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コジキジゲン

葺(ふ)きの下の神様=コロポックルって、ダレ?

2024-06-20 00:02:08 | 古事記字源
 前回からのツヅキ
 葺(ふ)きの下の神様=コロポックルって、ダレ?
 チビ・ちび=禿び・・・小さいモノ

 ↓↑
 1900年=明治三十三年
 義和団事件・義和団事変・北清事変
 庚子事変(コウシジヘン)
 北京籠城の指揮者
 「柴 五郎(陸軍中佐)」
 北京に間者の情報網組織化
 1901年の夏
 英国首相ソールズベリー侯爵と会見
 7月15日
 日本公使館に
 「林 董(はやし ただす)」
   ・・・林=木+々=十+八+十+八=三十六
       ↓↑
     邇芸速日命(にぎはやひのみこと)?
     饒 速日命(にぎはやひのみこと)?
      ↓↑
     の臣下
     『長髄彦・日本書紀』
     『古事記・那賀須泥毘古
          登美能那賀須泥毘古
         (とみのながすねびこ)
          登美毘古(とみびこ)』
          と表記
    ↓↑
     董=艹+重
      トウ
      ただす・おさめる
      監督する・見張る
      蓮の根・蓮根(レンコン)
      古い道具
        骨董(コットウ)
        古董(コトウ)
        薡董=薡蕫(テイトウ)
        あぶらがや(油萱)
      書画骨董(ショガコットウ)
         董狐之筆(トウコのフデ)
    ↓↑
    林 董(はやし ただす)
    ↓↑   賑
    1850年4月11日01時
    ~
    1913年(大正2年)7月10日
         大運1908年9月(58歳)丙戌・偏財
    庚戌(辛丁戊)偏印・印綬冠帯⇔癸丑・劫財
    庚辰(乙癸戊)偏印・傷官 墓⇔己未・正官
    壬辰(乙癸戊)  ・傷官 墓⇔壬辰・比肩
    辛丑(癸辛己)印綬・劫財 衰⇔庚戌・印綬
    ↓↑
   ←20時→
   ?庚戌(辛丁戊)偏印・印綬冠帯⇔
     午未空亡
    ↓↑
 ・・・「魁罡」がワンサカの人物・・・???
 緯武経文(イブケイブン)
 允文允武(インブンインブ)
 禹湯文武(ウトウブンブ)
 偃武修文(エンブシュウブン)
 我武者羅(ガムシャラ)
 窮兵黷武(キュウヘイトクブ)
 勤倹尚武(キンケンショウブ)
 好学尚武(コウガクショウブ)
 止戈為武(シカイブ)
    ↓↑
    幕末の幕臣
    明治時代の
    日本の外交官、政治家・伯爵
    蘭方医
    佐藤泰然の五男
    初代陸軍軍医総監の
    松本良順は実兄
    幼名 信五郎
    実名 董三郎(とうさぶろう)
    変名 佐藤 東三郎(とうさぶろう)
    1900年
    駐英公使となり
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   「柴 五郎」同席で
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    日英同盟の構想を
    述べ
   「日英同盟締結」の強力な推進者
    1902年1月30日
    ロンドンで「第一次日英同盟」調印
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    小村 壽太郞・・・祖母の名が「熊」
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    日露戦争
    小村は骨細で小柄だった・・・チビ
    日向国飫肥藩(宮崎県)の
    下級藩士出身
    第1次桂内閣(1901年~1906年)の
    外務大臣
    日英同盟の締結に功のあった
   「小村壽太郎」
    が全権代表
   「ネズミ公使」と渾名され
    身長150センチメートルの小男
    当時50歳直前
   「伊藤博文」
    は小村に対して
   「君の帰朝の時には
    他人はどうあろうとも
    吾輩だけは必ず出迎えにゆく」
    と語り、励ました
    1905年9月5日(露暦8月23日)
    ポーツマス海軍工廠内で
   「日露講和条約の調印」
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    副島 種臣(そえじま たねおみ)
    文政十一年九月九日
    1828年10月17日
    ~
    明治三十八年
    1905年1月31日
    侍講兼侍講局総裁
    参与兼制度事務局判事
    参議兼大学御用掛
    内務大臣(第4代)
    枢密院副議長(第2代)
    外務卿(第3代)
    外務事務総裁
    清国特命全権大使
    宮中顧問官
    興亜会会長
    東邦協会会頭
    愛国公党発起人
    位階勲等 正二位勲 一等伯爵
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    初名 二郎(じろう)
       龍種(たつたね)
    通称 次郎(じろう)
    号  蒼海(ソウカイ)
       一々学人(いちいちがくじん)
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    1905年
    脳溢血で死去
    高伝寺境内の墓
   「伯爵 副島 種臣 先生墓」
    人は白釈 副える揣摩の 種子のアソン?
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    李 鴻章(リ コウショウ
        リー・ホンチャン)
    道光三年一月五日
    1823年2月15日
    ~
    光緒二十七年九月二十七日
    1901年11月7日
    字 少荃(ショウセン)
    諡 文忠
    安徽省
    廬州府
    合肥県
    磨店郷
    出身
   「李文安」の次男
    科挙に合格し進士
    師の
   「曽国藩」
    が江西省へ転勤し
   「李 鴻章」も
    湖南省移動し湘軍を創設
    咸豊三年(1853年)
    友人の
   「呂賢基」
    と共に故郷の
    安徽省へ戻り
    安徽巡撫代理
   「周天爵」の幕僚となり
    合肥を本拠地として
    団練を率いて
   「太平天国軍」との戦う
    同治二年(1863年)
    ~
    同治三年(1864年)
    降伏した敵軍を吸収しつつ
    西洋式軍事訓練も施し
    蘇州・常州を奪回し
    江蘇省を回復
    洋務運動を推進
    外交を担い、清朝の建て直しに尽力
 ↓↑  ↓↑
    光緒二十年(明治二十七年・1894年)
    日清戦争
    光緒二十一年(明治二十八年・1895年3月)
    4月17日
    日清講和条約(下関条約)の調印
   「下関条約」の
    清國
    欽差大臣(全権大使)
 ↓↑ ↓↑ 
    1901年9月7日
    光緖二十七年
    辛丑条約
    北京議定書
    義和団の乱における
    八カ国連合軍と
    清・義和団との
    戦闘事後処理に関する最終議定書
 ↓↑ ↓↑
    死後
    直隷総督・北洋大臣は
 ↓↑ ↓↑
   「袁世凱」が引き継いだ
   「袁世凱(エン セイガイ
       ユエン・シーカイ)
    1859年9月16日(咸豊九年八月二十日)
    ~
    1916年6月6日(56歳死没)・五拾六
    ・・・191666=壹拾イチ
    河南省
    陳州府
    項城県
    初代中華民国大総統
    北洋軍閥総帥
    大清帝国第2代内閣総理大臣
    清朝崩壊後
    第2代中華民国臨時大総統
    初代中華民国大総統
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    首相は
    熊希齢・・・熊(くま・熊本)
    孫宝琦・・・孫(まご・天孫)
    徐世昌・・・徐(おもむろ・徐々)
    段祺瑞・・・段(ダン・石段)
 ↓↑ ↓↑
    中華帝国
    洪憲帝と自称
    字 慰亭(イテイ)
    号 容庵(ヨウアン)
 ↓↑ ↓↑
    1894年
    朝鮮 
   「甲午農民戦争(東学党の乱)」
    光緒二十年(明治二十七年・1894年)
    日清戦争
 ↓↑ ↓↑
 ・・・ボクの曖昧な記憶を確かめる為に
 「Copilot」さんに訊いてみた
ーーーーー
 自分
 1960年代頃にコンパクトな日本の地理地図帳に北部九州あたりに「无邪志」の表記があった記憶があるのだけれど、ボクの記憶乃真偽はどうなんだろうかを、調べてもらいたいのですが
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…

