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コジキジゲン

セカイシ・・・せかいし・・・?

2024-07-12 18:23:53 | 古事記字源
 ・・・高校時代に「世界史」を学んだが
 「世界史の若い教師」が
 「ヒッタイト」
 と
 「ヒクソス」
 を同じ人種と混同し
 「鉄器の発明」部族であると
 教壇に立ってハナシていた・・・
 それを
 疑問にした生徒が
 「ヒッタイト」と
 「ヒクソス」は
 違うのではないですかと
 先生に質問していたが・・・
 回答は曖昧だった・・・

 もちろん
 ボクには
 「カタカナの音声や
  民族の名前の相異や
  問題提起の
  鉄器使用の重大さ」
 すら・・・
 ドウでもイイコトだったが・・・
 多分
 「科学、化学、生物学、医学、物理学・・・」
 「考古学」も
 あの時代も
 「ヒッタイト」
 と
 「ヒクソス」
 の歴史は確定できない不明な点が
 今現在よりも多かったカモ・・・
 共通文字は「ヒ」で
 発音も「ひ・ヒ」だが・・・
 ツヅク文字の「比較」をカンジレば

 「ッタイト」
  ・・・つた=蘿(蔦・樢・津多・便・傳・伝)
     いと=糸(怡土・以登・委奴・意図
          伊都・縷・維人
            ・・・維新の人?
 「クソス」
  ・・・くそす=句蘇素・玖姐主
         糞爲・・・?

 世界史や日本史を
 選択している受験生・・・
 ドウ・・・するんだか・・・?
 ↓↑
 ユーチュブで
 「ヒッタイト」を観た
 序でに
 PCの検索・・・
 「ウイッキペデア」の記事を視覚と音声で・・・
 イヤァ~・・・
 「上海ナントカ機構」・・・
 何を協力するのか?・・・
 エゴイスト集団・・・の「S」と「P」・・・
 「独裁権力」を握ったプウチン、キンペイのオマツリ・・・
 あの時代の
 「領土拡張戦争人間」と同類・・・カモ・・・
 「戦争指導者」だけではない・・・
 必死で生き残った・・・兵士も従属民も
 「勝利の代償」が略奪、強奪、強姦・・・
 「敵国国民」に対する「生殺与奪」は「自由」だった?
 ↓↑
 検索で
 出てきた「片仮名」を
     「漢字表記」したならばドウなるんだか
ーー↓↑ーー
 ヒッタイト(hɪtaɪts)・・・筆対訳(譯)?
 (英語: Hittites
  古代ギリシア語: Χετταίοι・希臘語
  ラテン語: Hetthaei)・・・拉丁語・羅甸語
 紀元前1600年頃
 アナトリア・・・穴(あな・孔)
         鳥(とり・取・酉・採り)
         蛙(ア・亞・丫)
 の北中部
 ハットゥシャ・・・法堂者・八頭借?
 を中心とした王国を樹立
 アナトリア人の王国
 レバント北部・・・例番訳(譯・頭)
 上部メソポタミア(希臘語: Μεσοποταμία
          拉丁・羅甸語: Mesopotamia
          複数の河の間
          チグリス川
          ユーフラテス川
          の間の 沖積平野・イラクの一部
          女蘇保民亜
 の一部を領有
 「シュッピルリウマ1世」
  シュッ=出・卆・卒・帥
  ピル =肥留・蛭・蒜・昼
  リ  =里・理
  ウマ =馬・午・宇摩・旨
 の下で
 紀元前14世紀半に絶頂
 ↓↑
 紀元前15世紀~紀元前13世紀
 「ヒッタイト」・・・アッシリアから見て
           西(酉=とり=鳥・鶏・禽)の
           地域を指す地名
 と呼ばれる
 「ハットゥシャ」の王国
 エジプト新王国・・・埃及
 アッシリア帝国・・・亜西里亜・亜祭里亜・Assyria
 ミタンニ帝国・・・・観譚似(爾・邇)?
