七転び八起きということわざがある。
でも、よく考えてみると、
七回しか転んでないのに、どうやって八回起きるのか?
ちょっとわかりにくい、変なことわざですが、
仏教由来説が有力だそうで、
ひとは、
生まれたその日から自分の足で歩くことはできない。
初めて立ち上がって、
歩こうとした時は、必ず転んでいる。
この時の1回分をカウントしているから、
八起きなのだ。 そうです。
その後は、
何度転んでもめげずに、
また立ち上がるれ! という、
とても勇気づけられる言葉です。
ところが、
松下幸之助さんに言わせると、
「七度転んでも八度目に起きれば良い、
などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。」
「一度転んで気が付かなければ、七度転んでも同じこと。一度で気のつく人間になりたい。」
と、厳しいお言葉。
厳しいけれど、そこには、
「そのためには、「転んでもただでは起きぬ」心がまえが大切。」
だと。
転んでもただでは起きぬは、
意地きたないことの代名詞のように使われているが、
先哲諸聖の中で、
転んでそこに悟りを開いたひとは数多くある。
転んでもただ起きなかったのである。
意地きたないのではない。
真剣だったのである。
失敗することを恐れるよりも、
真剣でないことを恐れたほうがよい。
真剣ならば、たとえ失敗しても、
ただでは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。
と。 松下幸之助「道をひらく」より
何よりも、
真剣に生きろ!
ということなんですね。
心に染み入ります。
でも、よく考えてみると、
七回しか転んでないのに、どうやって八回起きるのか?
ちょっとわかりにくい、変なことわざですが、
仏教由来説が有力だそうで、
ひとは、
生まれたその日から自分の足で歩くことはできない。
初めて立ち上がって、
歩こうとした時は、必ず転んでいる。
この時の1回分をカウントしているから、
八起きなのだ。 そうです。
その後は、
何度転んでもめげずに、
また立ち上がるれ! という、
とても勇気づけられる言葉です。
ところが、
松下幸之助さんに言わせると、
「七度転んでも八度目に起きれば良い、
などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。」
「一度転んで気が付かなければ、七度転んでも同じこと。一度で気のつく人間になりたい。」
と、厳しいお言葉。
厳しいけれど、そこには、
「そのためには、「転んでもただでは起きぬ」心がまえが大切。」
だと。
転んでもただでは起きぬは、
意地きたないことの代名詞のように使われているが、
先哲諸聖の中で、
転んでそこに悟りを開いたひとは数多くある。
転んでもただ起きなかったのである。
意地きたないのではない。
真剣だったのである。
失敗することを恐れるよりも、
真剣でないことを恐れたほうがよい。
真剣ならば、たとえ失敗しても、
ただでは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。
と。 松下幸之助「道をひらく」より
何よりも、
真剣に生きろ!
ということなんですね。
心に染み入ります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます