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リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

どんなに苦しくても世の中が真実で満ちていればそれでいい  
どんなに辛くとも信じるに足る社会であれば人々は生きて行ける

鳥無き島の蝙蝠 経過報告

2010年02月18日 | 鳥無き島の蝙蝠

土佐・長宗我部復権運動 竜馬伝から長宗我部元親伝へ

歴史小説への挑戦 ~鳥無き島の蝙蝠~

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街づくりカフェ in ゆうあい工房 では、毎週金曜日に歴史談義を開いて、長宗我部元親の伝記(歴史小説)を書く準備をしています。このブログでも専用のウェブページで、歴史談義への参加・寄稿を呼び掛けています。

竜馬伝の人気で全国的高知人気が高まっていますが、その後は?

山内一豊伝の「功名が辻」、「竜馬伝」に続いて、NHK大河ドラマに期待されるのは、戦国ゲームで若者にも人気が高い「長宗我部元親伝」です。しかし、今のところ、元親を題材にした歴史小説は司馬遼太郎の「夏草の賦」しかなく、司馬氏は土佐武者を「田舎者」「野人的武士=野武士」として描いています。

土佐の侍は、「功名が辻」でも、荒くれで粗野で下品な姿で描かれていました。しかし、真の土佐の武士・民は、京・上方に引けを取らない知性と教養と力を兼ね備えた優れた集団でした。

武田の騎馬武者軍団と同様に、単に鉄砲(種子島)伝来以降の織田信長式の新式軍備に対応できなかっただけで、武田家軍学書の「甲陽軍鑑」には『名高キ武士』として、徳川家康 長宗我部元親 赤井直正 と並び称されています。つまり、鉄砲技術・装備を除けば全国ベスト3の武将だったのです。

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SNS「コミュニティー高知」で、この「土佐・長宗我部復権運動 竜馬伝から長宗我部元親伝へ」の議論がスタートしたのですが、そちらである程度意見が出て、戦国武将の英知への探求心が見えてきました。まとまったものから順次公開します。

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戦国武将らは、武勇と共に、宗教・祭祀・文学・医療・経済・土木・産業振興・貿易・航海技術など、あらゆる知識を追い求めていました。天下を治める者として、武芸以外の分野にも精通していなければ周囲から認められなかったのです。

キリスト教布教目的で日本を訪れた宣教師らを信長と元親が援助した背景には、「信仰」よりも、宣教師らがもたらす「西洋の知識・技術の吸収」があったのでしょう。まだ若く、純粋であった信親は、キリスト教に感化されて入信を考えていたようですが、元親は西海・南海の王となり、ライバル信長を打ち負かす力を養う術として、キリスト教の布教活動を利用し、西洋文化吸収に努めたものと思われます。

我々は、この信長と元親が追い求めた「西洋の知識・技術」が、それ以前には「神仏習合」でもたらされたことに着目すべきでしょう。当時の知識人は神仏習合下の僧や茶人で、神社仏閣は、我々現代人の想像を遥かに凌駕する英知を集めた施設であり、今の省庁に近い存在でした。

戦国時代、寺社は領地支配を天皇に許され自治権を主張して僧兵などを集めた「自治区」「城」でもあったのです。信長の比叡山焼き討ちは、独立・武装していた比叡山宗教者らからの自治権・統治権の剥奪並びに武装解除だったのです。また、この事件は「天皇の承認に基づく自治権」を否定する。という信長の決意を示したターニングポイントとなっています。

信長の横死については、こうした信長の宗教界への弾圧が主因だと巷で言われていますが、明智光秀・斉藤利三・長宗我部元親ラインの謀略(思惑)が複雑に絡まっています。

また、信長の死に因って、元親同様に戦火を免れた「毛利元就」の動向が気になります。彼らに仕えた滝本寺非有と安国寺恵瓊の「一対坊主」の策略があったと言うべきでしょう。

我々は、このもつれた思惑の糸を解きほぐすためにも、「信長と元親の認識の範囲」を見極めなければなりません。元親の参謀である「非有」、信長に仕えた「滝川一益」、元就には「恵瓊」。彼らの知識の根源がどこにあったのか?如何なる情報を得、与えたのか?探る必要があります。

元親が神社仏閣を訪ね歩いて参謀を探し出し、秀吉が千利休を重用し、家康が大樹寺の登誉上人に諭され自害を思いとどまったことなど、僧侶・茶人の戦乱への関与について具体的事例を掘り下げる必要もあるでしょう。

因みに、当時、茶の湯は、医療の一環であり、精神修養であり、現代で言うヒーリング・癒しの求道です。その作法を追求することは武士のたしなみと考えられていました。

「宝剣を天に投げ打つ」との辞世を遺した「千利休」ですが、これは韓国の詩を引用したもので、利休の草庵は朝鮮半島の民家を模しているとの指摘がみられる。その英知の源泉に朝鮮文化があることは、利休忌を営む薮内家の掛け軸に「立膝で座る利休」が描かれていることからも窺い知ることができる。(NHK放送資料より引用)00

