ビタミンP

苦心惨憺して書いている作品を少しでも褒めてもらうと、急に元気づく。それをトーマス・マンはビタミンPと呼んだ。

『自分が最低だと

2009年01月01日 23時24分56秒 | Weblog

思っていればいい。自分が最低と思っていれば、いくらでも学ぶことができる。自分が偉いと思っていると、人は何も言ってくれない。何も学ぶことができなくなってしまう』(赤塚不二夫)

 紅白歌合戦を見て年を越したけれど、新年になったからといって、別段変わったこともなければ、心境に変化もない。外は風もなく、ガラス窓を通して差し込む日の光も温かな1日だった。これで、おだやかな日々が3日続いたことになる。今年はこんふうにおだやかに過ぎていく1年であってほしいものだ。

 元旦ということでいつも思い出すは、8年前に逝った父の誕生日だったことだが、今年はもうひとり、24年前に逝った岡村昭彦さんもこの日が誕生日だったことを思い出した。  
 まだ20代の後半だったころの一時期、著者と編集者という関係の中で仕事をご一緒させていただき、舞阪町(現・浜松市)にあった岡村さんの実家でたくさんの資料を拝見させていただいたことがある。報道カメラマンとしてよりも一ジャーナリストとしてヴェトナム戦争を記録した岡村さんはそのころダブリン(アイルランド)に居を構えていた。従軍したビアフラの独立戦争が敗北という形で終わり、北アイルランド紛争やエチオピアの干ばつの取材に飛びまわっていた時期だった。お願いした連載のタイトルは『アイルランドからの小さな報告』。
そのころの岡村さんの視点は、ケネディ家をはじめとするアイルランド系アメリカ人とヴェトナム戦争の結びつきを探ることに置かれていて、そのアイルランドの地から世界を見ようという企画だった。

その岡村さんが56歳の若さで亡くなられたとき、病名は敗血症だったのだが、私の胸の中ではヴェトナムと枯れ葉剤が結びつき、それが早すぎる死といつまでも重なって離れなかったのだが、そのことが突然昨年末から読み進めた『花はどこへいった』(坂田雅子/トランスビュー)を手に取るなかで甦ってきたのである。

『花はどこへいった』は、ヴェトナム戦争に従軍し後に報道カメラマンとして活躍した夫のがんによる死をきっかけに枯れ葉剤の映画を作ることを決意して渡米、映画制作を学んで2007年に映画『花はどこへいった』を完成させた著者が、自らの奮闘の人生を綴ったものである。

岡村さんと仕事をした駆け出しの編集者時代、海外物の取材原稿に使う写真を借用するため、頻繁に通った六本木にあったインペリアルプレスで、何度も顔を合わせていたはずの坂田雅子さんが、その著者であったこともまた驚きでもあり、懐かしくもあった。
最愛の夫はなぜ急死したのか? を問い続け、映画制作を一から学んだ情熱、旧南ベトナム全土の12%に撒かれたと言われる枯れ葉剤の被害現場に脚を運び真実を見つめた勇気は、あの時代に生きた人間に共通のものなのだろう。米軍によって戦争を早めるという口実のもとに撒かれた枯れ葉剤は、同じ理由で広島と長崎に落とされた原爆同様、その下で生活していたベトナム人に多くの犠牲者を生んだ(多くの奇形児が産まれた)だけではなかった。撒いた加害者であるべきアメリカ人にもそこで取材したジャーナリストや派遣医師団といった人々の間にさえ、未だに癒えない傷跡を残したのだ。
イラク、アフガニスタン、ソマリア、ダルフール、パレスチナ・・・、正義のための戦争はいつまで繰り返されるのだろうか?

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