 と競合
 中アッシリア帝国が
 ヒッタイト王国の多くを併合
 残りの部分は
 フリュギア人・・・附躘義亞?
 よって略奪
 紀元前1180年以降
 青銅器時代後期の崩壊時
 いくつかの独立した
 「シロ・ヒッタイト」・・・新ヒッタイト王国
             「シロ・ヒッタイト
             (Syro-Hittite)王国」
              シロ=斯羅・新羅=辰韓
 国家に分裂
 いくつかは
 新アッシリア王国に屈服する前に
 紀元前8世紀まで存続
 ↓↑
 ヒッタイト語
 インド・ヨーロッパ語族
 アナトリア語派の一
 ルーアン語・・・留卯行(安・杏・案)?
 とともに
 歴史的に記録されている最古の
 インド・ヨーロッパ語
 その話者によって
 「nešili=ネサ」・・・音差・根差・禰査?
 の言語
 ヒッタイト人は自分たちの国を
 「ハットゥシャ王国
 (アッカド語 ハッティ)」
        ・・・発停・髪剃・剃髪?
 と呼んでいた
 紀元前2千年紀の初めまで
 この地域に住んでいた
 「ハッティ」人に由来
 しかし
 「ハッティ」人の言語であるハッティ語は
 ヒッタイト語とは無関係の言語
 「ヒッタイト人」という名称は
 19世紀の考古学が最初に
 聖書のヒッタイト人であると識別したもの
 ↓↑
 「ハットゥシャ
 (トルコ共和国、ボアズカレ)」
         ・・・母阿事珂例?
 のライオンの門・・・・雷音
 ↓↑
 ヒッタイト文明の歴史
 楔形文字のテキスト
 アッシリア、バビロニア、エジプト
 中東の様々な史書で発見され
 外交と商業の文通から解読
 ↓↑
 鉄の製錬
 青銅器時代後期
 アナトリア・・・穴門里蛙(阿・亜)
 ヒッタイト人
 に起因
 後期青銅器時代
 初期鉄器時代
 の一部として
 この地域で
 鉄工技術が比較的継続的に普及
 青銅器時代の
 アナトリアの鉄器は
 エジプトなどで発見された鉄器に匹敵
 武器となるものはごく少数
 採掘、採集し溶かした鉄ではなく
 隕石・・・・・音碩?
 の鉄を使用
 戦車(チャリオット・タンク)の使用
         ・・・どの部分が鉄
         ・・・車輪・軸?
 ↓↑
 ヒッタイト王朝
 シリア、レバノン、イスラエル
 の周りに散らばった小さな王国で
 統一された連続性を欠き
 子孫は散らばり
 バント、トルコ、メソポタミア
 などの近代的な民族に統合されていった
 ↓↑
 1920年代
 トルコ建国で
 ヒッタイト人への関心が高まり
 ハレット・チャンベル
 タフシン・オズギュチ
 などのトルコ人考古学者の注目を集めた
 ↓↑
 ヒッタイト語
 20世紀初頭に解読され始め
 1902年
 ヨルゲン・クヌートソン
 (en:Jørgen A. Knudtzon・ノルウェー)
 が、ヒッタイト領で発見された粘土板の多くが
 アッカド式楔形文字で書かれていることを指摘
 「音節文字」で書かれ解読が進んだ
 1916年
 ベドジフ・フロズニー
 (en:Bedřich Hrozný、チェコ)
    ・・・ボクには「フロズニー」が
           「くろすみい」
            に聴こえた
       黒住・黒澄・黒墨・黒済???
 が
 この言語は印欧語に属すると結論
 さらに解読が進んだ
 ↓↑
 ヒッタイト学
 アンカラの
 アナトリア文明博物館の設立
 ヒッタイト人の美術品や遺物の展示
 ↓↑
 名称
 「ハッティ (英: Hatti) 」
 旧約聖書の
 「ヘテ人(英: Hitti・ヘト人)」
 をもとにして
 イギリス人
 アッシリア学者
 「アーチボルド・セイス」
 が命名した
 ↓↑
 聖書の
 「ヘト人」は
 「カナン人」・・・仮名務?
