KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「信用できるけど誠実ではない」

2006-04-09 12:17:33 | わたし自身のこと
昨日、就職活動をバリバリしている友人の自己分析に付き合いました。

「就職活動は小細工するより、徹底的に志望動機と自己分析を練り上げることだ!」
…ってのは、一般的なセオリーのようです。

てなわけで、友人の自己分析に付き合ったわけですが、話しているうちに、その友人の対人特性は、「誠実だけど信用できない」…と、まとめられるのではないか?という話になりました。
彼と会ったことのある方なら誰でもわかることですが、彼はともかく「胡散臭い」(笑)。その「胡散臭さ」がどこから来るのかというと、最後の最後のそのまた最後まで、自分の立場を留保したがるその狡さというか、優しさというか、慎重さというか…そんなものです。
だけど人間って、相手が自分のことをどう見ているかを常に会話の中で探りつつ、その中で自分の安心できる危険のない立ち位置を決めていくんですよね。…だから、いつまでたっても立場を留保されると、たいていの人は困惑します。で、「なに考えてるのかわからない」「胡散臭い」と言って…短気な人はさらに怒り出したりする。

可愛そうといえば、可愛そうな話です。本人は至って真面目に、真摯にあろうとしているわけですから。…ただ自分を表出しないだけで。

てなわけで、まとまったところでわたしの話になりました。…で、すぐにまとまったのが、
「信用できるけど誠実ではない」

わたしは感情的な表出が多いし、自分のことを率直に話す。それに相手の立場を侵害するような言動をすることもないから、初めて話す人でもすぐに安心した立場を確保できるし、わたしを信用することができる。
だけど関係を重ねるにつれ、あるとき突然ふと不安になるらしい。「本当のKIMISTEVAはどこにいるの?」…って。
あまりにも上手くいきすぎる。あまりにも軋轢がおきない。軋轢が起きてもすぐに「ごめんね。わたしが悪かったね」といってわたし自身が問題を回収してしまう。
…この人、本当にリアルな人間なのか?…と思うらしい。あまりにもストラテジックに対人関係をこなすから、わたしという人間そのものの姿はどんどん希薄になる。
それでもどこかに、それがあることもわかる。だからこそ、人は不安になるらしい。

「信用できるけど誠実ではない」
とりあえず自戒をこめて、この言葉を繰り返しておこう。

君と僕とは 別の人間(いきもの)だから

2006-04-07 17:06:43 | エンターテイメント
「君と僕とは 別の人間(いきもの)だから
好みが違う 歩く速さも 想いの伝え方も」
(GARNET CROW「Mysterious Eyes」より)

この曲がわたしの車で流れだしたとたん…、

「名探偵コナンか!」

…と言って苦笑するのはやめてください(笑)
けっ!ただ単にGARNET CROWが好きで何が悪いっっ!

わたしは曲を聴くときに、それほど歌詞のよさに固執するわけではない方だと思うのですが(もともと洋楽派です。歌詞わからずに聴いてました(笑))、最近は曲全体のオーラとそこに流れるコトバ(=歌詞)とが重なりあうことによて生じる、知的に美しい瞬間に魅力を感じることが多いようです。

一時期はまっていた、The Brillian Greenは「Bye Bye Mr.Mug」を歌っているときが一番好きでした。全員日本人のグループが英語で歌いきることの意味。そこで生じる軋轢とブリティッシュ・ロックのキリキリした雰囲気とが妙に合っていて、その軋轢の中から吐き出されるような「何か」を感じてましたね。なつかしい。
てなわけで、「長いためいきのように」以後はあまり好きではありません。

そんなわけで、戸川純っていいよね。
彼女だけで、そんな軋轢が曲全体に生じてしまうのが不思議です。…あれは本当に不思議。

で、今回。GARNET CROWです。
GARNET CROWは曲全体の淡々としたオーラと、歌詞全体に流れる人間に対するある種冷淡なまなざしが重なりあっているところがすき。
淡々としたオーラの中で、あまりにも冷淡でさめたまなざしが強調される一方で、それを極めたところに生じる、「やさしさ」というか「あたたかさ」というか…それがなんだか正体不明なんだけど、すごくわたしには心地よいのです。

