どうやって皆さんは二胡に出会ったのでしょう?
CD で聞いて。
たまたま通りかかった、ショッピングモールなどでライブを聴いた。
案外多いのは、中国で二胡の演奏を聴いたという方でしょうね。
光舜堂はどこの教室にも所属していませんから、中国で楽器を購入された方が修理などでいらっしゃる確率が多いのかもしれません。
私の場合は、たまたま家に、家族の持っていた戦前の楽器が有ったからです。
習い始めれば当然、色々二胡の事を知りたくなり、ネットなどを調べます。
また、ミクシー等にも誘われ登録しました。
ハンドルネームは、二胡作りです。
当然、二胡のコミュニティーにも参加し、ホントに様々情報をえることができました。
ブログなども、思ったよりも多くの人が書いていて、今から10年ぐらい前に二胡ブログ書き始めた人もいました。
多分みなさんも一度はのぞいたことのあるブログだとは思います。
演奏の事、練習の事、自分の二胡のことなど様々に面白おかしく書いています。
中にはかなりマニアックに二胡の構造など、或いは駒の事やら、色々な楽器メーカーのことなど、実体験で書いておられる方もいらして、随分参考にさせていただきました。
マニアックと言えば一番マニアックなのはこの光舜堂のブログかもしれませんね(笑)
画像も無く、イラストも無い、ひたすら文章だけのこんなブログ読んでもらえるのかと、書き始めた当初は、心配したものです。
皆さんのブログを読んでいて、凄く気になったことがあるのです。
読んでいる最中は面白いのですが、意外と頭に残らない、こちらの記憶力が減退しているということも有りますが、本などを読んだ、読後感というのとは少し違うのではないかと思います。
これはもしかしたら自分の書いている物もそうなのかもしれない、と、反省しきりでしたが、
所詮、ネット上の物というのは希薄なのではないかと有る時思いました。
書いている人の顔が見えないからかも知れません。
ミクシーや、フェースブック等でも同じですが、実際に合ったことのある人の文章というのは記憶に残っても、単に、ネット上での、友達、というのは、かなり希薄な感じがします。
有るとき突然、ミクシーのマイミクというのから、有る人が外れていたとしても、大して驚きはしません。
これが、実際に会った人が、突然いなくなったらそれはもう、相当なショックだと思うのです。
しかし、ネット上では、こういう突然消えてしまう相手等はかなり多いようなのです。
ブログにしろ、実際に、めんとむかって、そんなことはとても言えないだろうということを平然と書いてしまう方もいらっしゃいます。
何処か、錯覚しているのかもしれません。
私の場合は、まともに受けようと思っています。
例え、架空のネット上のコメントであれ、ブログ上での批判であれ、まともに受けます。
その相手や、「友達」、「知人」、「マイミク」という架空の存在かもしれませんが、自分自身に取ってということで考えます。
ある意味、私にとっては、ドラゴンライダーのエラゴン、や、ハリーボッシュ、或いはリチャードボライソー、三国志の張亮などと同じく、私の頭の中にある限り実在なのですから。
ネット上で或いはゲーム上でリセットし慣れていくと、例えネット上でも実在には違わない有る人をリセットするというのは、なかなかに私には難しいですね。
それは自分の実際の人生がリセットできないのと同じです。
二胡(楽器)も同じではないでしょうか。
二胡を弾き始めて、培ってきた右腕の左手の記憶が、自分の身にしっかりと残って行くのです。
楽器は、他人よりも濃厚なかかわりを人にもたらします。
日々の感情が、想いを込めて十分に表現できるからです。
上手い下手はそれほどの問題はありません。弾いて行く限り上手くなっていき、その日その日の、二胡との関わりというのが、とても感情に左右されもしますし弾くことによって感情を吐き出し、自分の気分のコントロールにもなるからです。
自分の泥臭い部分嫌な部分もたっぷりと出すことが出来ます。
子供達に、泥絵具で好きに書かせていくと、最初はなんだかホントにドロドロとした色の塊でしか無かった物が、日々書いて行くうちになんだかまとまった表現になって行きます。
それと同じように二胡の演奏も、有るまとまった表現というところまで昇華していきます。
そこまで、自分の感情と密接につながるのが、二胡のようにも思えます。
バイオリンなどと違い、弾くことが技術の習得であるというのでは無く、自分の感情の手助けをしていくのが二胡という感じもします。
妙な人との関わり方を二胡の世界に持ち込んで欲しくはないですし、ひたすら二胡との関わりが大切であり、その二胡にかぶせて、持たせかかって自分の他の感情を、自己主張するのでなく、二胡との関わりをよりよく強くして言って欲しい物です。
いまだ、一つの体系としての楽器の練習という感じは二胡の世界には無く、それだからこそ民衆の中に広がった楽器だったのかもしれません。
技術というより感情なのではないでしょうか。
だからこそ、楽器に、二胡に思いを乗せた、特別な物としての神秘さを持っていようと思いたいのではないでしょうか。
私のように、幾ら、現実に突き詰めていって、楽器としての完成度を上げようとしたとしても、所詮最後には、材料のわからなさ蛇皮のわからなさ、それらを受け入れるしかない楽器作りにとっぷりとハマります。
作らないまでも、二胡という人の感情を直に呼び覚ますような楽器に一つの神秘を感じる人が二胡を選ぶのかもしれません。
CD で聞いて。
たまたま通りかかった、ショッピングモールなどでライブを聴いた。
案外多いのは、中国で二胡の演奏を聴いたという方でしょうね。
光舜堂はどこの教室にも所属していませんから、中国で楽器を購入された方が修理などでいらっしゃる確率が多いのかもしれません。
