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リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

どんなに苦しくても世の中が真実で満ちていればそれでいい  
どんなに辛くとも信じるに足る社会であれば人々は生きて行ける

本能寺の変 足利義昭陰謀説① 波多野秀治 光秀の動機は母の弔い

2010年01月14日 | 鳥無き島の蝙蝠

明智光秀は 波多野秀治に人質に出していた母を信長に見捨てられ 本能寺の変を起した?

  本能寺の変 当日は 光秀の亡母の三回忌か? ・・・ 

ウィキペディアより引用―

波多野 秀治(はたの ひではる)は、丹波の戦国大名。波多野氏最後の当主である。
祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属していたため、秀治は最初は三好氏の家臣であった。そのためか、正親町天皇の即位式のときには列席していた。だが、長慶死後の永禄8年(1566年)、秀治は居城の八上城を奪還し、戦国大名として独立した。また、播磨の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

永禄10年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、信長の家臣となった。天正2年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波で織田氏に反抗する豪族の討伐を担当したが、天正3年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。

これに激怒した信長は、光秀に命じて再度の丹波侵攻を命じた。これに秀治は八上城で籠城して対抗、光秀の攻撃を1年半にもわたって耐え抜いた。しかしながら光秀の調略で味方であったはずの丹後・但馬における豪族が織田氏に寝返り、さらに長期の籠城戦で兵糧も尽きてしまい、天正7年(1579年)に光秀に降伏した。

光秀は、長期戦終結のために、生母(あるいは育ての母同然の叔母とも)を秀治に人質として差し出し、代わりに秀治・秀尚兄弟が降伏して開城すれば助命するという条件を出していたと言われる。

しかし信長は安土城に送られた秀治兄弟を許さず、6月2日に安土の浄巌院慈恩寺で磔に処したため、激怒した城兵が光秀の生母を磔に処した。そしてこれが本能寺の変への遠因になったとされる

(八上城で明智光秀の母を磔にする絵)

794pxyagamij1なお、この日は奇しくも本能寺の変からちょうど3年前の出来事である。

  とすれば、本能寺の変当日は、明智光秀にしてみれば、亡母の3回忌ということになる・・・ 

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備考

辞世の句
よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ

波多野は秦氏と関係があるのか?

波多野秀治は、朝廷を重んじる尊王心が強かったようで、正親町天皇に対して即位の礼の費用を献上し、さらに軍を率いて京都の警護を務めている。

圧倒的に兵力・物量・人材で劣る秀治が、信長に対して1年半以上も抵抗し続けることができた理由は、丹波の山間の地形を利用したゲリラ戦法に長けていたからである。だが、このために信長の怒りは尋常ではなく、磔に処される結果となった。

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第2水曜日は 長宗我部を語る会

2010年01月13日 | 鳥無き島の蝙蝠

毎月第2水曜日は長宗我部を語る会だ 講談師 小浜亭馬楽の『土佐物語』をみんなで楽しんでいる

 参加費は 300円(ワンドリンク付き)で 100円が講談師に 100円が長宗我部ファンクラブ 100円がカフェに収入として納められる 

09

今日は 佐喜浜『俄か』の高田さんが持ってくる牛乳で 温かいスープを作ってもてなそう

佐喜浜俄

子ども俄(佐喜浜小学校児童の参加)

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長浜の元親像に ぞっこん  で  つい・・・  もうしません

2010年01月10日 | 鳥無き島の蝙蝠

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高知市長浜の元親像いつ見てもデザインが素晴らしいので・・・ つい

Photo

元の写真は高知ファンクラブのHPより

  Photo_2 昨年5月24日の若宮八幡宮での「長宗我部元親初陣祭」のようす

ホントは最近面白くない事があったので憂さ晴らしでした 元親さんスイマセン もうしません

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「街づくりカフェ in ゆうあい工房」では、高知を盛り上げる活動の一環として、長宗我部元親の歴史小説をみんなで書くため、毎週金曜に歴史談義を開いています。 このページをご覧になった皆さんも、元親伝の執筆活動に参加できます。書き加えたいことや要望を、末尾のコメントで送ってください。歴史談義グループで検討し、採用したコメント内容を小説の一部に加えます。

ルイス・フロイスの「日本史8巻」に、「長宗我部信親は、キリスト教入信を考えていたが、洗礼を受ける数日前に戦死した」。という内容の記述を見つけ、やけに盛り上がっている。

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信長の死によって 利益を得た者

2009年12月25日 | 鳥無き島の蝙蝠

滝本寺非有 と その兄 谷 忠澄(たに ただすみ)

元親は、僧侶神官らの博識を軍事面で生かすように取り入れるべく、土佐国長岡郡岡豊城下の真言宗滝本寺住職・非有と兄・谷忠澄を「参謀」とした。

宣教師らによる西洋伝来の合理主義に傾倒する信長 VS 僧侶神官らによる日本・東洋古来の伝統主義を重んじる元親 という対立軸が見えてきた。

考えてみれば、信長の命を受けた四国方面軍は、総勢一万四千の軍が渡海に備えていたが本能寺の変により作戦は立ち消えになった。

同時に、秀吉が高松城を水攻めによって包囲していた最中に信長が横死したため、秀吉は毛利方と和睦を結び軍を京へ返した。

つまり、毛利家と長宗我部家は、敵対する信長の死によって共通の利益を得ている。本能寺の変は、一対坊主と並び称された、土佐の滝本寺非有と安芸の安国寺恵瓊の工作説が有力と言える。

