ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

『二十歳のころ、

2007年12月20日 16時07分57秒 | Weblog
何をしてましたか?』

 と問われたら、たぶん、考え込んでしまうだろう。
 年表を繰ってやっと、それが1968年で、昭和の年号でいうと昭和43年になるということがわかった、というのが実情である。それくらい、昔の出来事を、年齢なり、年代なりと照合して、正確に思い出すのは難しい。
 近頃話題になっている社保庁の年金記録問題で、「年金特別便」というものが発送され始めたそうだが、それが不親切極まりない書面で、“宙に浮いた年金記録に紛れ込んでいる可能性があるから”と送られてくるにも関わらず、それがどれかは明記されず“自分で探して報告せよ”、というやり方で、特別便というやつが送られてきたわけではないが、周りには怒りをつのらせている人が多い。
 テレビで、ある人が、欠けていたと思われる部分を指摘して持参したら、その会社はどこにあって、社長の名前は? 上司や同僚で思い出せる名前は? と質問され、頭を抱えるシーンが放映されていた。自分だって、卒業して最初に入った会社の社長を今は思い出せない。それくらい記憶というものはあいまいなものだ。社保庁も、調べて判明したから送るのだから「これこれという事実が出てきましたが、確認できますか?」というくらいの配慮があってしかるべきではないのか、と、こちらまで憤ってしまう、このごろだ。

 お役人のやることは、おしなべてそんなものなのだろうが、『二十歳のころ、何をしてただろうか?』ということに戻ると、
 私は、二十歳の夏を、北海道で迎えた。
 上野から夜行列車で青森に向かい、青函連絡船、そしてまだ煙を出して走っていた蒸気機関車を乗り継いで、帯広から単線の士幌線(今は廃線となっている)で終点の十勝三股まで行き、三股小学校の校庭でテントを張った翌日、大雪山系の縦走に出発した。初めて背負う30キロのキスリングが肩に食い込んだ記憶は鮮明にある。人の背丈よりも高い蕗(フキ)が道沿いに密生しており、「これなら傘になるよ」と、皆で言い合った。このときの山行をよく覚えているのは、この縦走の途中で、雪渓の水で頭を洗ったことがたたって、かぜをひき高熱を出して寝込んでしまったからだ。悪いことに、その夜は嵐になり、稜線を走る雷の光にびくびくしながら、テントの中で震えていた。翌朝、麓の富良野まで下ろされ、旭川の病院に入院した。それが、記憶に残る二十歳の出来事だ。
 懲りないやつだったな、と思う。退院後、下山した仲間3人と、その足で利尻島に渡り、雨の中を利尻山頂まで登頂した。
 残念ながら、そのほかのことは、二十歳の記憶としては思い出すことができない。

 それで、いったい何を言いたかったのかというと、そうは言っても、多くの人は、「二十歳のころ?」と問われて、結構しっかりと思い出し、語れるものなんだなと、感心したからである。

『これがいい! と思った1時間後には、もうガーナ大使館の扉を叩いていましたね。そしてユネスコの試験を受けてガーナに行くことになった』(秋山仁/数学者)
『それから、もう1冊は、アンドレ・ジッドの『狭き門』です。僕が最初に読んだフランスの本で、この本で僕はキリスト教を恐ろしいものだ、と感じて、出来るだけキリスト教から離れていようと決めた』(大江健三郎/小説家)
『一人の人に恋をしてたんだけど、私は数少ない女子団員の一人として、男子団員全員に対して平等に愛を持たなくてはいけないと考えていたの。だから恋を伝えられなくて、最後にさよならのラブレターを出してけじめをつけたわけ。そして芝居を辞めたんです』(加藤登紀子/シンガーソングライター)
『その時はねぇ、巨人の合宿やってたんだよ。合宿所というか、巨人寮という寮でね、三田四国町にあったんですよ。当時女優の高峰三枝子というのがいたんですけど、その家の斜め前でした。だから要領のいい奴は女優の家へ遊びにいってご飯をご馳走になったりしとったんだけど、僕なんかは田舎者だからそういうのは恥ずかしくてさ、寮にばかりいた』(川上哲治/元巨人軍監督)

“有名無名・老若男女、68の青春群像”と銘打たれた『二十歳のころ』(立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ/新潮社)を、アマゾンの中古商品で買って、読み終えた。




 

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