明日、10月7日は、ブログ「北風と太陽」の2周年。
こんなことを書くと、なにも知らない人から「おめでとうございます」というコメントが入りそうだが、カルトに子供を奪われたご家族の立場にたてば、このブログに、その言葉はふさわしくない。
この2年間は統一教会の内包する矛盾が止揚できずに、崩壊の道へと着実に進んでいることをブログを書くたびに感じていた。
そのため、最近、情報記事が多くなり、私自身反省しているのだが・・・。
今日はすこし思ったことを書いてみたい。
人間の愛には、様々な表現がある、引き出そうと思えば無限の力があると思う。
一つの例をあげると
命を顧みずに、ホームから線路に落ちた人を救い出そうとした人たちがいる。
今ここで死んだら、家族が生活に困る・・・でも列車は近づいてくる。
いま行動に出れば、助けられるかもしれない・・・。
誰でも悩む。悩んだ結果もっとも人間らしい決断をした人たちだ。
助け出すことができた人の多くは生還しているが、中には亡くなられた方もいる。
彼らに「堕落論」はあてはまらない。
ただ誤解がないようにしなければならないが、助ける決意ができなかった人は、非人間的なのかと言えば、そうではないと思う。
人のことを多少でも気遣う人間であれば、誰でも悩むのではないだろうか。
人間的に悩む。悩む過程が大切なのではないだろうか。
人間の愛、人間の理性、こういう言葉をみると、いつの間にか、脳の中で「人間」という言葉が「堕落」に置き換えられている人間たちがいる。
彼らには悩む過程がない。決めつけしかないのである。
彼らには、神からの選民として、地獄で苦しむ先祖の霊、今生きている家族の死後の保障を得るために今死ぬわけにはいかないのである。
おそらく彼らには、線路に落ちた人を、わが身を代償に救うという選択肢は頭に浮かばないだろう。
マインドコントロールである。人間的な悩む姿がないのである。
そういう人間たちは、人間社会での、家族の愛情、男女の愛情、人と人との愛情を理解できなくなっている。
わが子が、そういう人間に改造されてしまったご家族の苦しみは、その苦しみが大きいほど、その愛情が確かなものであり、大きなものであることを、最近頂いたあるご家族のメールを通して感じている。
写真は、カルトに入った子供を家族の愛情が包み込むことを表現した私の写真
2年ですね・・・。あっという間のような気がしています。
その間様々な情報の中で考えさせられましたが、
やはり大切なのはそれよりも人対人の、心対心のあり方だと私は思います。
現役信者であっても、心からの言葉をかけていれば、
いつか大切なものに目覚めてくれることを、主に祈りながら・・・。