KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

なにがあっても、自分の足で立つこと。

2006-04-18 17:15:59 | わたし自身のこと
ある日、我が家に遊びにきた友人が、悩んでいるわたしに一言。

「kimistevaはいつもそれだからなー。
大切なのはわかるけど、飼い殺しちゃダメだよ。」

………「飼い殺し」。
なんて、痛烈な批判だろうと思う。
その友人自身、わたしに「飼い殺されてる」って思ってるんだろうなぁ、なんて簡単に想像できた。

そうなのだ。
わかってる。そんなこと、わかってる。
誰のことも、結局は信用できないから、
だから、ほとんど一人芝居のように
自分の周囲の関係性を作っていく。
自分自身で、周囲の人を演出してくんだよね。

下手に戦略的で頭が良いから、
あたかも、その人にとって都合が良いように見せかけて、
結局は、自分にとって居心地の良い世界を作り上げてるだけなんだ。

わたしを傷つけない世界を、自分で作り出していく。
でも、それって、わたしの周囲の人たちに対する暴力なんだよね。

「飼い殺し」。
まさにその通りだよ。ホント、その通りだと思った。
わたしが誰かを傷つけているとしたら、その原因はこれ以外にないって思った。

思い上がるなよ、わたし。
わたしは「わたし」という個人として立つことしかできないんだから。
わたし以外に存在する誰かの世界にまで踏み込んではいけない。
その人にはその人の立ち位置があるのだから。
その人にはその人のやるべき課題があるのだから。

「分をわきまえろ」とは、まさに、このことだと思う。
わたしが他者の領域にまで浸食してはいけないのだ。
ホントに今、そう思ってる。

今、わたしは、「わたし」になろうとしているんだと思う。
最終的にはまったく他人と理解できない、わたしの視野しか持ち得ない「わたし」。
だからこそ、他人とともに歩んでいけるんだよね。
限界のあるわたし自身として。

閉じられた世界/つながる世界

2006-04-18 09:59:04 | フィールド日誌
ついに4月16日をもって、調査が終了しました。

「高校生ウィーク」関連のイベントはもうひとつ、4月23日の「芸夜」(ゲイナイト←pigeonさんが好きそうな名前だ)があるのですが、それは大学に申請した調査日程からはずれますので、パーッと遊びます。

それはともかくとして、4月16日のカフェ終了後に行われた、お疲れパーティのことを書こうと思います。
4月16日で「ちへい/cafe」終了!ということで、そのあと、その場にいたボランティアスタッフや、学芸員の方々、そしてその場に居残っていた方々とともにパーティが開かれたのです。
そのときに、高校生ウィーク担当の学芸員の方々や芸術監督の逢坂さん、そして、水戸農業高校の先生らのお話があったのですが、その中でも特に、わたしの印象に残ったのは、カフェの壁の絵を描いた岩本さんの話でした。

岩本さんは、「僕は、ずっと自分の作品を守ってきたから…」と言って、自分がいかに自分なりのアートのスタイルを守るために他者を遮断してきたかを語ったあとに…、
「自分の絵がみなさんと混じり合うのを見て、とてもうれしかったです。」
「こうやって他のものと交流することって良いことなんだなって感じることのできる場でした。」

…と、おっしゃっていました。
それが、なんていうか、
わたしにとっては、すごく、美しかった。

岩本さんの中で、長い間重ねられ、誰にも開かれることなく、作り上げられてきた一つの閉じられた世界。
それはそれで、完璧な美しさをもつもの。一つの価値をつくりあげるアートとして存在している。
だけど…、わたしはそのアートがカフェという場で他者と混じり合い、一方でその完璧な美しさを歪められながらも、他者とともにある場でちがうアートとしての意味を付与されてきた…という事実、その美しさの方を、本当に「美しい」と思う。

一人の中で完璧につくりあげられるアートも確かにある。
わたしは、長い孤独の中で醸成されてきた個人の価値観を見る瞬間が好きだ。

だけど、それ以上に、その醸成されてきた世界観が他者へと開かれるその瞬間が、たまらなく好きだ。
もちろんその瞬間に、もともとあった完璧なる世界は崩壊し、変形するのだけど、わたしはそれでいいと思う。それが美しいのだと思う。

その瞬間が好きだから、世界観がつながるその瞬間を見たいから、わたしは研究者として生きることを選んだ。個人の醸成してきた世界がつながることによって、新たなる「知」が生まれる。その瞬間が好きだから。