 の一派
 『エズラ記』9章1節
 ユダ王国の指導者たちが
 バビロン・・・ 古代名は「神の門」
         アッカド語 バビリム
              Bab-ilim
         聖書では「バベル Babel」
        「巴比崙=バビロン」
 捕囚から戻っていた時
 氏族長たちの報告で
 周辺の
 異民族の名前として出てくるのを
 最後に名前が上がらなくなり
 西暦1世紀後半の頃には
 ユダヤ人たちから
 「名前以外不明の滅んだ民族」
 という認識をされていた
 (『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節)
 ↓↑
 「ヒッタイト人 (Hittites)」
 クルガン仮説による
 黒海を渡って来た北方系民族説
 アナトリア仮説による
 アナトリア地域を故郷として拡大
 ・・・2つの説
 ↓↑
 カマン・カレホユック遺跡
    ・・・化萬・彼保愉通句?
 トルコ共和国
 クルシェヒル県
 クルシェヒル・・・句留詞重(得)比留?
 で鉄滓が発見
 ヒッタイト以前の
 紀元前18世紀頃
 アッシリア商人の植民都市が
 アナトリア半島一帯に展開した時代に
 鉄があったことが明らかにされ
 他国に青銅を輸出、輸入していた
 大量の積荷が
 海底から発見
 ↓↑
 ヒッタイト古王国
 紀元前1680年頃
 クズルウルマック・・・句事留沽磨通句?
 (赤い河)周辺に
 ヒッタイト古王国を建国
 メソポタミアなどを征服
 ヒッタイト王の称号は
 「ラバルナ」・・・等葉留名?
 で、古王国の初代王
 「ラバルナ1世」
 「ラバルナ」の名を継承した
 「ハットゥシリ1世」・・・法堂史利?
・・・服部?
        「はたおり=機織」の音約
 の個人名に由来
 ヒッタイトの君主号として定着
 ヒッタイト王妃の称号
 「タワナアンナ」
  ・・・垰(多和・乢・嵶)奈(拿)行名?
 で、初代の王妃
 「タワナアンナ」の名を継承
 紀元前1595年頃
 「ムルシリ1世」・・・務留詞理?
 率いる
 ヒッタイト古王国が
 「サムス・ディターナ」
   ・・・纂素・出意多阿名?
 率いる
 古バビロニアを滅ぼし
 メソポタミアに
 カッシート王朝を建国
 ↓↑
 ヒッタイト中王国
 紀元前1500年頃
 ヒッタイト中王国が成立
 タフルワイリ
 アルワムナ
 による王位簒奪が相次ぎ
 70年間ほど記録が少ない時代が続いた
 ↓↑
 ヒッタイト新王国
 ↓↑
 ヒッタイト軍の戦車
 紀元前1430年頃
 ヒッタイト新王国が成立
 紀元前1330年頃
 シュッピルリウマ1世は
 ミタンニを制圧
 王の息子達(テレピヌとピヤシリ)
 前線司令官
 紀元前1285年頃
 古代エジプト
 と
 シリアのカデシュで衝突
 (カデシュの戦い)
 ラムセス2世の
 エジプトを撃退
 ラムセス2世は
 勝利の記録を戦いの様子と共に
 ルクソールなどの神殿に刻んだ
 実際には
 シリアはヒッタイトが支配を続けた
 エジプト
 ラムセス王の寺院の壁に
 3人乗りの戦車で
 ラムセス2世と戦う
 ヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)
 のレリーフが描かれている
 この際
 「世界最古の講和条約」締結
 「ハットゥシリ3世」
 の王妃
 「プドゥヘパ(英 Puduhepa)」
 作の宗教詩は最古の女性の文芸作
 ヒッタイトの宗教
 は
 フルリ人・・・振る理・・・ルビ振り
 の宗教の影響を受け
 フルリ文化の色彩強まった
 ↓↑
 紀元前1190年頃
 地中海諸地域の諸種族混成集団である
 「海の民」によって滅ぼされた
 最近の研究で
 王国の末期に起こった
 3代におよぶ内紛が
 食糧難などを招き
 王国が滅亡(前1200年カタストロフ)
 ↓↑
 ヒッタイト新王国滅亡後
 遺民は
 南東アナトリアに移動
 紀元前8世紀頃まで
 「シロ・ヒッタイト国家
 (シリア・ヒッタイト)」の
 都市国家群として活動
 (紀元前1180年~紀元前700年頃)
 ・・・「シロ」が「シリア」・・・?
