5月2日から5日まで、宮城県気仙沼市に行ってきました。
今回はまず、気仙沼市本吉町大谷の学校田んぼをお訪ねしました。
また、漁業関係では、水産畑出身の気仙沼市長にインタビュー。
気仙沼漁協組合長ほか、漁業につながる方々にもお会いして、
「水産の町」気仙沼の今と今後について、お話をお聞きしました。
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田んぼを訪ねたのは、旧本吉町の大谷(おおや)。チョウセンハマグリが自生する豊かで美しい砂浜が自慢の地区です。
7年前から幼稚園・小学校・中学校が連携して、生き物いっぱいの「ふゆみずたんぼ」を作っています。
冬の間も田んぼに水をはっておくことで生き物が命をつなぐことができる、元気で楽しいすてきな田んぼです。
残念ながら、今度の震災でこの田んぼも津波をかぶってしまいました。
しかし、子どもたちの「今年も田んぼをやりたい」という声に応えて、のべ300人のボランティアが集まり、
この連休に田んぼが復活。6月上旬には田植えを行う予定です。
漂着物と泥の層を取り除き、その下の土を掘ると……
カエル、タニシ、オケラ、ドジョウ、ミミズ、アブの幼虫などが元気に飛び出してきて、うれしくなりました。
田んぼの一角には何と湧き水があって、水辺には産卵するイトトンボ、アメンボ、シマヘビの姿も。
周囲の田んぼは、ほぼまだ手つかず。この学校田んぼだけがきれいになりました。
田植えをして緑の苗が風にそよいだら、それはもう地域の元気の素になるだろうなと思いました。
近くの45号線沿いで、津波の後を片づけて耕し、レタスなどの苗がきれいに植えられた畑を見かけました。
どちらも、土の神様がよみがえったような、力みなぎる光景です。
▲きれいに片付いた「ふゆみずたんぼ」 ▲ 45号線沿いのよみがえった畑
大谷の小中学校では、Uターンした半農半漁の方が外部講師としてかかわっていて、
ふゆみずたんぼ復活のプロジェクトも中心となって動かしています。
じつは大谷の子どもたちは、ワカメの本格的な養殖体験、海岸の松枯れ対策にも取り組んでいて、
養殖ワカメの芯は肥料として田んぼに入れていたそうです。
外部講師のこの方に「海の体験復活、見通しはどうでしょうね」と聞いてみると、
「まだ海辺で多くの方が行方不明なのに、海に子どもを連れて行けるわけないでしょう」。
不見識でした。……やはり海は厳しいです。
▲海辺の大谷海岸駅、線路はまだ手つかず ▲駅の道路側では直売所と食堂が再開!
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「漁師も一般市民も、海への思いは震災前も後も、何ら変わりはないと思いますよ」。
ためらいなくそう話すのは、菅原茂・気仙沼市長。
人口の8割が水産業につながる「水産の町」には、
「海と離れて生きる」という選択肢は、そもそもありえないのかもしれません。
復興の最初の一歩として今「6月にカツオの水揚げ」が、町全体の合言葉になっています。
気仙沼には、遠洋マグロ漁、近海マグロ漁を筆頭に地元の漁船漁業は盛んなものの、
魚市場への水揚げの7割は県外からの漁船。
そのため、魚市場はもちろん水産加工業、製氷業、冷蔵・冷凍業、
はたまた入港した船のドック、鉄工所、電気設備、漁具・船具、
次の航海に向けた食糧や雑貨の積み込み、各地のお国訛りが飛び交う飲み屋などなど、
じつに種々多様な後背産業が連なって、気仙沼という町のにぎわいが形作られているのです。
これらすべての産業が、それぞれわずかずつであれ手をつないで一緒に立ち上がらないと、町の復興はありえない。
「せーの」という、その最初のかけ声が「6月のカツオ」。
いったいそれは6月の何日ごろなのか――。
漁協組合長は「よく聞かれるけれど、それはカツオの回遊次第ですよ。
できれば今年は遅れてくれと祈っているけどね」と、大笑い。
何たる愚問!! 魚が獲れなきゃ水揚げはなし。逆に準備がまだでも、魚が来れば待ったなし。
もしかしたら、そういう自然まかせのところが、
「津波も海の自然のひとつ」と受け止める素地になっているのでしょうか。
―― いえいえ、わたしにはまだわかりません。
==========
「絆」というような意味のお話を、今回いくつか聞きました。
ひとつは、多様な産業が「手をつないで一緒に立ち上がる」ことに関係して。
震災以前、それぞれの産業のつながりは「目には見えない」存在で、
意外なことに業界をまたいだ交流は全くなかったそうです。
ところが「一緒に立ち上がる」必要が生まれて、初めてお互いの関係性を皆が再発見したのだといいます。
「津波をきっかけに、ひとのつながりが強くなった。
絶対に前よりもいい町にしてやるって思ってるんですよ」。