私の場合は、たまたま家に、家族の持っていた戦前の楽器が有ったからです。
習い始めれば当然、色々二胡の事を知りたくなり、ネットなどを調べます。
また、ミクシー等にも誘われ登録しました。
ハンドルネームは、二胡作りです。
当然、二胡のコミュニティーにも参加し、ホントに様々情報をえることができました。
ブログなども、思ったよりも多くの人が書いていて、今から10年ぐらい前に二胡ブログ書き始めた人もいました。
多分みなさんも一度はのぞいたことのあるブログだとは思います。
演奏の事、練習の事、自分の二胡のことなど様々に面白おかしく書いています。
中にはかなりマニアックに二胡の構造など、或いは駒の事やら、色々な楽器メーカーのことなど、実体験で書いておられる方もいらして、随分参考にさせていただきました。
マニアックと言えば一番マニアックなのはこの光舜堂のブログかもしれませんね(笑)
画像も無く、イラストも無い、ひたすら文章だけのこんなブログ読んでもらえるのかと、書き始めた当初は、心配したものです。
皆さんのブログを読んでいて、凄く気になったことがあるのです。
読んでいる最中は面白いのですが、意外と頭に残らない、こちらの記憶力が減退しているということも有りますが、本などを読んだ、読後感というのとは少し違うのではないかと思います。
これはもしかしたら自分の書いている物もそうなのかもしれない、と、反省しきりでしたが、
所詮、ネット上の物というのは希薄なのではないかと有る時思いました。
書いている人の顔が見えないからかも知れません。
ミクシーや、フェースブック等でも同じですが、実際に合ったことのある人の文章というのは記憶に残っても、単に、ネット上での、友達、というのは、かなり希薄な感じがします。
有るとき突然、ミクシーのマイミクというのから、有る人が外れていたとしても、大して驚きはしません。
これが、実際に会った人が、突然いなくなったらそれはもう、相当なショックだと思うのです。
しかし、ネット上では、こういう突然消えてしまう相手等はかなり多いようなのです。
ブログにしろ、実際に、めんとむかって、そんなことはとても言えないだろうということを平然と書いてしまう方もいらっしゃいます。
何処か、錯覚しているのかもしれません。
私の場合は、まともに受けようと思っています。
例え、架空のネット上のコメントであれ、ブログ上での批判であれ、まともに受けます。
その相手や、「友達」、「知人」、「マイミク」という架空の存在かもしれませんが、自分自身に取ってということで考えます。
ある意味、私にとっては、ドラゴンライダーのエラゴン、や、ハリーボッシュ、或いはリチャードボライソー、三国志の張亮などと同じく、私の頭の中にある限り実在なのですから。
ネット上で或いはゲーム上でリセットし慣れていくと、例えネット上でも実在には違わない有る人をリセットするというのは、なかなかに私には難しいですね。
それは自分の実際の人生がリセットできないのと同じです。
二胡(楽器)も同じではないでしょうか。
二胡を弾き始めて、培ってきた右腕の左手の記憶が、自分の身にしっかりと残って行くのです。
楽器は、他人よりも濃厚なかかわりを人にもたらします。
日々の感情が、想いを込めて十分に表現できるからです。
上手い下手はそれほどの問題はありません。弾いて行く限り上手くなっていき、その日その日の、二胡との関わりというのが、とても感情に左右されもしますし弾くことによって感情を吐き出し、自分の気分のコントロールにもなるからです。
自分の泥臭い部分嫌な部分もたっぷりと出すことが出来ます。
子供達に、泥絵具で好きに書かせていくと、最初はなんだかホントにドロドロとした色の塊でしか無かった物が、日々書いて行くうちになんだかまとまった表現になって行きます。
それと同じように二胡の演奏も、有るまとまった表現というところまで昇華していきます。
そこまで、自分の感情と密接につながるのが、二胡のようにも思えます。
バイオリンなどと違い、弾くことが技術の習得であるというのでは無く、自分の感情の手助けをしていくのが二胡という感じもします。
妙な人との関わり方を二胡の世界に持ち込んで欲しくはないですし、ひたすら二胡との関わりが大切であり、その二胡にかぶせて、持たせかかって自分の他の感情を、自己主張するのでなく、二胡との関わりをよりよく強くして言って欲しい物です。
いまだ、一つの体系としての楽器の練習という感じは二胡の世界には無く、それだからこそ民衆の中に広がった楽器だったのかもしれません。
技術というより感情なのではないでしょうか。
だからこそ、楽器に、二胡に思いを乗せた、特別な物としての神秘さを持っていようと思いたいのではないでしょうか。
私のように、幾ら、現実に突き詰めていって、楽器としての完成度を上げようとしたとしても、所詮最後には、材料のわからなさ蛇皮のわからなさ、それらを受け入れるしかない楽器作りにとっぷりとハマります。
作らないまでも、二胡という人の感情を直に呼び覚ますような楽器に一つの神秘を感じる人が二胡を選ぶのかもしれません。
気分が落ちているときに二胡を弾くと、弾き終わった後気分がスゥ―っと軽くなっているときもあったり。
二胡は私に合っている楽器なんだと思います。
こういう感覚があるから、二胡が好きだし辞められないんだと思います。
あるアイドルのCDで二胡の音を聞いて、音色が好きになり。その時は二胡という楽器の名前も知らなかったのに、こんなに好きになるとは。
二胡は私の相棒です!
今の二胡だとその揺れる音が上手く表現できにくいところが有ります。
もっと体に、心に密着した二胡作ります。一度弾きに来て下さい。