 ↓↑
 歴代君主
 古王国以前の支配者
 パンバ   (紀元前22世紀初頭)
 ピトハナ (紀元前18世紀)
 ピユシュティ(紀元前17世紀)
 アニッタ  (紀元前17世紀)
 トゥドハリヤ(紀元前17世紀)
 PU-シャルマ (紀元前1600年)

 古王国
 ラバルナ1世  (紀元前1600年頃?)
 ハットゥシリ1世(紀元前1586年頃~前1556年頃)
 ムルシリ1世  (前1556年頃~前1526年頃)
 ハンティリ1世 (前1526年頃~前1496年頃)
 ツィダンタ1世 (前1496年頃~前1486年頃)
 アンムナ   (前1486年頃~前1466年頃)
 フッツィヤ1世 (前1466年頃~前1461年頃)
 テリピヌ (前1460年頃)
 中王国
 タフルワイリ
 アルワムナ
 ハンティリ2世
 ツィダンタ2世
 フッツィヤ2世
 ムワタリ1世

 新王国
 トゥドハリヤ1世  (前1390年頃?)
 (以下の4代の王は
  血縁関係や在位年代が不明)
 アルヌワンダ1世
 トゥドハリヤ2世
 ハットゥシリ2世
 トゥドハリヤ3世   (前1360年~前1344年)
 シュッピルリウマ1世(紀元前1344年~紀元前1322年)
 アルヌワンダ2世  (紀元前1322年~紀元前1321年)
 ムルシリ2世    (紀元前1321年~紀元前1295年)
 ムワタリ2世    (紀元前1295年~紀元前1272年)
 ムルシリ3世    (紀元前1272年~紀元前1267年)
 ハットゥシリ3世  (紀元前1267年~紀元前1237年)
 トゥドハリヤ4世  (紀元前1237年~紀元前1209年)
 クルンタ      ?
 アルヌワンダ3世  (紀元前1209年~紀元前1207年)
 シュッピルリウマ2世(紀元前1207年~紀元前1178年)
ーーーーー
 ヒクソス(Hyksos)
 古代エジプト第2中間期
 に登場
 シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
 雑多な人々の集団が
 エジプトへ侵攻したもの・・・
 ↓↑
 トリノ王名表
 6人のヒクソス王が
 108年間在位した
 マネトの記録
 第15王朝の王も
 6人とされ
 「ヒクソス・ヒクソス政権」
 などはこの第15王朝
 ↓↑
 第15王朝を大ヒクソス
 第16王朝を小ヒクソス
 と呼ぶ場合もあり
 第16王朝については
 テーベの
 エジプト第13王朝の
 後継政権の説
 ↓↑
 「ヒクソス=異国の支配者達」
 を意味する古代エジプト語の
 「ヘカウ・カスウト」
 のギリシア語形に由来・・・希臘語?
