この表は、今月初めに、ちゃぬさんのブログと私のブログでとりあげた、文鮮明師の京城商工実務学校での修学時期を検証するために、知人が中央大学校師範大学付属高等学校に問い合わせて入手した資料を翻訳したものである。
すでに、1939年2月に校名が「朝鮮職業指導(講習)学校」」から「京城商工実務学校」に変わったことは、中央大学校師範大学付属高等学校のサイトであきらかとなっている。
この表からわかることは、校名が変わった1939年の3月の卒業生を「京城商工第1期卒業生」としていることである。
第3期卒業生は、今の統一教会の発表と同じ1941年3月となるということである。
ちゃぬさんのブログから、山口浩著「原理運動の素顔」の文章を借りた。132p
この学校に赴任し、日本語と英語を教えた園部治夫氏(現明治学院大学教授)の、文鮮明の印象は次のようなものである。
「当時は文龍明といっていました。日本名を付けなければならなかった時代でしたから、彼は江本といっていました。うちの誰か先生が付けてやったのでしょう。江本龍明は、活達で教室でも人をリードしていくいい生徒でした。勉強も出来たほうです。彼は三九年(昭和十五年)卒の第三期卒業生です」
① 日本名を付けなければならなかった時代(創氏改名1940年)
② 第三期卒業生です
文鮮明の当時の恩師園部氏、同窓生の「第3期生」証言と卒業証明書の「第3期生」で一致しているので、「原理運動の素顔」に書かれている「1939年の第3期生の卒業」はあり得ないことになる。
1938年入学、1941年卒業となれば、年齢で18歳入学で21歳卒業ということになる。
現段階としてはこの資料があり、創氏改名の時期を考えると「江本龍明」として卒業したのは1941年3月というのが、最も可能性が高いと言わざるを得ない。
ただこの時期に文鮮明にどのような人脈が生まれたのか、その後の教祖の路程を検証するうえで、最も重要な時期ではないかという私の推論を変えようとは思わない。
今回の検証作業で多くのことを学んだ。あらたな疑問も生まれた。
京城商工時代の文鮮明師をもう少し検証してみたい。