幸い家族は無事だったけれど、社屋も自宅も被災し、社員を解雇せざるをえなくなった小さな会社の社長さんが、
からっとした笑顔でそういいました。
もうひとつは、高校生の2人の娘のお父さんの話。
父娘の会話が乏しく「このままで子育て期が終わっていいのか」と、焦りを感じていたそうです。
家族全員が無事に再会できたのは震災後6日目。
その時、娘たちがいいだして全員で撮った写メが「少なくとも自分と女房は携帯の待ち受け」。
大きな心の振幅を経験したことで、誰もが気持ちを素直に表せるようになれて、
それが前に進む大きなエネルギー源になっていると感じるそうです。
==========
市街地にのしあがってしまった漁船の回収や、沈んだ船のサルベージが始まり、
焼け焦げて漂っていた船の曳航も進んでいました。
船の新造には時間も費用もかかるので、治せるものはできるだけ修理して使う方針だとか。
市場の冷蔵庫などもそうです。当初は船も施設も全滅だと思っていたのが、
よくよく調べてみると案外使えそうだといいます。
各浜では、5月に入ってから本格的に、漁師による片づけが始まりました。
漁師という職業には失業手当のようなものはないため、
国の補助事業で、浜の片付け作業に日当がつくことになったためです。
荒れ果てていた漁港に漁師たちの軽トラが集まり、物を燃やす煙があちこちの浜から立ちのぼっていました。
▲再開に向けて準備が進む気仙沼魚市場 ▲津波直後の海上火災で燃えた船を曳航中
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釜石・宮古の報告にも書いたように、気仙沼も「気仙沼の漁業」とひとくくりに語れるものはありません。
浜ごとに、さらには家ごとでもさまざまです。たとえば気仙沼市の唐桑半島(旧唐桑町)の同じ漁師でも、
舞根や鮪立のカキやホタテの養殖業の漁家と、遠洋マグロ漁船の乗組員として「唐桑御殿」を建てたひと、
あるいは小型漁船漁業を営む漁師では、隣り合っていても別世界ではないかと想像しています。
海辺の地域の今後がどう進むのか――。わたしたちには、どんな支援ができるのか。
海辺での暮らし方、漁業の形態、海とひとのかかわり方を中心に、
続けてお話を聞きながら、これからも考えていきたいと思っています。
今回も、お力添えをいただきましたすべての方々に、心より深く感謝申し上げます。
今回はまず、気仙沼市本吉町大谷の学校田んぼをお訪ねしました。
また、漁業関係では、水産畑出身の気仙沼市長にインタビュー。
気仙沼漁協組合長ほか、漁業につながる方々にもお会いして、
「水産の町」気仙沼の今と今後について、お話をお聞きしました。
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田んぼを訪ねたのは、旧本吉町の大谷(おおや)。チョウセンハマグリが自生する豊かで美しい砂浜が自慢の地区です。
7年前から幼稚園・小学校・中学校が連携して、生き物いっぱいの「ふゆみずたんぼ」を作っています。
冬の間も田んぼに水をはっておくことで生き物が命をつなぐことができる、元気で楽しいすてきな田んぼです。
残念ながら、今度の震災でこの田んぼも津波をかぶってしまいました。
しかし、子どもたちの「今年も田んぼをやりたい」という声に応えて、のべ300人のボランティアが集まり、
この連休に田んぼが復活。6月上旬には田植えを行う予定です。
漂着物と泥の層を取り除き、その下の土を掘ると……
カエル、タニシ、オケラ、ドジョウ、ミミズ、アブの幼虫などが元気に飛び出してきて、うれしくなりました。
田んぼの一角には何と湧き水があって、水辺には産卵するイトトンボ、アメンボ、シマヘビの姿も。
周囲の田んぼは、ほぼまだ手つかず。この学校田んぼだけがきれいになりました。
田植えをして緑の苗が風にそよいだら、それはもう地域の元気の素になるだろうなと思いました。
近くの45号線沿いで、津波の後を片づけて耕し、レタスなどの苗がきれいに植えられた畑を見かけました。
どちらも、土の神様がよみがえったような、力みなぎる光景です。
▲きれいに片付いた「ふゆみずたんぼ」 ▲ 45号線沿いのよみがえった畑
大谷の小中学校では、Uターンした半農半漁の方が外部講師としてかかわっていて、
ふゆみずたんぼ復活のプロジェクトも中心となって動かしています。
じつは大谷の子どもたちは、ワカメの本格的な養殖体験、海岸の松枯れ対策にも取り組んでいて、
養殖ワカメの芯は肥料として田んぼに入れていたそうです。
外部講師のこの方に「海の体験復活、見通しはどうでしょうね」と聞いてみると、
「まだ海辺で多くの方が行方不明なのに、海に子どもを連れて行けるわけないでしょう」。
不見識でした。……やはり海は厳しいです。
▲海辺の大谷海岸駅、線路はまだ手つかず ▲駅の道路側では直売所と食堂が再開!