冒頭で述べた歌詞でもそうですが、AZUKI 七の歌詞では、「人間」を「いきもの」、「生命」を「ゆめ」、「命」を「まぼろし」とルビをつけたりしているのですが、わたしには、このルビのつけかたがすごく共感できる。

人間はいきものに過ぎず、
生命なんてゆめに過ぎない。
命なんてまぼろし。

…そんなこと、わたしは毎日毎日繰り返し、唱えているような気がします。

「君と僕とは別の人間(いきもの)だから
好みが違う 歩く速さも 想いの伝え方も」

こんなさりげない一節にも、とてつもなく重いリアリティを感じるのです。
どんなに愛していても、結局は別々の人間=いきもの。
どんなに愛されたい、理解されたいと願っても、結局は理解しあうことなんて不可能。
だって、わたしたちは別の個体をもついきものなのだから。

それが「歩く速さ」や「想いの伝え方」として捉えられているところも、すごくわかる気がするんです。
歩く速さが違うとき、想いの伝え方ですれ違うときに、わたしたちは別の個体であると意識せざるを得なくて…そのことで深く傷つくから。

それでもなお、傷つけあってもなお、離さないこと。
それが大切なことだとわたしも思う。
傷つけられたその悲しみを憎しみにかえて、相手との関係を断絶することにいったいなにが生まれるというのだろうか?

「もう二度と 迷わないように
その腕を 離さないで
傷つけあう そのときも」

わたしたちは別のいきもの。
生命は一瞬のゆめに過ぎない。
それに、結局わたしたちは傷つけあう運命にあるのかもしれない。

だけど、それでもなお、一緒に生きていくこと。
そこから生まれる何かを信じること。

わたしたちにできることって、それだけなんじゃないかな、とわたしは思う。

天使のまなざし:本城直季展

2006-04-04 20:12:17 | 趣味
水戸芸術館で現在、行われている「クリテリオム:本城直季展」を観てきました。

クリテリオムには、そこで展示されている作家や作品の紹介をするペーパーがおいてあるのですが、そこで、その本城直季氏の写真を「天使の眼差し」と表現していて、それが、あまりにもわたしの感覚にフィットしていて、あまりにも美しくて、なんだか感動してしまいました。

「天使」というのは、人によってイメージがバラバラだと思うのですが、わたしにとっての「天使」は、Gothic&Lolitaカルチャーによって描かれる「天使」であり、高河ゆん『アーシアン』『ローラカイザー』によって描かれる「天使」です。

「人間って、どうしてこんなに愚かなんでしょうね…」
と言いつつ、何もしない天使。

人間が自分自身や地球を滅ぼすまでに愚かであるならば、人間など壊滅すべきだと思っている天使。

人間を愛する「天使」を断罪し、「堕天使」の烙印を押してしまうような天使。

…そんな冷徹な人間に対する眼差しに起因する、一種の「寛容さ」「あたたかさ」をもったような天使です。

そんな天使像を抱くわたしにとって「天使の眼差し」というのは、彼の写真作品をあらわすために、あまりにも正確で美しかった。
それは、もしかしたら、現在のわたしの精神状態にも影響を受けているのかもしれないけれど。

とはいえ、彼の写真を見ていない人にはなんのことかわかりませんよね。
ですから観てください。

あまりにも玩具っぽくうつされた人間、あまりにもジオラマのような風景に、人間の矮小さを感じざるを得ないはずです。
わたしが、大きくため息をついただけで吹き飛んでしまうような人間と風景。
そんなものを目の当たりにしていると、自分自身のこの存在のはかなさを思い知ってしまうような気がします。