 ↓↑
 「ヘカウ・カスウト」
 は誤って
 「羊飼い・牧人の王達」
 などと訳される・・・
 ↓↑
 ヒクソスの起源
 未解決の問題で
 ヒクソスの権力掌握の史料は
 1500年後の
 「マネト」・・・真似(儗)徒
 による記録のみ
 後代の史料は全て酷く歪曲されている・・・
 「ヘカウ・カスウト」
 外国人の首長
 アジア人を指す言葉として使用され
 中王国時代に作られ
 「ベニ・ハサン」
 に残る墳墓に
 「異国の首長(ヘカウ・カスウト)
  アビシャイ」
 が
 37人のアジア人を率いて
 エジプトへ
 産物を運ぶ光景を描いたものがある
 「ヘカウ・カスウト」
 エジプトを支配する異民族を指す呼称は
 支配異民族達が
 「ヘカ・カスウト」
 の語を尊称として使用してから・・・
 ↓↑
 エジプトを支配した「ヒクソス」が
 どのような集団であるのか、詳細不明
 エジプト学者
 ヴォルフガング・ヘルク
 や何人かの学者は
 ヒクソスとフルリ人を結びつけた
 第2中間期の層から
 発見される土器が
 北シリアで発見される
 「ハブール土器」
 「ヌジ土器」
 と
 フルリ人・・・振る理の人
 と関連付けられる土器と
 同様の装飾等を論拠としている・・・
 エジプト側で発見されている土器は
 ハブール土器
 ヌジ土器
 とも異なるが
 同じような装飾を施していることが論拠
 ↓↑
 ヒクソスの人名は
 セム語系
 言語学的に
 ヒクソス
 と
 フルリ人
 を結びつけるのも不可能・・・?
 ↓↑
 ヒクソスとの関係が明白なのは
 同時代の
 シリア・パレスチナ地方にいた
 西セム系の人々
 ヒクソスの人名に
 西セム語の要素(ヤコブ等)が見られ
 ヒクソスの時代と前後して
 アナト・・・穴門・長門・・・鳴門?
 バアル
 とシリア地方の神がエジプトに持ち込まれ
 ヒクソスと
 「アジア人」の繋がりを想定させる
 彼らの物質文化は
 「レヴァント」の文化と
 エジプトの文化の特徴が混合したもの
 神殿の建築や土器、金属加工製品の
 形式などは
 シリア・パレスチナ地方のそれと類似しているが
 同一ではない
 ロバの犠牲などの儀式が行われ
 このような習慣は
 パレスチナ地方でも見られ
 ヒクソスは
 「アジア系の異民族」などと説明されるが
 不明な点が数多くある・・・
 ↓↑
 ヒクソスの活動と
 クレタとの関係
 「アヴァリス」の遺跡(テル・アル=ダバア遺跡)
 クレタ島の
 「クノッソス宮殿」に類似した
 「牛とび」を描いた壁画の破片が発見され
 クノッソスで発見された
 第15王朝の王
 「キアン」の
 「カルトゥーシュ」名を記した
 アラバスター製水差しの蓋の存在によって
 ヒクソスとクレタ文化圏の間に交渉が明らかとなった
 「アヴァリス」
 壁画は、単なる模倣ではなく
 クレタ文化圏の人々が
 エジプトに移住していた・・・
 ↓↑
 ヒクソス
 野蛮な侵略者
 プトレマイオス朝時代
 『アイギュプティカ(エジプト史)』
 を著した
 「マネト」・・・「真似・儗」+人(徒)?