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「漁師も一般市民も、海への思いは震災前も後も、何ら変わりはないと思いますよ」。
ためらいなくそう話すのは、菅原茂・気仙沼市長。
人口の8割が水産業につながる「水産の町」には、
「海と離れて生きる」という選択肢は、そもそもありえないのかもしれません。
復興の最初の一歩として今「6月にカツオの水揚げ」が、町全体の合言葉になっています。
気仙沼には、遠洋マグロ漁、近海マグロ漁を筆頭に地元の漁船漁業は盛んなものの、
魚市場への水揚げの7割は県外からの漁船。
そのため、魚市場はもちろん水産加工業、製氷業、冷蔵・冷凍業、
はたまた入港した船のドック、鉄工所、電気設備、漁具・船具、
次の航海に向けた食糧や雑貨の積み込み、各地のお国訛りが飛び交う飲み屋などなど、
じつに種々多様な後背産業が連なって、気仙沼という町のにぎわいが形作られているのです。
これらすべての産業が、それぞれわずかずつであれ手をつないで一緒に立ち上がらないと、町の復興はありえない。
「せーの」という、その最初のかけ声が「6月のカツオ」。
いったいそれは6月の何日ごろなのか――。
漁協組合長は「よく聞かれるけれど、それはカツオの回遊次第ですよ。
できれば今年は遅れてくれと祈っているけどね」と、大笑い。
何たる愚問!! 魚が獲れなきゃ水揚げはなし。逆に準備がまだでも、魚が来れば待ったなし。
もしかしたら、そういう自然まかせのところが、
「津波も海の自然のひとつ」と受け止める素地になっているのでしょうか。
―― いえいえ、わたしにはまだわかりません。
==========
「絆」というような意味のお話を、今回いくつか聞きました。
ひとつは、多様な産業が「手をつないで一緒に立ち上がる」ことに関係して。
震災以前、それぞれの産業のつながりは「目には見えない」存在で、
意外なことに業界をまたいだ交流は全くなかったそうです。
ところが「一緒に立ち上がる」必要が生まれて、初めてお互いの関係性を皆が再発見したのだといいます。
「津波をきっかけに、ひとのつながりが強くなった。
絶対に前よりもいい町にしてやるって思ってるんですよ」。
幸い家族は無事だったけれど、社屋も自宅も被災し、社員を解雇せざるをえなくなった小さな会社の社長さんが、
からっとした笑顔でそういいました。
もうひとつは、高校生の2人の娘のお父さんの話。
父娘の会話が乏しく「このままで子育て期が終わっていいのか」と、焦りを感じていたそうです。
家族全員が無事に再会できたのは震災後6日目。
その時、娘たちがいいだして全員で撮った写メが「少なくとも自分と女房は携帯の待ち受け」。
大きな心の振幅を経験したことで、誰もが気持ちを素直に表せるようになれて、
それが前に進む大きなエネルギー源になっていると感じるそうです。
==========
市街地にのしあがってしまった漁船の回収や、沈んだ船のサルベージが始まり、
焼け焦げて漂っていた船の曳航も進んでいました。
船の新造には時間も費用もかかるので、治せるものはできるだけ修理して使う方針だとか。
市場の冷蔵庫などもそうです。当初は船も施設も全滅だと思っていたのが、
よくよく調べてみると案外使えそうだといいます。
各浜では、5月に入ってから本格的に、漁師による片づけが始まりました。
漁師という職業には失業手当のようなものはないため、
国の補助事業で、浜の片付け作業に日当がつくことになったためです。
荒れ果てていた漁港に漁師たちの軽トラが集まり、物を燃やす煙があちこちの浜から立ちのぼっていました。
▲再開に向けて準備が進む気仙沼魚市場 ▲津波直後の海上火災で燃えた船を曳航中
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釜石・宮古の報告にも書いたように、気仙沼も「気仙沼の漁業」とひとくくりに語れるものはありません。
浜ごとに、さらには家ごとでもさまざまです。たとえば気仙沼市の唐桑半島(旧唐桑町)の同じ漁師でも、
舞根や鮪立のカキやホタテの養殖業の漁家と、遠洋マグロ漁船の乗組員として「唐桑御殿」を建てたひと、
あるいは小型漁船漁業を営む漁師では、隣り合っていても別世界ではないかと想像しています。
海辺の地域の今後がどう進むのか――。わたしたちには、どんな支援ができるのか。
海辺での暮らし方、漁業の形態、海とひとのかかわり方を中心に、
続けてお話を聞きながら、これからも考えていきたいと思っています。
今回も、お力添えをいただきましたすべての方々に、心より深く感謝申し上げます。