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KOBE STING CLUB

VISSELKOBEと山歩き、日常をゆる~く&チクッと書いていきます

21年目の1.17

2016-01-17 23:09:41 | 神戸から東北へ
毎年1.17ひょうごメモリアルウォークを歩いていますが、昨年は追悼式のプロデュースをしていたため不参加。今年は2年ぶりです。今までは、須磨からの15km、西代からの10km、西宮からの15kmと歩いてきたので、今年は芦屋からの10kmです。

川西運動場に集合。歩き始めます。山手幹線を西へ。

住吉川の所に休憩所が。トイレを済まし、コーヒーをいただきました。
普段は43や2号線を使うことが多く、あまり通ることのない道なので、結構新鮮です。

現在ブレイク中のこの神社や、

ヴィッセルのサポートファミリーでよく聞く、この幼稚園(デコレーションバスが衝撃的!)など、こんなところにあったのかと再確認しました。

10kmといっても2時間あまりでHAT神戸のゴールに到着。いろいろな展示を見てきました(おみやげもいただきました)。海上保安庁のパンフレットには瓦礫の浮いている海の中を捜索する写真があり、海猿のようなかっこいいことだけじゃなく、地道な活動が中心である大変な作業だと改めて知りました。

地震の体験車。地震未体験のこどもが乗っていましたが、実はもっとひどい揺れと家具がばたばた倒れる音が1分以上続いた恐怖を体験したものにとっては、見るだけで足がすくんでしまいました。
もうちょっと見たい気もしましたが、ノエスタへ急ぐためダッシュで帰ってきました。

【役に立たない豆技術】
10kmの道をゆっくり歩く分には問題ないのですが、自分ペースで歩きたかったり、ちょっと急いでいる時には多くの人の間をすり抜けるのは大変です。特に後方集団からスタートしたら、他人のペースに合わせて歩くのは結構疲れます。ただ今回のように、交通ルールに忠実に歩いている場合は、赤信号で大集団がだんだんぶち切れるので、赤信号の間にできるだけ前にポジションをとり、緑になった瞬間にダッシュして歩くと、前方の集団までにギャップができており、簡単に追いつくことができます。F1のセーフティカーみたいなもんで、これを繰り返すうちにいつの間にか先頭集団に届き、「10km先頭」ののぼりも追い越してしまっていました。よい子はあまりまねしない方がいいかもしれませんが(´д`)。



何が本当かいよいよわからなくなりました

2011-08-11 22:13:21 | 神戸から東北へ
仕事柄、関西電力の電気予報は気になってよくチェックしています。
先日から90%超えが続き、昨日は94%に。いよいよ関西電力からヘルプメールがくるのか、と思いましたが、なんとかそこまでは行きませんでした。(97%を超えるとくることになっています)
今日も夜間はくそ暑く寝苦しい夜で、朝から気温が高かったのでどうなることかと思ったら、90%いくかいかないかで終わりました。そろそろ企業のお盆休みが始まったからでしょうか。
そういえば家庭での電気使用量は夜間の方が多い(常識的に考えればその通り)という新聞記事がありましたが、とするとお昼の使用は家庭よりも産業での使用ということになります。もちろん、どちらも大切ですが、今の節電依頼の姿勢はどうみても「産業>家庭」のように思えます。またそれに悪のりして、1/3クーラーを止めたらOKとか、いや1/6でOKとか隣の知事がいろいろ言っているみたいですが、少なくとも「産業=家庭」という同等の意識からのスタートでなければ、住民の健康を守るという職責は果たせず、(選挙で選ばれたボクが言っているんだからみんなは当然従いなさい、とでも思っているんでしょうね)まじめに取り組む高齢者や弱者は体が持たなくなります。
多くの企業の活動がストップするお盆の時期の電気予報が見物ですが、おそらく電気使用量の最高が予想されるお盆明け&高校野球の準々決勝、準決勝のころのXデーは本当に心配なので、可能な節電はする必要がありますが、電力会社はこの期に及んでもまだ本当に何が真実かを語っていないような気がしてきました。

1ヶ月がたちました

2011-04-14 22:07:18 | 神戸から東北へ
この一月、被害の大きさと圧倒的な原発のニュースを受け入れるだけで精一杯でした。
3~4月にかけて、また、身の回りでも多少の出来事があり、なかなか更新ができませんでした。

心がかさかさになっていた先日、朝日新聞の「ひととき」欄に出会い少し答えが見つかったような気がしました。

投稿者は、次男が広島へ就職し、引っ越しの手伝いに行かれたときの様子を書かれていました。
長文ですが引用させていただきます。

「ひたすら歩いた先は、時間が止まったような静謐な平和公園。慰霊碑の家型のはにわのアーチから原爆ドームが見える。骨組みだけ残ったドームの屋根は、福島第一原発の鉄骨がむきだしになった建屋に重なって見える。涙が止まらない。
 自転車に乗った若者が降り立ち手を合わせてまた急ぎ走り去っていった。サラリーマンらしき人も立ち止まり一礼をしていく。慰霊碑の前には手向けられたばかりのたくさんの生花の束が折り重なっている。
 そのとき、8時15分を知らせる鐘が鳴った。ああ、この町の人はずっと祈りの心を忘れていないんだ、草一本生えないだろうといわれたこの町をこんなに緑豊かな活気のある町に再生していたのだ。
 そう大丈夫。東北も茨城も千葉も、きっと大丈夫。帰ったら私のできるボランティアからはじめよう」

涙が止まりませんでした。
しかし、僕たちもかつて被災者と呼ばれましたが、なんとか立ち上がってきました。少しの運やタイミングの違いにより家は全壊でしたが生き残り、ゆっくりここまできました。祈りの心を忘れず、小さいことでもできることをやっていき、経験を語っていく、それしかできませんが、それもある意味僕たちの義務ではないかと思うのです。