることを思うと、なぜか滑稽に思われる。

なぜなら「私は昔統一教会だった」と感慨深げにいう人はいないからだ。

  

「総序」や「自己否定論」を読んで、同じような感情を持たれる人も少なくないと思う。まじめな人ほど、誘い込まれていく文章である。

多くのカルトは同じような手法で人間の欲、エゴを一面的に究極的なところまで追求することによって、人間の理性までも秤にかけて否定してしまう。

でも現代の人間社会をふりかえってよく見てほしい。人間社会にはいろいろな問題があるのは事実だが、宗教、非宗教にかかわらず、手を取り合い一生懸命生き、人々に勇気をあたえている人々がたくさんいることを忘れてはならない。

  

私の身近な問題でいえば、生まれつき多臓器障害の子供を救う住民運動が展開された。私もカンパを会社で集めさせてもらった。社会人、主婦、高校生といった見ず知らずの多くの人がボランティア、協力を申し出た。残念ながらそのお子さんは手術のかいもなく亡くなったが、そのお子さんが残したものは、計り知れないものがあると思う。

  

そこには「自己否定論」もないし、「堕落論」の入る余地などない。あるのは、人間同士の絆であり、助け合おうという理性的判断なのだ

  

私のかかわっている労働運動、核兵器廃絶の運動も,然りである。また派遣村も然りである。

ただ以前のブログ記事で「なぜ堕落論は必要だったか」で紹介したH牧師が言われた言葉

神は人間たちのおろかな思い上がりを咎め、深い愛情でその罪を許す

  

これは人間が理性的であるための一つの真理のような気がする。なぜならばこの言葉に依拠するクリスチャンにとって、自分を堕落とみる必要もないし、自己否定も必要ない。なぜならば自分は神の深い愛情で許されているからだ。理性の天秤が狂うこともない。

  

高校生会のとき、確か宮古島台風の募金活動をするかしないかで混乱したことがあった。募金活動は偽善的行為か否かもめたのだが、今になってH牧師のこの言葉によって、私の頭の中で一件落着したような気がする。