・・・・・
滝本寺非有は、土佐国長岡郡岡豊城下の真言宗滝本寺の住職で、国書、経書、仏典に通じ、その学識と才覚から長岡郡池之村の代官として召し出され、元親の顧問となって国政にも携わり、公事評定から軍議にまで幅広く参与したという。

兄 谷忠澄や同じ滝本寺の栄音などとともに諸国へ奔走し、外交使を務めた。戦国当時、毛利氏側の安国寺恵瓊と併せて一対坊主と称された。

特に文筆巧みで、長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)に代表される長宗我部氏の法令や文書の多くを起草した。その内容からして、一領具足を軍事統率し、国力増強に努めたと解される。

非有は、元親から何度となく還俗を促されたが生涯僧として通した。関ヶ原の戦い後の領国没収の際には、一領具足たちに浦戸城下へ集住して徹底抗戦を呼びかけるなど、硬骨漢であったとされる。

こうした弟 非有に対し、兄 谷忠澄は、元親の要請により還俗して家臣となり、1585年の羽柴秀吉による四国征伐では阿波一宮城を守った。

この時、羽柴軍との兵力や武器の質の差を知って主君・元親に降伏するように提言し、元親や家臣団の猛反対に抗して、土佐一国に滅封されても長宗我部家滅亡だけは回避するべきと主張した。結局、元親はこの案を受け入れ土佐に退却したと言われている。

1586年には戸次川の戦いに従軍し、戦死した元親の嫡男・長宗我部信親の遺骨を島津氏に受け取りに赴いた。1600年土佐幡多郡中村城で病死したが、谷忠澄が生きていれば、
273名の長宗我部遺臣が桑名弥次兵衛と蜷川親長によって粛清された浦戸一揆も様変わりしていたかもしれない(時を同じくすることから、暗殺か?)。


戦国武将の参謀 僧侶・茶人・商人らの企て

2009年12月23日 | 鳥無き島の蝙蝠

ある程度意見が出て、戦国武将の英知への探求心が見えてきました。彼らは、武勇と共に、宗教・祭祀・文学・医療・経済・土木・産業振興・貿易・航海技術など、あらゆる知識を追い求めていました。天下を治める者として、武芸以外の分野にも精通していなければ周囲から認められなかったのです。

キリスト教布教目的で日本を訪れた宣教師らを信長と元親が援助した背景には、「信仰」よりも、宣教師らがもたらす「西洋の知識・技術の吸収」があったのでしょう。まだ若く、純粋であった信親は、キリスト教に感化されて入信を考えていたようですが、元親は西海・南海の王となり、ライバル信長を打ち負かす力を養う術として、キリスト教の布教活動を利用し、西洋文化吸収に努めたものと思われます。

我々は、この信長と元親が追い求めた「西洋の知識・技術」が、それ以前には「神仏習合」でもたらされたことに着目すべきでしょう。当時の知識人は神仏習合下の僧や茶人で、神社仏閣は、我々現代人の想像を遥かに凌駕する英知を集めた施設であり、今の省庁に近い存在でした。

戦国時代、寺社は領地支配を天皇に許され自治権を主張して僧兵などを集めた「自治区」「城」でもあったのです。信長の比叡山焼き討ちは、独立・武装していた比叡山宗教者らからの自治権・統治権の剥奪並びに武装解除だったのです。また、この事件は「天皇の承認に基づく自治権」を否定する。という信長の決意を示したターニングポイントとなっています。

信長の横死については、こうした信長の宗教界への弾圧が主因だと巷で言われていますが、明智光秀・斉藤利三・長宗我部元親ラインの謀略(思惑)が複雑に絡まっています。

また、信長の死に因って、元親同様に戦火を免れた「毛利元就」の動向が気になります。彼らに仕えた滝本寺非有と安国寺恵瓊の「一対坊主」の策略があったと言うべきでしょう。

我々は、このもつれた思惑の糸を解きほぐすためにも、「信長と元親の認識の範囲」を見極めなければなりません。元親の参謀である「非有」、信長に仕えた「滝川一益」、元就には「恵瓊」。彼らの知識の根源がどこにあったのか?如何なる情報を得、与えたのか?探る必要があります。

元親が神社仏閣を訪ね歩いて参謀を探し出し、秀吉が千利休を重用し、家康が大樹寺の登誉上人に諭され自害を思いとどまったことなど、僧侶・茶人の戦乱への関与について具体的事例を掘り下げる必要もあるでしょう。

因みに、当時、茶の湯は、医療の一環であり、精神修養であり、現代で言うヒーリング・癒しの求道です。その作法を追求することは武士のたしなみと考えられていました。

「宝剣を天に投げ打つ」との辞世を遺した「千利休」ですが、これは韓国の詩を引用したもので、利休の草庵は朝鮮半島の民家を模しているとの指摘がみられる。その英知の源泉に朝鮮文化があることは、利休忌を営む薮内家の掛け軸に「立膝で座る利休」が描かれていることからも窺い知ることができる。

華々しく散ってゆく武将らの陰に隠れて、策略をめぐらしていたのは、宗教家・茶道家・商人らであることに疑いの余地はありませんが、彼らが日本と朝鮮・中国、西洋列強との取引に深く関与していたことも、また、見逃してはならないでしょう。