昨日からの続きです。
【三島由紀夫:潮騒②】
しかし若者のふとした目ばたきは、炎の光が膨張したまつげの影を、一瞬頬の上に動かした。少女はまだ乾ききらない白い肌着ですばやく胸を隠して、こう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
忠実な若者は強(きつ)く目を閉じた。考えてみると、まだ寝たふりほしていたのはたしかに悪かったが、目がさめたのは誰のせいでもなかったから、この公明正大な理由に勇気を得て、彼は再びその黒い美しい目をぱっちりとひらいた。
少女はなす術を失って、まだ肌着を着ようともしていなかった。もう一度、鋭い清らかな声でこう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
しかし若者はもう目をつぶろうとはしなかった。生まれた時から漁村の女の裸は見馴れていたが、愛するものの裸を見るのははじめてだった。そして裸であるというだけの理由で、初江と自分との間に妨げが生じ、平常の挨拶や親しみのある接近がむつかしくなることは解せなかった。彼は少年らしい素直さで立上がった。
若者と少女とは炎をへだてて向い合った。若者が右へやや体を動かすと、少女も右へすこし逃げた。そこで焚火がいつまでも二人の間にあった。
「なんだって逃げるんじゃ」
「だって、恥かしいもの」
若者は、それなら着物をきたらいい、とは言わなかった。少しでもそういう彼女の姿を見ていたかったからである。そこで話の継穂にこまって、子供のような質問をした。
「どうしたら、恥かしくなくなるのやろ」
すると少女の返事は、実に無邪気な返事だったが、おどろくべきものであった。
「汝(んの)もはだかになれ、そしたら恥かしくなくなるだろ」
新治は大そう困ったが、一瞬のためらいのあとで、ものも云わないで丸首のセエタアを脱ぎだした。この脱衣のあいだに、少女が逃げはしないかという懸念がはたらき、脱ぎかけるセエタアが顔の前をとおる一瞬にさえ、若者は油断しなかった。手早く脱ぎ捨てたあとには、着物を着ているよりはずっと美しい若者の褌(ふんどし)一本の裸体がそこに立っていた。しかし新治の心は初江に激しく向っていて、羞恥がやっとその身に帰ってきたのは、次のような問答のあとであった。
「もう恥かしくないやろ」
と彼が詰問するようにはげしく問いつめたので、少女はその言葉の怖ろしさも意識せすせに、思いもかけない逃げ口上を見出したのである
「ううん」
「なぜや」
「まんだ汝(んの)は裸になっとらんもの」
炎に照らされた若者の体は羞恥のために真っ赤になった。言葉は出そうになって咽喉(のど)に詰った。爪先がほとんど火の中へめり込むほど迫り寄って、新治は炎が影を揺らしている少女の白い肌着をみつめながら、辛うじてこう言った。
「汝(んの)がそれをとったら、俺もとる」
そのとき初江は思わず微笑したが、この微笑が何を意味するのか、新治も、また初江自身も気づかなかった。少女は胸から下半身を覆うていた白い肌着を背後にかなぐり捨てた。若者はそれを見ると、雄々しく彫像のように立ったまま、少女の炎にきらめいている目をみつめながら、下帯の紐を解いた。
【三島由紀夫:潮騒②】
しかし若者のふとした目ばたきは、炎の光が膨張したまつげの影を、一瞬頬の上に動かした。少女はまだ乾ききらない白い肌着ですばやく胸を隠して、こう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
忠実な若者は強(きつ)く目を閉じた。考えてみると、まだ寝たふりほしていたのはたしかに悪かったが、目がさめたのは誰のせいでもなかったから、この公明正大な理由に勇気を得て、彼は再びその黒い美しい目をぱっちりとひらいた。
少女はなす術を失って、まだ肌着を着ようともしていなかった。もう一度、鋭い清らかな声でこう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
しかし若者はもう目をつぶろうとはしなかった。生まれた時から漁村の女の裸は見馴れていたが、愛するものの裸を見るのははじめてだった。そして裸であるというだけの理由で、初江と自分との間に妨げが生じ、平常の挨拶や親しみのある接近がむつかしくなることは解せなかった。彼は少年らしい素直さで立上がった。
若者と少女とは炎をへだてて向い合った。若者が右へやや体を動かすと、少女も右へすこし逃げた。そこで焚火がいつまでも二人の間にあった。
「なんだって逃げるんじゃ」
「だって、恥かしいもの」
若者は、それなら着物をきたらいい、とは言わなかった。少しでもそういう彼女の姿を見ていたかったからである。そこで話の継穂にこまって、子供のような質問をした。
「どうしたら、恥かしくなくなるのやろ」
すると少女の返事は、実に無邪気な返事だったが、おどろくべきものであった。
「汝(んの)もはだかになれ、そしたら恥かしくなくなるだろ」
新治は大そう困ったが、一瞬のためらいのあとで、ものも云わないで丸首のセエタアを脱ぎだした。この脱衣のあいだに、少女が逃げはしないかという懸念がはたらき、脱ぎかけるセエタアが顔の前をとおる一瞬にさえ、若者は油断しなかった。手早く脱ぎ捨てたあとには、着物を着ているよりはずっと美しい若者の褌(ふんどし)一本の裸体がそこに立っていた。しかし新治の心は初江に激しく向っていて、羞恥がやっとその身に帰ってきたのは、次のような問答のあとであった。
「もう恥かしくないやろ」
と彼が詰問するようにはげしく問いつめたので、少女はその言葉の怖ろしさも意識せすせに、思いもかけない逃げ口上を見出したのである
「ううん」
「なぜや」
「まんだ汝(んの)は裸になっとらんもの」
炎に照らされた若者の体は羞恥のために真っ赤になった。言葉は出そうになって咽喉(のど)に詰った。爪先がほとんど火の中へめり込むほど迫り寄って、新治は炎が影を揺らしている少女の白い肌着をみつめながら、辛うじてこう言った。
「汝(んの)がそれをとったら、俺もとる」
そのとき初江は思わず微笑したが、この微笑が何を意味するのか、新治も、また初江自身も気づかなかった。少女は胸から下半身を覆うていた白い肌着を背後にかなぐり捨てた。若者はそれを見ると、雄々しく彫像のように立ったまま、少女の炎にきらめいている目をみつめながら、下帯の紐を解いた。