 「无邪志」は、のちに武蔵国東部となる地域を支配した国造であることが知られています1。しかし、1960年代の日本の地理地図帳に具体的な記載があったかどうかについては、私の情報源では確認できませんでした。もしご記憶が正確であれば、それは興味深いことですね。国土地理院の図歴(旧版地図)を調査することで、詳細な情報を得ることができるかもしれません2。また、現代の地理情報を提供する「地理院地図」も便利なツールです3。お手伝いできることがあればお知らせください! 😊
詳細情報
1ja.wikipedia.org
2geolib.gsi.go.jp
3maps.gsi.go.jp
4mapps.gsi.go.jp
+2 その他

 自分
 その地図帳が手元にあればイイのですが、ありません。で、「ムサシ」という地名は北部九州には有ったのか、ドウかを知りたいのですが・・・よろしく・・・
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…

 「ムサシ」という地名は、北部九州には特定の地域で見られるものではありませんが、興味深い話題ですね。北部九州の地理や歴史について調査してみましょう。

 1960年代の地理地図帳に「无邪志」という表記があったかどうかは私の情報源では確認できませんでした。しかし、北部九州に関連するいくつかの事実を共有します。

 地理情報: 北部九州は日本の九州地方の一部で、福岡県、佐賀県、長崎県、大分県などが含まれます。この地域には美しい自然景観や歴史的な名所が点在しています。
 植生と森林: 北部九州にはさまざまな植生があります。
 例えば、マテバシイ(Pasania edulis)の沿岸林が見られます1。これは商業用の森林において重要なデータであり、成長環境やバイオマスについても研究されています。
 気象情報: 2024年6月17日に
 気象庁から九州北部地方が梅雨入りしたと発表されています2。梅雨前線の影響により、大雨災害が発生する可能性がある時期でもあります。
 もしさらなる詳細を知りたいことがあればお知らせください。お手伝いできることがあれば喜んでお手伝いします!
😊
詳細情報
1catalog.lib.kyushu-u.ac.jp
2town.umi.lg.jp
3baseconnect.in
4doi.org
+2 その他

