明智光秀は 波多野秀治に人質に出していた母を信長に見捨てられ 本能寺の変を起した?
本能寺の変 当日は 光秀の亡母の三回忌か? ・・・
ウィキペディアより引用―
波多野 秀治(はたの ひではる)は、丹波の戦国大名。波多野氏最後の当主である。
祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属していたため、秀治は最初は三好氏の家臣であった。そのためか、正親町天皇の即位式のときには列席していた。だが、長慶死後の永禄8年(1566年)、秀治は居城の八上城を奪還し、戦国大名として独立した。また、播磨の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。
永禄10年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、信長の家臣となった。天正2年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波で織田氏に反抗する豪族の討伐を担当したが、天正3年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。
これに激怒した信長は、光秀に命じて再度の丹波侵攻を命じた。これに秀治は八上城で籠城して対抗、光秀の攻撃を1年半にもわたって耐え抜いた。しかしながら光秀の調略で味方であったはずの丹後・但馬における豪族が織田氏に寝返り、さらに長期の籠城戦で兵糧も尽きてしまい、天正7年(1579年)に光秀に降伏した。
光秀は、長期戦終結のために、生母(あるいは育ての母同然の叔母とも)を秀治に人質として差し出し、代わりに秀治・秀尚兄弟が降伏して開城すれば助命するという条件を出していたと言われる。
しかし信長は安土城に送られた秀治兄弟を許さず、6月2日に安土の浄巌院慈恩寺で磔に処したため、激怒した城兵が光秀の生母を磔に処した。そしてこれが本能寺の変への遠因になったとされる。
(八上城で明智光秀の母を磔にする絵)
なお、この日は奇しくも本能寺の変からちょうど3年前の出来事である。
とすれば、本能寺の変当日は、明智光秀にしてみれば、亡母の3回忌ということになる・・・
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備考
辞世の句
よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ
波多野は秦氏と関係があるのか?
波多野秀治は、朝廷を重んじる尊王心が強かったようで、正親町天皇に対して即位の礼の費用を献上し、さらに軍を率いて京都の警護を務めている。
圧倒的に兵力・物量・人材で劣る秀治が、信長に対して1年半以上も抵抗し続けることができた理由は、丹波の山間の地形を利用したゲリラ戦法に長けていたからである。だが、このために信長の怒りは尋常ではなく、磔に処される結果となった。
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