我々が一般的にそう思っているよりずっと多くの謎が潜んでいるのではないだろうか?
誰か他人のことをきちんとわかっているなどと本気で言える人間はどこにもいない。それがたとえ何年も起居を共にしている相手であったとしてもである。
我々の内なる人生を構成するものについては、我々はもっとも親しい相手にさえその断片しか伝えることができないのである。その全体像は伝えることができないし、相手も理解することはできないだろう。
我々は隣人の姿さえはっきりと見極めることのできないこのような薄暗がりの如き人生をともに手探りでふらふらと進んでいる。
ただときおり、我々がその道連れとともにした何かの経験とか、相手が口にしたふとした発言とかによって、まるでパッと閃光に照らし出された如く、その相手と我々がぴったりとくっつくようにして立っていることを一瞬知ることがある。
そのようなときに、我々は相手のあるがままの姿を見るのだ。
そのあと、我々は再びともに暗闇の中を歩いていく・・・。
おそらく長い時間。
そして、その仲間の旅人の姿を見極めようと努めるのだが、その思いが果たされることはない』(アルベルト・シュヴァイツァー)
帯に書かれた「こんなに読書にのめりこんだのは、『嵐が丘』を読んで以来です」の文章は嘘ではなかった。重いテーマだし、それによって元気が出るとか、さあ明日も仕事に頑張るぞと励まされたわけではないが、『メモリー・キーパーの娘』(NHK出版)は、まさに一気呵成に読ませる長編だった。一気呵成とは言っても3日間かけてしまったけれども、私にしてみれば、こんなに根を詰めて、本に向き合ったのは、久しぶりのことだった。
たったひとつの嘘によって、それに関わった人々の人生がどう変わってしまったのか? “フィービ”と名付けられた一人の女の子を巡る25年の物語が綴られた546ページをめくりながら、上のシュヴァイツァーの言葉を何度反芻したことだろう。