華々しく散ってゆく武将らの陰に隠れて、策略をめぐらしていたのは、宗教家・茶道家・商人らであることに疑いの余地はありませんが、彼らが日本と朝鮮・中国、西洋列強との取引に深く関与していたことも、また、見逃してはならないでしょう。

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長宗我部を語る会 高田牛乳

2010年02月09日 | 鳥無き島の蝙蝠

街づくりカフェでは、毎月第2水曜日に長宗我部ファンクラブ主催の「長宗我部を語る会」(参加費300円・ワンドリンク付き)が行われている。

小浜亭馬楽の講談『土佐物語』が好評で、今月は2月10日(水)に行われる。09

ワンドリンク300円のうち、100円が長宗我部ファンクラブに、100円が講談師に、100円がカフェに収納される・・・ ちょっと赤字だが、それもご愛嬌。沢山の方に来ていただきたい。

Photo005 今日も元気の源。高田牛乳(高知県室戸市佐喜浜)の牛乳とヨーグルト飲料。家の子どもたち(男の子2人)の好物はコーヒー牛乳だ。

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信長はエラスムスの痴愚神礼讃を知っていた

2010年02月01日 | 鳥無き島の蝙蝠

ウィクショナリーの鳥なき里の蝙蝠には、「鳥がいないところでは、ただ飛べるというだけでコウモリが偉そうにする。」 すなわち、「ある分野に関して、本当に優れた人がいないところでは、ちょっとその分野に知識等があるだけで、その道の権威然とすることのたとえ。」と記された後、デジデリウス・エラスムスの言葉の各国語訳が綴られている。

ドイツ語: Unter Blinden ist der Einäugige König (de)
英語: in the land of the blind, the one-eyed man is king (en)
エスペラント: inter blinduloj, reĝas strabuloj (eo)
オランダ語: in het land der blinden, is eenoog koning (nl)
フランス語: au royaume des aveugles, les borgnes sont rois (fr)
スペイン語: en el país de los ciegos, el tuerto es el rey  (es)
ハンガリー語: vakok között, félszemű a király (hu)

コトバンクでは

鳥無き里の蝙蝠 「すぐれた者や強い者のいない所で、つまらない者がいばることのたとえ。」

鼬の無き間の貂誇り 「天敵のイタチがいないとテンがいばる意から 恐れるものがいない所で大いばりするたとえ。鼬の無き間の鼠。」

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これらの諺は全て英国の古いことわざ「in the land of the blind, the one-eyed man is king」(盲人の国では片目は王様)を意訳したもので、1511年の出版以来、当時としては破格のベストセラーとなったエラスムスの「痴愚神礼讃」の各国語翻訳本を通じて世界に膾炙されたものと考えられる。

こうした着想から、織田信長が長宗我部元親を鳥なき島の蝙蝠(大きな敵のいない四国で覇を唱えて偉そうな顔をしている者)と言ったとされている通説について、信長がエラスムスの「痴愚神礼讃」を読んでいたことを前提に解釈を加えたものが「長宗我部元親伝~鳥無き島の蝙蝠 序文」である。

長宗我部復権運動の基礎論理。是非読んで頂きたい。

(写真引用はウィキペディア)


長宗我部 秦氏 景教 ネストリウス教 大避神社 大闢 要調査

2010年01月21日 | 鳥無き島の蝙蝠

(ブログ構築中 ; この項はゆっくりじっくり書き進んでいきます。後日チェックしてください。)

空海が接した景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。佐伯好郎(東京帝国大学の文学博士)によると、渡来民族である秦氏によって日本にも景教が伝わったともいわれる。

Hasekkura長宗我部元親の歴史小説を考えるとき、戦国時代における日本の各武将らの海外交易とキリスト教との関係に目を向けざるを得ない。

当時の交易・通信範囲は私たち現代人が考えるより遥かに広く、驚かされる。

元親がキリスト教司祭に援助を約し、信親が入信を期していたことは既にブログに上げた。また、織田信長がローマ教皇に金屏風を送ったことはつとに有名である(ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。)


1613年伊達正宗の家臣・支倉常長はメキシコ経由でスペインに上陸し、ローマ教皇に謁見して貴族に叙されている。

これを知った時には驚いたが、当時のヨーロッパ人かすれば、極東の小国日本に、かくもきらびやかな絹織物を身にまとった武将が闊歩している事実を目の当たりにしたことは、想像を絶する驚きであったろう。なにせ、当時のヨーロッパは法外な値段で中国から絹製品を輸入していたのだから・・・

ルイス・フロイスら宣教師からの報告どおり、日本は当時から技術大国だったのである。

Faxicura_travel 

中国ではダビデを漢訳して大闢と書くが、秦氏は西日本各地に大避神社を建立した。京都・広隆寺そばの大酒神社は、大辟(遡って大闢)と号し、秦始皇帝を祭神の1つとする。

(以下に、今後研究したい材料を置く。世間では、かなり奇抜な記述であるように思われるだろうが、私は納得する部分が多い。)