 の記録では
 ヒクソス(第15王朝)
 による支配を
 エジプトを襲った
 災厄、異民族支配として描いている
 ↓↑
 「トゥティマイオスの代に
  原因は不明であるが
  疾風の神が
  われわれを打ちのめした。
  そして
  不意に東方から
  正体不明の闖入者が威風堂々と
  わが国土に進行して来た。
  彼らは
  圧倒的な勢力を以て
  それを簒奪し
  国土の首長たちを征服し
  町々を無残に焼き払い
  神々の神殿を大地に倒壊した
  また
  同胞に対する扱いは
  ことごとく残忍をきわめ
  殺されたり
  妻子を奴隷にされたりした
  最後に彼等は
  サリティス
  という名の王を1人、指名した
  彼は
  メンフィスに拠って
  上下エジプトに貢納を課し
  最重要地点には
  守備隊を常駐させた」
  マネトの
 『エジプト史(AIGUPTIAKA)』
 ↓↑
 ヒクソスによる支配から
 エジプトを「解放」した
 テーベ
 (古代エジプト語:ネウト・ルクソール)
 政権
 (第17、第18王朝)が残した記録には
 ヒクソス支配をして
 「アジア人の恐怖」と呼ぶ・・・
  ↓↑
 「人みな
  アジア人の奴役のために衰え
  息いを知らず
  余は彼と戦い
  彼の腹を引き裂かんとす
  それすなわち
  エジプトの救出と
  アジア人の殲滅を
  余の願いとすればなり」
 かくて
 最高会議に侍る高官たちの応えて曰く
 「照覧あれ
  アジア人の恐怖は
  クサエにまで(及ぶ)」と
  彼ら
  一様に(異口同音に)応えて
  その舌ひきつりぬ・・・」
 カーメス王
 第3年の日付のテキスト
 ↓↑
 ヒクソス
 軍事力でもって
 エジプトを征服した
 異民族政権であるという見解は
 このような
 古代エジプト人の記録に加えて
 戦車、複合弓などの
 「新兵器」の使用
 シリア・パレスチナ地方に起源を持つ
 習俗、人名などの存在によっている・・・
 ↓↑
 異なるヒクソス観
 ヒクソスに関する古代エジプト人の記録は
 ヒクソスから
 エジプトを「解放」した政権による政治宣伝や
 「アジア人」に対する
 エジプト人の蔑視、偏見が強く介在し
 信憑性に問題がある物が極めて多い
 ヒクソスに関する同時代史料は
 後世のエジプト人による破壊のために
 ほとんど残されていない
 数々の文献史料や考古学的発見によって
 「アジア人」のエジプト移住が
 第1中間期から継続的に行われていた
 エジプト内部での
 単なる政権交代に過ぎない・・・説
 ↓↑
 ヒクソス(第15王朝)
 に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかで
 ヒクソスが
 エジプト文化を特に排斥した形跡はない
 逆に
 エジプトの伝統を数多く導入し
 王名も
 エジプト式に
 「カルトゥーシュ」・・・僄・乂=かる=軽=珂瑠?
 に囲んで表記された
 ヒクソスと同時代に
 彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは
 それほど強く
 「異民族支配」
 を意識することは無かった・・・
 古代中国~清王朝までの征服王朝は
 中国文化を継承、吸収発展させた・・・
 中国の各王朝は殆どが北方外来民族政権・・・?
  ↓↑
 「ヒクソス」を含む
 アジア人の移住者達は
 シリア・パレスチナ系の神々を
 エジプトに持ち込んだ
 代表的なものは
 北シリア地方の
 「嵐の神」
 で船乗りの守護神であった
 「バアル・ゼフォン」
 である。この神が
 エジプトの
 「嵐の神セト」
 と同一視されたため
 元来上エジプトの神
 「セト神」
 が下エジプト東部で強い崇拝を受けた
 ↓↑
 ヒクソスの拠点
 「アヴァリス」
  ・・・「阿部・阿倍・安部・安倍」+「里州」
     ⇔阿毎王朝
 第14王朝時代
 セト神が主神
 第14王朝の王
 「ネヘシ」
 に対する修辞の1つ
 「フト・ウアレト(アヴァリス)の主
  セト神に愛されし者」
 という表現がある・・・
 ↓↑
 葬制
 シリア・パレスチナの影響
 この時期のアジア系の人物の墓では
 頭を北に
 顔を東に
 向けるという伝統的な
 エジプトの埋葬法とは異なり
 死者の頭を南にして
    顔を東に向ける
 という埋葬法が取られており
 墓には
 シリア・パレスチナ風に
 ロバが副葬されている・・・
 ↓↑
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