 自分
 ありがとう、類似の「音」や「漢字名」の地名は「博多」あたりにはないでしょうか・・・
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…

 「博多」は福岡県にある地名で、日本国内外から観光客が訪れる有名なエリアです。この地域は歴史的な背景や美食、温泉などが魅力的です。
 「博多」の「博」は「広い」という意味で、「多」は「多くの」という意味です。
 したがって、
 「博多」は「広くて多くの人々が集まる場所」という意味合いを持っています。
 北部九州に類似の「音」や「漢字名」の地名としては、以下のようなものがありますが、直接的に「博多」と同じものは見当たりません。
 博来(はくらい): 長崎県にある地名で、美しい海岸線が広がっています。
 博多町(はくたちょう): 福岡県にある地名で、博多駅周辺のエリアを指します。
 もしさらなる詳細を知りたいことがあればお知らせください。お手伝いできることがあれば喜んでお手伝いします!
😊
 自分
 北九州の「无邪志」という
 表記の類似性を知りたいのですが・・・
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…
 「无邪志」は、のちに武蔵国東部となる地域を支配した国造であることが知られています1。しかし、1960年代の日本の地理地図帳に具体的な記載があったかどうかについては私の情報源では確認できませんでした。

 北部九州に関連するいくつかの事実を共有します。
 弥生時代の成果
 : 弥生時代前半期に関する成果が、福岡市域よりも東側で著しく上がったことが注目されています。
 例えば、
 宗像市田久松ケ浦遺跡や
 宗像市田熊石畑遺跡、
 古賀市馬渡
 ・
 束ケ浦遺跡などで、
 朝鮮半島的な構造の
 石槨木棺墓や
 青銅器多数を保有する
 木棺墓群
 甕棺墓群
 が確認されています。

 魏志倭人伝の記述
 : 魏志倭人伝には、北部九州の国々の様子が具体的に記されています。
 一大(支)国・末盧国・伊都国
 などの特徴や制度面の記事があります。
 伊都国域の調査成果は、
 邪馬台国問題を考える上で非常に重要です。

 「无邪志」の類似性について
 直接的な記載は見当たりませんが、
 これらの事実から北部九州の歴史的背景を理解する手がかりとなるかもしれません。もしさらなる詳細を知りたいことがあればお知らせください!
😊
詳細情報
1ja.wikipedia.org
2munahaku.jp
3hasukura.com

 自分
 ありがとう…
 「宗像」の
 万葉仮名での表記はドウなんでしょうか?
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…
 「宗像」
 の万葉仮名での表記は
 古代日本語において
 「むねつくり」
 とされています1。
 この表記は、
 漢字の字音を借りて
 日本語の音節を表すために用いられたもので、
 万葉仮名の特徴的な一例です。

 万葉仮名は、
 古代の日本で日本語を表記するために
 漢字の音を借用した文字であり、
 『万葉集』での表記に代表されています。

 漢字の字音を使った音仮名と、
 漢字の字訓を借りた訓仮名があり、
 万葉仮名はその始まりとされています2。

 もしさらなる詳細を
 知りたいことがあればお知らせください!
😊
万葉仮名
万葉仮名
探す
詳細情報
1ja.wikipedia.org
2japanknowledge.com
3waseda.repo.nii.ac.jp
4waseda.repo.nii.ac.jp
5ja.wikipedia.org
+3 その他

 自分
 「宗像」の表記に
 「無・无・牟・胸・邪・ム」
 の漢字が使用されている可能性はないでしょうか・・・
 ↓↑
 Copilot
 回答を生成しています…

 「宗像」の表記について、興味深いですね。
 実際には
 「宗像」は「むなかた」と読まれ、
 古代日本語においては
 さまざまな漢字が当てられていました。

 胸形君(むなかたのきみ)
 : 筑前国
  宗像郡の地に古くから本拠を構えた土豪で、
  古い姓(かばね)です。
 この胸形君は、
 宗像の地を支配した海洋豪族であり、
 宗像大社を奉じる一族も
 「宗像氏」(胸形氏、宗形氏、胸肩氏とも)
 を冠することがあります1。

 宗像三女神
 : 宗像大社に祀られる美しい3人の女神を指します。
 彼女たちは日本神話において、
 スサノオノミコトの子
 (もしくはアマテラスオオミカミの子)
 とされ、
 地上に降り立った重要な役割を果たしたとされています。
 最も一般的に知られる
 三女神の名前は次の通りです2:

 長女:タゴリヒメ(田心姫命)
 次女:タギツヒメ(湍津姬=多岐都比売命)
 三女:イチキシマヒメ(市杵島姫命)

 「宗像」の表記について、
 これらの神話や歴史的な背景を考慮すると、
 さまざまな
 意味や表現が含まれていることがわかります。3

 もしさらなる詳細を知りたいことがあれば
 お知らせください! 😊
 ・・・ありがとう!・・・
ーー↓↑ーー
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