十二月五日聖護院門跡に於いて
修験の教風は民族信仰の進化
藤田
護摩の祈祷には甘木を焚いて一家の繁栄を希ひ、苦木を焚いて怨敵を退散せしめるといふが、その作法は今日でも伝はつて居りますか。
中村
三角の壇を作るのは呪の場合だといひますね。
宮城
今日では呪ひの祈祷といふやうなことはやりません。本山の護摩は宝祚無窮を萬民康寧を祈願するために、修行しています。
藤井
徳川時代には熊野御師といふものが地方的に分散してお札をもつて歩いたり祈祷等をしたりして生計を立てゝゐたものです。
中村
修験者も竈の浄祓をしたもので、全国的にそれぞれ縄張りがあつたらしいですね。
藤井
徳川時代における修験道の組織は本山派と当山派と多少違ひますが本山派では本山の下に院家、院室といふものがあり、その下に三十六先達とが年行事、準年行事などいふ役付の修験が居りさらにその配下に霞下といつて平修験がゐたわけで、そうした組織が自ら縄張りを形作つてゐたのでせう。
藤田
大体日本の民間信仰は浄め祓ひが中心となつてゐるもので、修験も結局はその類だらう。また今日の神道では手を叩いて神さまを拝むが、修験道でもやはり拍手する。これは民間信仰の儀式で、源に遡ればさうむづかしいものではないのだが平安朝以後、次第に勿体をつけて免許だとか皆伝だとかいつて事が面倒になつて来たもので、密教なども要するに儀式を秘密にするところから面倒になつたのだと思う。
宮城
お説の通り修験道の起りは一種の民間信仰に基礎を置いてゐると思はれますので、日本に未だ表面密教の渡来せぬ以前から修験道、この名は後のものとしても役行者によつて開かれた宗教は、古くから、それ独自の教風伝統を有し、諸国の山々に苦行練行したものと考へる、奈良朝から平安朝へかけての宗教は、教理が中々煩瑣で、むつかしく又正式の得度授戒等も中々困難であつたので、一般民衆はこれに近づくことが不可能の状態にありましたので、一般民衆として仏教の修行に入る人は諸国の山々に住んでゐた行者に近づき、その弟子となりそれより法をうけたものでこゝに修験行者と民衆といふものが固く結縁したと見られます。そしてその行者の儀式作法も天台、真言の影響を受けてからは一定の型が出来、やがて教団を結ぶに至り今日に及んだものと存じます。
藤田
それでその信仰生活における儀式が漸次民間の行儀作法にも転じ、他面儀式に用ひる衣裳法具神器等も一定されるやうになつて来たので、例へば慈雲尊者の神道目録にある神式作法の如き修験道の儀式によく似てをり天理教の儀式にも似てゐる。