日々徒然なるままに

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みたまのふゆ

2017-04-12 13:41:26 | 神様等について
こんにちは。

このところぐずついていたお天気も、今日やっと青空が見えています。
久しぶりで気持ちいいですねぇ。

さてタイトルに挙げた『みたまのふゆ』という言葉、これは神道の祝詞の中で使われております。
漢字では『恩頼』と書きます。
意味としては、神様或いは天皇を敬いながら、そのお力や有難い恩恵またその加護をいう言葉とされております。
こう書くと、そうなのか、とわかるのですけれど、自分が初めて祝詞に接した際には、それこそわからない言葉だらけで
殊にこの恩頼と書いて、何故「みたまのふゆ」と読ませるのか、当然ながら全くわかりませんでした。
他にも漢字と読みがわからないものは、自分にとり多々ありまして、この言葉に限らなかったのも事実です。
(要するに、おバカなだけなんですけどね;)

ですが、祝詞に接しながら幾度となく口に出して奏上させて頂くうちに、おバカな自分ながらもおぼろげに、この言葉の
持つ有難さは、そうなんだろうなぁ、と感じてくるものがありました。
そう感じつつも、頭の中では、何故だかこの「みたま」の部分がいつのまにか漢字で「御霊」と変換して考えていたり、でも次の
「ふゆ」って、じゃぁなんなんだ?と、これまたおバカな疑問が沸いてきていました。

祝詞の中の、いわば人間から神様に向かって申し上げさせて頂く言葉ですので、疑問に思おうとも、いやいやそういうことなんだから
考えても仕方ないよ、と自分で自分に言い聞かせておったのです。

そんな疑問もいつのまにか忘れて、ごく普通に祝詞も奏上させて頂くようになっていた頃、ある一冊の文庫本が目に留まり買い求めました。
今その本をこのブログを書くにあたり、散々探したのですが見つからず;;。
ですので、内容が不確かなのをご了承いただければと思います(出てきた時点で、あらためてご紹介させて頂きますね)

その本というのは、タイトルが「ひらがなでよめばわかる日本語」といい、中西進さんという方が著された本です。
著書の中では、漢字で書くと、意味が違う目や芽も、もう一回、ひらがなに直して考えると、面白いことがわかってくるというような
内容だったと思います。
(今ネットで見ると、某○○ゾンさんにも出てますね、詳しくはそちらの方がわかりやすいかも、です^^;)

その中で、この『みたまのふゆ』という言葉も取り上げられていたと記憶しています。
というより、その部分を拝読して、まさに目からうろこ、な思いがしたんですね。
みたま、というのは、まさしく自分が考えていたように「みたま」いわば「たましい」だといっておられたかと思います。
そうして、この「みたま」が振るえる、いわば「ふ」るえることにより、我々は神様の有難い恩恵を受けるのですよ、と著されて
いたように思います。

と、書いてきて、もういっぺん本、探してきました。
ありました^^;。
読み返すと、なるほどそうなのか、とこれまた今うろこボロボロ状態ですが、それを申したいのではなく。
(毎回、しつこくてすみません;)

この御霊、魂が振るえるほどのことが有難いということなのだ、という事です。
よく魂が震えるほどの感動、とかいいますけど、もしかしてこんなところから出てきてるのでしょうか。
ふと、そんな風にも思えました。

またこの振るえる、いわば振動するということ自体、今は科学的にも全てのものが振動していると云われているようです。

ちょっとここで横道にそれますが(ずっとそれっぱなしですけどね;)、振動、って原子の状態からそうなんだそうですね。
たとえば、鉄。
あの普段、目にする状態では硬い塊ですが、それさえも原子レベルまでいくと、常に震える、つまりは振動してるのだと。
(原子というより、そのもっと小さい状況までみていくと、電子とかより小さな物で考えるのでしょうけれど、それこそ詳しくはないので、
そこの部分は今回パスです;)
世の中、全てこれ振動していないものなど、何一つないのだといわれているようです。

このことはしかし、二十世紀に入り、科学者といわれる人々により徐々に解明されてきたことだと思います。
それまでは、誰しもが硬い鉄は硬いまんま、身の回りにある机や椅子も、そのままかわりはしない、とごく普通に当然に考えられてきたと
思います。
しかし実際は違っていた、本来、ものは皆全て振動してるんだよ、と。、
音は低い振動であり、それが上がってくると今度はそれが電気になり熱になり、より高振動となると光になってくるんだよと。
(この部分、かなり端折ってますが短くいうとそうなるということですね)

自分はそれを知ったとき、ほぇ~、そうなんか、すごいねぇ、と素直に感動、まさに心震える、そんな思いがしたのでした。

科学の進歩ってすごいよねぇ、とも感じたのですが、ここで先ほどの「みたまのふゆ」に戻ると。
「ひらがなで・・・」の著者、中西氏も書いておられますが、古の頃、やまとことばを使っていた頃の人々は、既にこの魂が「ふるえる」という
事実を知っていたのでは、ということを述べておられますね。(私の稚拙なダラダラ解説より、当然、より理路整然と書かれております)
このことをこの本で知り、我々現代人より古の人々は、遥かに物事を深く知り、探求し、またより素直に表現していたのではないのか、と。

先に振動は高くなるにつれ、光になると書きましたが、そう考えると古代の人々は神様はその光そのものだと既に考えていたのではと思います。

光り輝くような存在、そのようなものを目の当たりにしたとき、人は魂震えるような思いをしたのではないのか、だからこそ神様からの恩恵を
「みたまのふゆ」という言葉に託して、有難いこととして言い表したのではないのか、そう思いました。

目の前に現れる眩しい光、それこそを神様として感じ取り、有難いと感謝していたのではと思います。

言葉にすると、とても短い「みたまのふゆ」
しかしながら、その中には深淵かつ荘厳な響きが込められているのでしょうね。










コメント (2)
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