引用 秦野エイト会のHP ―

高野山に真言密教を創建した空海は、803年最澄と共に入唐し、景教を身につけ、潅頂(頭に潅ぐの意で、キリスト教の洗礼)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けた。此の名は「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」という、マタイ5:16の漢語聖書からとったもの。空海は新約聖書を持ちかえり、最澄は旧約聖書を持ち帰った。

空海は帰国後、高野山に真言密教を創建するが最澄とは仲たがいする。最澄は天台宗を創建し、空海は真言宗を作るが、空海の仏教は釈迦が説いた原始仏教とは似ても似つかぬ教えで、「景教と混合した仏教」でした。

【空海と景教徒の景浄の出会い】
長安で、彼は景教徒の景浄に会います。彼は「大秦景教流行中国碑」の碑文を書いた僧です。 彼は、61才死に就こうとするとき、「悲しんではいけない。わたしは・・・・弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、 56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう。」と言いました。

弥勒とは、へブル語のメシア、ギリシャ語のキリストであり、原始仏教にはなかった「キリストが再臨するときに復活する」というキリスト教信仰、景教の信仰と同じものです。

真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついているとか、景教の影響がみられます。

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「 流木のWebサイト」 佐伯好朗博士と「日ユ同祖」論 からの引用

 京都太秦(うずまさ)太秦にある木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社(通称「蚕の社」)には、京都三鳥居の1つとされ、日本で唯一といわれていた「三柱鳥居」がある。秦氏の一族は、応神天皇の時代(4~5世紀頃)に朝鮮半島より渡来してきた豪族だといわれている。

その数、数千人とも、数万人ともいわれているが、彼らは、養蚕や絹織物、土木に関して高度な知識・技術を持っていたことが伝えられている。秦氏の本宗家は、大和ではなく山背=山城(やましろ)国の葛野(かどの)郡、紀伊郡を基盤としていたが、雄略天皇の時代(5世紀半ば)には京都の太秦に定住するようになったという。彼らは、その高度な治水技術を用いて、もともとは居住に適さない湿地帯であった京都を大規模に開発・整備し、794年(延暦13年)には平安遷都を実現させた。また、その技術を買われて、後に仁徳天皇陵のような巨大墳墓の構築に携わるようになる。秦氏は土豪であり、在地では隠然たる勢力を持っていたが、朝廷ではクラ(倉、蔵)を管理する下級役人であった。余談だが、今日、服部、畠山、田村、林、高橋、羽田などの姓を持つ人びとは、秦氏の末裔であるといわれている。

 佐伯好郎氏(東京帝国大学の文学博士)は、1908年(明治41年)に発表した論文「太秦を論ず」において太秦に残る地名や遺跡などを根拠として「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を展開した。この学説は、一部の人びとから「日ユ同祖」論(日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だなどとする説)を学術的に根拠づけるものとして大いに歓迎された。

 ここで、日ユ同祖論について少しばかり検討しておこう。日ユ同祖論を最初に唱えたのは、明治初期に日本に住み、日本人の歴史や風俗、習慣などを観察したスコットランド人の貿易商N.マックレオド氏であり、1875年に刊行した『日本古代史の縮図』の中で「日本人のルーツは、北方ユーラシア系のアイヌ民族、南方系の小人族、ヘブライ民族(ユダヤ人)である」と主張した(同氏は、1878年には「韓民族はノアの三男ヤペテの子孫」とも主張している)。

また、ユダヤ教のラビ(教師)であり、『ユダヤと日本 謎の古代史』(産能大学出版部、1975)や『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史 失われた10部族の謎』(徳間書店、1999)の著者として知られるマーヴィン・トケイヤー氏(1936-)も、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を支持したが、彼の場合、秦氏を単にユダヤ人としたにとどまらず、モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭(御頭祭:おんとうさい)が諏訪大社に古来伝わっていること、イスラエルの契約の箱と神輿(みこし)の類似性、イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性、神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習との類似性、イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性、その他さまざまなイスラエルの風習と日本神道の風習とが類似している点を指摘して、日本人の先祖はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だと論じている。


波多野秀治と春日局

2010年01月15日 | 鳥無き島の蝙蝠

信長は光秀の母が人質に取られているのを見捨てた 光秀の母は信長が波多野秀治を磔にしたために仕返しに磔にされた これが本能寺の変の引き金となったのか・・・

正親町天皇の即位式に列席していたという波多野秀治は 長宗我部の祖先秦氏と関係あるのか? 波多は高知の波多国と一緒だが

波多野氏近くの黒井城(くろいじょう)城主が斎藤利三 そこで生まれた春日局は一時期長宗我部元親に匿われた・・・

だんだん真実と陰謀と策略の源泉が見えてきた みんなでこの周辺を調査し情報を寄せてくれ まってるぞ~

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